第2話 アジの悲鳴は、データより早い
本日は2話投稿です。
翌朝、潮凪漁協の作業場には、潮と油の匂いが満ちていた。
水族館から車で十分。湾沿いの道を走っている間、海はまだ穏やかに見えた。春の陽を受けて、鈍い銀色に光っている。三日後に赤く染まるなど、誰が信じるだろう。
だからこそ、難しい。
見えない危機ほど、人は動かない。
蒼真が作業場に入ると、網を直していた男たちの視線が一斉に向いた。長靴。作業着。日に焼けた腕。研究室とはまるで違う空気だった。
「水族館の新しい館長?」
声をかけてきたのは、三十代後半くらいの男だった。背は高く、腕が太い。作業着の胸には「黒潮」と刺繍されている。
「黒潮ミナトだ。あんたが海一郎さんの孫か」
「水瀬蒼真です。祖父がお世話になりました」
「世話になったのはこっちだよ。あの爺さん、変人だったけどな」
ミナトは笑った。敵意はない。だが、簡単に信用するつもりもなさそうだった。
「で、何の用だ」
「赤潮の可能性があります。湾奥のいけすだけでも、警戒してもらえませんか」
空気が少し変わった。
近くで網を直していた漁師が顔を上げる。ミナトの表情から笑みが消えた。
「根拠は?」
「水温、栄養塩、溶存酸素、風向き、潮位。条件が揃っています。過去の赤潮発生時に近い」
「今、海は赤いか?」
「まだです」
「魚は浮いてるか?」
「まだです」
「なら、船を止めろとか、いけすを動かせとかは無理だ」
ミナトの声は冷静だった。怒ってはいない。だからこそ、言葉が重い。
「餌止めや水質確認だけでも」
「餌を止めれば成長に響く。酸素を回せば金がかかる。外れたら誰が責任を取る?」
蒼真は言葉に詰まった。
研究室でなら、可能性を示せば議論が始まる。だが、現場では違う。警告は、そのまま誰かの損失になる。
「大学の先生は簡単に言うんだよ。危ないかもしれません、様子を見てくださいってな」
ミナトが低く言った。
「でもこっちは、それで飯食ってる」
大学の先生。
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
「俺はもう大学の人間じゃありません」
「そうか。なら余計に難しいな」
周囲の漁師たちが小さく笑った。馬鹿にするというより、困った若造を見ている空気だった。
蒼真は拳を握った。
ウミガメが言いました。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。いや、楽ではない。言ったところで、誰も動かない。
声を、証拠に変えろ。
祖父の言葉が、頭の中で響いた。
そのときだった。
漁協の奥にある活魚水槽で、アジが一斉に跳ねた。
ばしゃん、と水が床に飛ぶ。
「なんだ、また暴れてるのか」
漁師の一人が舌打ちした。
「また?」
蒼真が振り向いた瞬間、頭の中に細い声が刺さった。
――からい。
息が止まった。
――にげたい。
――水が、刺す。
――えら、いたい。
声は一つではなかった。小さく、弱く、途切れ途切れに重なっている。
アオの声とは違う。アオの言葉が古い岩のようだとすれば、アジたちの声は割れたガラスの破片だった。意味ははっきりしない。けれど、苦痛だけは分かる。
「この水槽、いつ海水を入れましたか」
蒼真は水槽に駆け寄った。
ミナトが眉をひそめる。
「昨日の夕方だ。港の水を回してる」
「測らせてください」
「おい、勝手に――」
「三分でいい。お願いします」
蒼真は鞄から携帯用の水質計を取り出した。七瀬凛に借りたものだ。プローブを水に入れる。
数値が表示される。
溶存酸素、低い。pH、わずかに低下。水温、高め。
「……やっぱり」
「何がやっぱりだ」
ミナトが近づく。
蒼真は画面を見せた。
「酸素が落ちています。pHも下がってる。この水、見た目は透明でも、魚にはかなりきついはずです」
「昨日の港の水だぞ」
「だからです。湾奥の水が、もう変わり始めている可能性があります」
またアジが跳ねた。
――にげたい。
――せまい。
――からい。
――くるしい。
蒼真は水槽の魚を見た。口の開閉が速い。群れが落ち着かない。泳ぐ層が乱れている。
数字だけではない。
魚が、先に気づいている。
「ミナトさん。湾奥のいけすに連絡してください。餌食いが落ちていないか。魚が上ずっていないか。水を測れるなら、今すぐ」
「だから、あんたの予測だけで――」
「予測だけじゃありません」
蒼真は水槽を指した。
「このアジが、もう反応しています」
ミナトの目が細くなった。
「魚がそう言ったってか?」
蒼真は一瞬、黙った。
ここで誤魔化せば、昨日までの自分と同じだ。だが、本当のことを全部言えば、狂人扱いされる。
だから、言い方を変えた。
「魚の呼吸が速い。群れが崩れている。跳ね方も逃避行動に近い。水質計の数値も一致しています。これは、動く理由になります」
ミナトは活魚水槽を見た。
アジがまた一匹、弱く跳ねる。
漁師は魚を見る。その目は、研究者の目とは違う。数式でも論文でもない。毎日、命と金を同時に扱ってきた人間の目だった。
ミナトは舌打ちした。
「……湾奥の連中に電話しろ」
周囲の漁師たちが動いた。
「餌食い確認。水も測れるなら測れ。あと、酸素の予備、見とけ」
「ミナトさん?」
「念のためだ。念のため!」
ミナトは蒼真を睨んだ。
「外れたら、笑われるのはこっちだからな」
「分かっています」
「分かってねえよ。海で外すってのは、誰かの明日の飯を削るってことだ」
その言葉を、蒼真は黙って受け止めた。
数分後、湾奥のいけすから連絡が返ってきた。
一件目。朝から餌食いが悪い。二件目。魚が上に集まり気味。三件目。まだ異常なし。
ミナトの顔つきが変わった。
「……おい、酸素回せ。餌は一旦止めろ。水の入れ替えは慎重にやれ。港の水も信用するな」
作業場の空気が一気に慌ただしくなった。
誰も、蒼真を笑わなくなった。
活魚水槽のアジたちは、まだ苦しそうに泳いでいる。蒼真は酸素供給の調整を手伝いながら、記録を取った。
日時、場所、水温、pH、溶存酸素、アジの行動、聞こえた断片。
からい。
にげたい。
水が刺す。
えら、いたい。
証拠になるかは分からない。だが、記録しなければ、何も残らない。
昼過ぎ、水族館に戻ると、凛が小型魚展示の前で子どもに説明していた。
「魚も、苦しいときは泳ぎ方が変わるんです。だから飼育員は、毎日よく見ています」
子どもが水槽を覗き込む。
「魚って、しゃべれないのに?」
凛は少し考えてから答えた。
「しゃべれないから、よく見るんです」
蒼真は足を止めた。
しゃべれないから、よく見る。
たぶん、それが祖父の仕事だった。そして、本来なら自分の研究も、そこに戻るべきものだった。
午後、蒼真は館長室で祖父のノートを開いた。
ページには、短い記録が並んでいる。
アオ、苦い。三日後、小規模赤潮。
アジ、からいように跳ねる。港水注意。
ユラ、白い雨と言う。意味不明。要観察。
クロ、底を嫌がる。音響ログ確認。
守屋、再接触。注意。
守屋。
その名前で、指が止まった。
奪われた研究。大学のプレスリリース。海洋開発企業。祖父のノート。赤潮の予兆。
まだ点でしかない。だが、嫌な形に繋がり始めている。
夕方、大水槽の前に立つと、アオは水槽の底でじっとしていた。
「漁協は動いた。まだ全部じゃないけど」
――小さいものから先に気づく。
低い声が響いた。
――弱いもの。逃げられぬもの。声の小さいもの。
「アジのことか」
――海は、強いものから壊れるのではない。弱いところから、ほどける。
蒼真はスマートフォンを取り出した。
「明日、赤くなるのか」
アオはゆっくりと首を動かした。
――明日、赤いものが浮く。
水槽の青が、少し暗く見えた。
「被害が出るのを待つしかないのか」
――違う。
アオの黒い瞳が、蒼真を見た。
――聞こえたなら、先に動け。
その言葉は、祖父の声にも似ていた。
夜。閉館後の水族館は、昼間よりもずっと海に近い。
客の声が消え、照明が落ち、ポンプの音と水の揺れる音だけが残る。蒼真は館長室で、今日の記録をまとめた。
水族館の取水制限。漁協活魚水槽の異常。湾奥いけすの餌食い低下。予備酸素の準備。明日の採水予定。
そこまで書いて、手が止まった。
自分は今、何をしているのだろう。
昨日まで大学を追われた研究者だった。今日からは、赤字水族館の新米館長。しかも、ウミガメやアジの声が聞こえるかもしれない。
まともではない。
まともではないが、魚は苦しんでいた。アオの予測と祖父の記録は一致していた。漁協は動いた。
なら、今はそれでいい。
不意に、館長室の古い内線電話が鳴った。
蒼真は受話器を取った。
「はい」
『水瀬さん、凛です。地下の機械室で、変な音がしています』
「ポンプですか?」
『いえ。ポンプとは違います。もっと低い……海の底から響くみたいな音です』
蒼真の背筋が冷えた。
机の上には、祖父の封筒に入っていた小さな鍵がある。
蒼真はそれを握りしめ、館長室を出た。
大水槽の前を通ると、アオの声が響いた。
――底が鳴っている。
「何の音だ」
――人間の音だ。
水槽の奥で、アオはゆっくり目を閉じた。
――また、海を掘る音だ。
蒼真は足を止めなかった。
声を、証拠に変えろ。
祖父の言葉が、夜の水族館に響いていた。
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