表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潰れかけ水族館を継いだ俺だけが、生き物の声を聞ける件 〜「水が苦い」と呟くウミガメの予言を信じたら、研究を奪った教授を破滅させました〜  作者: 烏賊亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

第2話 アジの悲鳴は、データより早い

本日は2話投稿です。

翌朝、潮凪漁協の作業場には、潮と油の匂いが満ちていた。

水族館から車で十分。湾沿いの道を走っている間、海はまだ穏やかに見えた。春の陽を受けて、鈍い銀色に光っている。三日後に赤く染まるなど、誰が信じるだろう。

だからこそ、難しい。

見えない危機ほど、人は動かない。

蒼真が作業場に入ると、網を直していた男たちの視線が一斉に向いた。長靴。作業着。日に焼けた腕。研究室とはまるで違う空気だった。

「水族館の新しい館長?」

声をかけてきたのは、三十代後半くらいの男だった。背は高く、腕が太い。作業着の胸には「黒潮」と刺繍されている。

「黒潮ミナトだ。あんたが海一郎さんの孫か」

「水瀬蒼真です。祖父がお世話になりました」

「世話になったのはこっちだよ。あの爺さん、変人だったけどな」

ミナトは笑った。敵意はない。だが、簡単に信用するつもりもなさそうだった。

「で、何の用だ」

「赤潮の可能性があります。湾奥のいけすだけでも、警戒してもらえませんか」

空気が少し変わった。

近くで網を直していた漁師が顔を上げる。ミナトの表情から笑みが消えた。

「根拠は?」

「水温、栄養塩、溶存酸素、風向き、潮位。条件が揃っています。過去の赤潮発生時に近い」

「今、海は赤いか?」

「まだです」

「魚は浮いてるか?」

「まだです」

「なら、船を止めろとか、いけすを動かせとかは無理だ」

ミナトの声は冷静だった。怒ってはいない。だからこそ、言葉が重い。

「餌止めや水質確認だけでも」

「餌を止めれば成長に響く。酸素を回せば金がかかる。外れたら誰が責任を取る?」

蒼真は言葉に詰まった。

研究室でなら、可能性を示せば議論が始まる。だが、現場では違う。警告は、そのまま誰かの損失になる。

「大学の先生は簡単に言うんだよ。危ないかもしれません、様子を見てくださいってな」

ミナトが低く言った。

「でもこっちは、それで飯食ってる」

大学の先生。

その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。

「俺はもう大学の人間じゃありません」

「そうか。なら余計に難しいな」

周囲の漁師たちが小さく笑った。馬鹿にするというより、困った若造を見ている空気だった。

蒼真は拳を握った。

ウミガメが言いました。

そう言えたら、どれだけ楽だろう。いや、楽ではない。言ったところで、誰も動かない。

声を、証拠に変えろ。

祖父の言葉が、頭の中で響いた。

そのときだった。

漁協の奥にある活魚水槽で、アジが一斉に跳ねた。

ばしゃん、と水が床に飛ぶ。

「なんだ、また暴れてるのか」

漁師の一人が舌打ちした。

「また?」

蒼真が振り向いた瞬間、頭の中に細い声が刺さった。

――からい。

息が止まった。

――にげたい。

――水が、刺す。

――えら、いたい。

声は一つではなかった。小さく、弱く、途切れ途切れに重なっている。

アオの声とは違う。アオの言葉が古い岩のようだとすれば、アジたちの声は割れたガラスの破片だった。意味ははっきりしない。けれど、苦痛だけは分かる。

「この水槽、いつ海水を入れましたか」

蒼真は水槽に駆け寄った。

ミナトが眉をひそめる。

「昨日の夕方だ。港の水を回してる」

「測らせてください」

「おい、勝手に――」

「三分でいい。お願いします」

蒼真は鞄から携帯用の水質計を取り出した。七瀬凛に借りたものだ。プローブを水に入れる。

数値が表示される。

溶存酸素、低い。pH、わずかに低下。水温、高め。

「……やっぱり」

「何がやっぱりだ」

ミナトが近づく。

蒼真は画面を見せた。

「酸素が落ちています。pHも下がってる。この水、見た目は透明でも、魚にはかなりきついはずです」

「昨日の港の水だぞ」

「だからです。湾奥の水が、もう変わり始めている可能性があります」

またアジが跳ねた。

――にげたい。

――せまい。

――からい。

――くるしい。

蒼真は水槽の魚を見た。口の開閉が速い。群れが落ち着かない。泳ぐ層が乱れている。

数字だけではない。

魚が、先に気づいている。

「ミナトさん。湾奥のいけすに連絡してください。餌食いが落ちていないか。魚が上ずっていないか。水を測れるなら、今すぐ」

「だから、あんたの予測だけで――」

「予測だけじゃありません」

蒼真は水槽を指した。

「このアジが、もう反応しています」

ミナトの目が細くなった。

「魚がそう言ったってか?」

蒼真は一瞬、黙った。

ここで誤魔化せば、昨日までの自分と同じだ。だが、本当のことを全部言えば、狂人扱いされる。

だから、言い方を変えた。

「魚の呼吸が速い。群れが崩れている。跳ね方も逃避行動に近い。水質計の数値も一致しています。これは、動く理由になります」

ミナトは活魚水槽を見た。

アジがまた一匹、弱く跳ねる。

漁師は魚を見る。その目は、研究者の目とは違う。数式でも論文でもない。毎日、命と金を同時に扱ってきた人間の目だった。

ミナトは舌打ちした。

「……湾奥の連中に電話しろ」

周囲の漁師たちが動いた。

「餌食い確認。水も測れるなら測れ。あと、酸素の予備、見とけ」

「ミナトさん?」

「念のためだ。念のため!」

ミナトは蒼真を睨んだ。

「外れたら、笑われるのはこっちだからな」

「分かっています」

「分かってねえよ。海で外すってのは、誰かの明日の飯を削るってことだ」

その言葉を、蒼真は黙って受け止めた。

数分後、湾奥のいけすから連絡が返ってきた。

一件目。朝から餌食いが悪い。二件目。魚が上に集まり気味。三件目。まだ異常なし。

ミナトの顔つきが変わった。

「……おい、酸素回せ。餌は一旦止めろ。水の入れ替えは慎重にやれ。港の水も信用するな」

作業場の空気が一気に慌ただしくなった。

誰も、蒼真を笑わなくなった。

活魚水槽のアジたちは、まだ苦しそうに泳いでいる。蒼真は酸素供給の調整を手伝いながら、記録を取った。

日時、場所、水温、pH、溶存酸素、アジの行動、聞こえた断片。

からい。

にげたい。

水が刺す。

えら、いたい。

証拠になるかは分からない。だが、記録しなければ、何も残らない。

昼過ぎ、水族館に戻ると、凛が小型魚展示の前で子どもに説明していた。

「魚も、苦しいときは泳ぎ方が変わるんです。だから飼育員は、毎日よく見ています」

子どもが水槽を覗き込む。

「魚って、しゃべれないのに?」

凛は少し考えてから答えた。

「しゃべれないから、よく見るんです」

蒼真は足を止めた。

しゃべれないから、よく見る。

たぶん、それが祖父の仕事だった。そして、本来なら自分の研究も、そこに戻るべきものだった。

午後、蒼真は館長室で祖父のノートを開いた。

ページには、短い記録が並んでいる。

アオ、苦い。三日後、小規模赤潮。

アジ、からいように跳ねる。港水注意。

ユラ、白い雨と言う。意味不明。要観察。

クロ、底を嫌がる。音響ログ確認。

守屋、再接触。注意。

守屋。

その名前で、指が止まった。

奪われた研究。大学のプレスリリース。海洋開発企業。祖父のノート。赤潮の予兆。

まだ点でしかない。だが、嫌な形に繋がり始めている。

夕方、大水槽の前に立つと、アオは水槽の底でじっとしていた。

「漁協は動いた。まだ全部じゃないけど」

――小さいものから先に気づく。

低い声が響いた。

――弱いもの。逃げられぬもの。声の小さいもの。

「アジのことか」

――海は、強いものから壊れるのではない。弱いところから、ほどける。

蒼真はスマートフォンを取り出した。

「明日、赤くなるのか」

アオはゆっくりと首を動かした。

――明日、赤いものが浮く。

水槽の青が、少し暗く見えた。

「被害が出るのを待つしかないのか」

――違う。

アオの黒い瞳が、蒼真を見た。

――聞こえたなら、先に動け。

その言葉は、祖父の声にも似ていた。

夜。閉館後の水族館は、昼間よりもずっと海に近い。

客の声が消え、照明が落ち、ポンプの音と水の揺れる音だけが残る。蒼真は館長室で、今日の記録をまとめた。

水族館の取水制限。漁協活魚水槽の異常。湾奥いけすの餌食い低下。予備酸素の準備。明日の採水予定。

そこまで書いて、手が止まった。

自分は今、何をしているのだろう。

昨日まで大学を追われた研究者だった。今日からは、赤字水族館の新米館長。しかも、ウミガメやアジの声が聞こえるかもしれない。

まともではない。

まともではないが、魚は苦しんでいた。アオの予測と祖父の記録は一致していた。漁協は動いた。

なら、今はそれでいい。

不意に、館長室の古い内線電話が鳴った。

蒼真は受話器を取った。

「はい」

『水瀬さん、凛です。地下の機械室で、変な音がしています』

「ポンプですか?」

『いえ。ポンプとは違います。もっと低い……海の底から響くみたいな音です』

蒼真の背筋が冷えた。

机の上には、祖父の封筒に入っていた小さな鍵がある。

蒼真はそれを握りしめ、館長室を出た。

大水槽の前を通ると、アオの声が響いた。

――底が鳴っている。

「何の音だ」

――人間の音だ。

水槽の奥で、アオはゆっくり目を閉じた。

――また、海を掘る音だ。

蒼真は足を止めなかった。

声を、証拠に変えろ。

祖父の言葉が、夜の水族館に響いていた。

是非、いいね・ブックマークをお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ