第87話『人探し』
厨房の方から、軽い足音と共に焼きたての小麦の香りが戻ってきた。
先ほど受付で水を出してくれた少女が、両手に大きな盆を抱えてこちらへ歩いてくる。盆の上には、薄く切られた丸パンと、深い木椀に入ったスープが三人分乗っていた。後ろからは、厨房にいたらしい大柄な男性が追加の皿を持って続いている。彼は無骨な腕にパン粉らしき白い粉をつけたまま、照れ臭そうに会釈した。
パパと呼んでいたことからも分かる通り、この宿屋の料理人は彼女のお父さんだったわけだ。
「お待たせしました。焼きたてなので、熱いですよ」
「ありがとう」
私たちは食堂の端の席へ案内され、そこで軽く腰を落ち着けることになった。
丸い卓はよく磨かれており、表面には細かな傷が無数に入っている。窓の外では楠の枝が揺れ、葉の影が薄く卓の上へ落ちていた。
昼過ぎとはいえ、なんとも穏やかな空気だ。眠くなってしまうよ……。
出されたパンは、皮が薄く張っていて、割ると中から白い湯気がふわりと立った。小麦の香ばしさに、ほんの少しだけ木の実の甘い香りが混じっている。スープは淡い乳白色で、細かく刻まれた根菜と、豆らしきものがゆっくり沈んでいた。表面には香草の油が小さな輪を作り、匙を入れると底の方からとろりとした重みが返ってくる。
「おお……」
思わず声が漏れた。
私はパンを左手で千切り、スープへ少し浸してから口へ運んだ。
ロヨンは大きな手で器用に匙を扱い、スープを一口飲んでから目を細めた。普段は得体の知れない賢者めいた雰囲気を纏っているのに、温かい汁物を前にすると、その面も形無しだ。
「ほほ、これは良いですな。体が温まります」
モリアはパンを両手で包むように持ち、しばらく香りを確かめていた。フードの奥から覗く枝の輪郭が、楠の葉陰と重なって少しだけ目立たなくなるのはご愛嬌だ。彼女は小さくパンを千切り、慎重に口元へ運んだ。
「……美味しいです」
その声音は少しだけ柔らかい。うん、いいね。こういう地味な喜びが大切なのだ。廃墟で蜘蛛の前脚を剥ぎ、地下で機械の残骸と戯れ、荒野を歩いてきた身としては、焼きたてのパンと温かなスープだけで文明の勝利を感じる。
私はそんなことを考えながら、視界の端へメッセージ欄を開いた。
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宿が決まりました。
西門市場から少し入ったところにある【小麦香る楠亭】です。食事を取りながら簡単に予定を確認してから、大聖殿方面へ向かいます。
今はどの辺りにいますか?
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送信、と。
焼きたてのパンをもう一口かじる。外側の薄い皮が小さく割れ、中の柔らかい部分がスープを吸って舌の上でほぐれた。
「ヤトさんへ連絡ですか?」
私の様子を見て、モリアが尋ねる。
「うん。宿が決まったからね。さっさと合流して、大聖殿を軽く確認。それから、機神様の小祭壇へ向かうかどうかを相談する。今日の残り時間を考えると、街の外まで行くのは少し慌ただしいかもしれないけれども」
「まずは顔を合わせるのが先でしょうな」
ロヨンが頷いた。
「ヤト殿の恩寵も、直接確認した方がよろしいかと。テイマーでありながら獣に避けられるというのは、なかなか……」
「なかなか面白いよね」
私の言葉に呆れた表情が返ってくる。ん、なんでそんな顔をしているんだ?
「……ルイス殿」
「もちろん本人にとっては切実だろうさ」
私は軽く肩を竦めた。
「ただ、凄くらしいと思わない? モンスターを仲間にしたい人間に、まずモンスターへ近づけない試練を渡す。嫌がらせみたいに見えて、越えたらきっと面白いことになるよ!実にポラリス的だよ」
「悪趣味です」
モリアがきっぱりと言った。
「そこが良いんじゃないか」
「それはそうですけれども」
やり取りの途中で、ヤトから返信が届いた。
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了解です。
私はもう大聖殿前の広場にいます。正面階段が見える辺りにいるのですが、人が多いので少し探しにくいかもしれません。
見た目は普通のヒューマンです。くたびれた中年男性を探してください。
ルイス君たちは見れば分かると思うので、こちらからも探してみます。
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「くたびれた中年男性」
私は思わず読み上げてしまった。
ロヨンが匙を持ったまま、何とも言えない顔をする。
「ご本人がそう仰っているので?」
「そうらしい」
モリアは口元へ手を当てた。どう見ても笑っているが、笑い声を漏らさないあたりしっかりしているなあ、と。
「では、普通のヒューマンを探すのですね」
「そうなる。問題は、大聖殿前の広場にどれくらい普通のヒューマンがいるかだ」
アルラスは大国の第一都市である。それだけに住人も旅人も多いだろう。さらにGoAのプレイヤーは、普通のヒューマンを選ぶような人間ばかりではない。むしろ、これまで見た限りでは、せっかくのキャラメイクだからと種族欄で理性を捨てた者たちがかなりいる。
人探しという名の異形観察会になりそうな予感がした。であるからこその、ヒューマンなのだろう。態々そこに言及したことの意図も、きっとそれを受けてのことだ。
軽い食事を終えた私たちは、女将に声をかけてから小麦香る楠亭を出た。宿の外へ出ると、昼過ぎの光が白壁と石畳に反射していた。
西門市場から少し外れたこの通りは、先ほどよりもずっ落ち着いた雰囲気をしている。通りの奥では桶を持った少年が店先へ水を撒き、濡れた石畳が暗く艶を帯びていた。
「大聖殿は……あれか」
建物の間から、白い尖塔が見えた。
遠くからでも分かる。複数の細い塔が空へ伸び、その間に巨大な屋根の稜線が覗いている。街のどこにいても見えるよう、わざわざ高い場所へ建てられているのだろう。白い石は陽を受けて淡く輝き、尖塔の先についた金属飾りが時折キラリと鋭く光った。
「あそこを目指せば迷わないね」
「大きいというのは、それだけで優秀な案内になるんですね」
モリアの言葉に頷き、私たちは歩き出した。
西門通りへ戻るまでの細道には、宿屋や小さな食堂が並んでいた。扉の上にはそれぞれ簡素な看板があり、葡萄房、魚の骨、丸い盾、枝をくわえた鳥など、文字が読めなくとも何の店か分かるよう工夫されている。二階部分が通りへ少し張り出した木組みの建物も多く、上から吊るされた洗濯物が風を受けて小さく揺れていた。
角を曲がると、通りの空気が一気に濃くなる。西門市場の端に出たのだ。さっきまで宿の中で感じていた落ち着いた小麦の匂いは、街の喧騒に飲まれて一瞬で淡くなった。
散策はしたい。物珍しいものも多いしね。モリアなど、薬草の露店を見る度にそちらへ視線を引っ張られている。ロヨンも神殿関連の古本を扱うらしい店の前でわずかに歩調を緩めた。だが、今の最優先目標はヤトとの合流なのだ。
「帰りに寄ろう」
「……はい」
「ロヨンもね」
「……承知しております」
二人の返事を聞きながら、私は通りに立つ柱に吊るされた案内板を確認した。木製の柱に、各方面を示す板が取り付けられていたり、吊るされているのが面白い。大聖殿を示す板には小さな白い塔の絵が刻まれていた。
そこから先は、道が少しずつ広くなっていった。
建物の様相も変わる。市場周辺の木組みと白壁の家々から、より石材を多く使った古く重厚な建築へ。窓枠には色付きの硝子が嵌められ、壁面には麦穂や盾、獣の横顔を模した不思議な彫刻が続く。
大聖殿の尖塔は、建物の切れ間から常に見えた。
角を曲がっても、細い通路を抜けても、屋根の上から白い先端が顔を出す。距離が縮むにつれ、塔はただの目印ではなく、街全体の上に置かれた巨大な存在感を帯びていった。鐘の音が一つ鳴るたび、その音に耳を澄ませるのか周囲の人々の会話が柔らかくなる。信仰というものが生活に食い込んでいる街なのだと、歩いているだけで理解できた。
やがて、道の先がパッと開けた。目的地である大聖殿前の広場だ。
人の声、呼び込み、笑い声、祈りの前に囁くような言葉、旅人同士が待ち合わせを確認する声。広場の縁には屋台がいくつも並び、布屋根の下から湯気と香りが立ち上っている。
「温かい豆スープだよ! 西門帰りの旅人さん、冷えた体に一杯どうだい!」
「白蜜パン、焼きたてです! 大聖殿へ祈りに行く前にどうぞ! 薄焼き、白蜜たっぷり、持ち歩きもできますよ!」
聞き覚えのある単語に、私は少しだけ笑った。
掲示板で見た黄色い豆のスープと、大聖殿前の白蜜パンだ。豆スープの屋台からは、確かに豆を煮詰めた甘い香りと香草の刺激が漂っていた。白蜜パンの屋台では、丸い鉄板の上で薄いパンが焼かれ、刷毛で塗られた白い蜜が陽を受けて光っている。
「白蜜パン……」
モリアが小さく呟いた。
「今食べたばかりだよ」
「見ていただけです」
「本当に?」
「本当です」
まあ、帰りに買ってもいい。祈祷効率が上がるかもしれない軽食というのは、少し試したいところだしね。
広場は想像以上に広かった。中央に大きな噴水があり、その周囲を人々が自由に行き交っている。噴水の縁には、複数の神を象徴する小さな意匠が並び、水面には白い花弁のようなものが浮かんでいた。奥には大聖殿へ続く幅広い階段があり、その上に巨大な正面扉が見える。
そして、なによりも旅人が多い。
見渡して目に入ったのは、頭部が透明な瓶のようになっている男だった。瓶の中には黒い水が揺れ、その中で小さな光点が魚のように泳いでいる。首から下は人間に近いが、動くたびに頭の中の水がちゃぷんと揺れ、本人はそれを気にする様子もなく原理不明の口で白蜜パンをかじっていた。
その隣を、腰から下が百足のように節だらけの女性が通り過ぎる。上半身は端正なヒューマン風なのに、長い胴体が石畳の上を滑るようにスルスルと進み、背中には薬草の束ががびっしり吊るされていた。
噴水の近くには、鹿の頭骨を逆さに被ったような旅人がいた。角の先に小さな紙片を結び、紙片には細かい文字がびっしり書き込まれている。頭骨の眼窩の奥で青い火が瞬き、周囲の子供たちが一定の距離を保ちながら興味津々で見上げていた。
「やっぱりやばいな」
私は素直に呟いた。
「今さらでは?」
モリアが冷静に返す。
「今さらではあるか」
ただ、こうして大都市の広場で大量の異形を見ると、改めて実感が湧く。私たち三人も相当なものだが、母数が増えれば上には上がいるのだ。その事実に少し安心し、同時に微かなつまらなさも覚える。
埋没できるのは有難いことなのだが、特別でありたい時にはきっと邪魔になるのだろう。
まあ、そんなことよりもヤトだ。
《視界に入る人物の特徴を抽出し、対象の探索を行いますか》
「ああ、頼むよ。ヒューマン、男性、中年、テイマーらしさは……装備からは分からないか。くたびれている、というのも考慮してね」
《了解しました。視認範囲内の該当候補を抽出します》
視界の端に淡い枠がいくつか浮かぶ。
普通のヒューマン男性は、思ったより多かった。巡礼者風の老人、護衛らしい中年、荷物持ちの商人、白蜜パンを両手に持って立ち尽くす若い男。くたびれている、という条件を入れても候補は減りきらない。大都市の広場では、大抵の人間がどこかしらくたびれているものなののだ。
「ルイスさんたちは見れば分かる、と言っていましたよね」
「こっちから探すより、向こうに見つけてもらった方が早い可能性があるのか」
「でしたら、あまり動きすぎない方がよろしいのでは?」
ロヨンの意見ももっともだ。
とはいえ、突っ立っているのも邪魔になるか。私たちは噴水の周囲をゆっくり回りながら、大聖殿に繋がる正面階段辺りを探すことにした。
白蜜パンの屋台の前を通り、豆スープの屋台を過ぎる。
巡礼者の一団が横を過ぎ、彼らの衣の裾に縫われた神紋がちらりと見えた。子供が噴水の縁で水に浮かぶ花弁を拾おうとして母親に注意され、羽の生えた小柄な旅人が階段下で地図を逆さに持って悩んでいる。
そんな時だった。
「ルイス君」
背後から、聞き覚えのある柔らかな声がした。
私は振り向く。
そこに立っていたのは、まさにくたびれたおじさんの風貌をした、一人のヒューマンだった。
少し癖のある黒髪。眠そうで、けれど人の良さそうな目元。革鎧というには頼りなく、普段着というにはしっかりとした装備。腰には短い杖とも棒ともつかないものを差し、肩には布製の小さな鞄を提げている。
彼は困ったように笑いながら、軽く片手を上げた。
「いやあ、見つかって良かった。君たち、思っていたよりずっと目立つねえ」
ヤトだった。
色々あって執筆が思うように進まないながらも、少しづつ作業を続けていますので、今しばらくお待ちを。




