第86話『小麦香る楠亭』
数日お休みした分、今日は少し多めに更新しますね。
紹介された道を進むと、市場の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。
大通りから一本外れただけで、ここまで空気の流れが変わるものなのか……。荷車の音はスっと薄くなり、代わりに木槌で何かを打つ音や、店先で交わされる穏やかな取引の声が聞こえてきた。通りの幅は十分にあるが、露店の密度は下がり、両側には宿や食堂、小さな雑貨屋が並んでいる。
そんな隘路をしばらく歩くと、確かに辺りを包む香りが変わった。
香辛料や獣脂のツンとした重い匂いが薄れ、代わりに焼けた小麦の甘い香りが流れてくる。機械の身体で拾うそれは、人間の鼻で嗅ぐ匂いとは違うはずなのに、どういうわけか胸の奥を落ち着かせるようなものだった。
「うーん、これは……いいね」
《周辺に焼成された穀物由来の成分を検出》
「マリー、パンの匂いって言って」
《パンの匂いを検出》
「よろしい」
モリアが小さく笑い、ロヨンも楽しげに肩を揺らした。
大通りと比較して狭いながらも先まで延びるこの通りの脇に、何やら大きな木が見えた。あれが楠なのだろうか。幹は太く、枝は宿の屋根へ影を落とすほど広がっている。根元は低い石垣で囲われ、そこには小さな花と麦穂が飾られていた。
宿そのものは三階建てで、木材と石の白壁を組み合わせた落ち着いた外観をしている。派手ではないが、丁寧に手入れされているのが一目で分かった。
「おお」
なんとも気持ち良い外観である。落ち着く……。
軒先には乾いた麦穂の束が吊るされ、風に揺れるその度に、触れ合った穂先がかさりと小さな音を立てる。木組みの繊細な彫刻が施された窓から見える奥には、石造りの大きな焼き窯らしきものがチラリと見え、そこから柔らかな熱と香ばしい匂いが漂っていたのが分かった。
入口の横に掛けられた木札には、丸みのある文字でこう書かれている。
小麦香る楠亭。
「ここが紹介された宿か」
私は看板を見ながらそう呟いた。
宿の中からは、静かな話し声と、カチンカチンと食器の触れ合う音が聞こえる。市場の喧騒とは違う、少し低くて落ち着いたざわめきだ。
どうやら、あの宿主の話の通り、かなり良さげな宿であるようだ。
「さて」
私は左手を扉へかける。
「ここに空きがあるといいね」
扉を押すと、焼きたてのパンの香りが、さらに濃く流れ出した。
中は、外から見た印象よりも随分と広かった。
一階は食堂を兼ねた受付になっているらしい。正面奥に木製のカウンターがあり、その右手には上へと続く階段、左手には食堂へ続く半開きの扉が見える。食堂には丸い卓がいくつか並び、旅人らしき二人組がスープを飲み、商人風の男が薄い帳面を眺めながらパンを千切っていた。
壁際には麦穂を束ねた飾りと、楠の葉を模した木彫りが並んでいる。床板はよく磨かれ、歩くたびに柔らかな音がした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、四十代ほどに見えるヒューマンの女性だった。肩までの茶色い髪を布でまとめ、濃い緑のエプロンを着ている。目元には柔らかい皺があるが、こちらを見た瞬間の視線はかなり鋭かった。
女将、という言葉が良く似合う。
その隣には、十代半ばくらいの少女がいた。こちらもヒューマンだろう。母親と似た茶色の髪を背中で結び、両手で木の盆を抱えている。彼女は私たちを見て一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに姿勢を正した。
「宿泊ですか?」
女将が落ち着いた声で尋ねてくる。
「ええ。三名です。できれば個室を三つ。後で一人合流するかもしれないので、空きがあればその分も相談したい」
私がそう言うと、女将はカウンターの上に置かれた帳簿を開いた。紙の帳簿だ。先ほど門番が使っていた白い札のようなものとは違い、しっかりと手書きで管理しているらしい。
「個室三つですね。少々お待ちください」
彼女は指で紙に書かれた行を辿りながら、空き部屋を確認していく。その間、娘らしき少女が私たちへ水の入った小さな杯を出してくれた。
「どうぞ。外、混んでいたでしょう?」
「そうだね。どうもありがとう」
私が受け取ると、彼女は私の左手と、空の右側へちらりと視線を向けた。だが、すぐに目を逸らす。どうして片腕が無いのか興味はあるが、踏み込むべきではないということを理解している目だ。
「今日は旅人が多いのですか?」
ロヨンが穏やかに尋ねる。
少女はその巨体に少しだけ緊張しながらもコクコクと頷いた。
「はい。ここ数日は特に。大聖殿の方へ向かう人も多いですし、西門から入ってくる商隊も重なっていて……。でも、お部屋はたぶん大丈夫だと思います。お母さんが、昨日のうちに三階の奥を空けていたので」
「こら、私の先に言わないの」
女将が帳簿から顔を上げずに言った。
少女は小さく肩を竦める。
「ごめんなさい」
軽い言葉のやり取りに棘はなく、かなり距離が近い。宿の空気が落ち着いている理由の一つは、この二人にあるのだろう。
やがて女将が帳簿を閉じた。
「三階の奥に、個室が三つ続きで空いています。そこまで大きな部屋ではありませんが、寝台と机、荷物置きはあります。中庭側なので通りの音も少ないですよ。」
女将はモリアをじろじろ見ることなく、自然な口調で続ける。
「火を使う厨房からも少し離れています。必要でしたら、水差しを多めに置きますが」
「助かります」
モリアが静かに頭を下げた。
「それから、背の高いお客様は、通常より大きい寝台のある角部屋をお使いいただけます。巡礼者や山の方、体の大きな方が泊まることもありますので」
「それはありがたいですな」
ロヨンが目に見えてほっとした。
いい宿だ。
紹介してくれた主人に感謝しなければならない。少なくとも、私たち三人を見て変に騒がず、それぞれの事情に触れすぎず、必要な配慮だけを出してくる。素晴らしい以外の言葉が見つからないよ。
「それで、料金は?」
「個室三つ、一泊二食付きで、合計九十ゴールドです。三泊以上まとめてなら少しお安くできます」
金本位制の名残なのか、単に運営がプレイヤーに分かりやすい単位を採用したのか、このGoAの通貨単位はゴールドだ。少しだけ気になったが、ここで通貨制度の考察を始めると宿泊手続きが進まない。後で暇な時に調べよう。
私はインベントリから財布代わりの小袋を取り出した。
考えてみれば、ログインしてからまともに金を使う機会がほとんどなかった。サンクティンでは廃墟と地下施設、アイランドでは便利すぎる神殿生活。私は自前の炉があるので食事は不要だし、ロヨンもどういうわけか食事を取っている場面を見たことがない。モリアは……必要なのか?
食事以外でも、得た物のみでアレコレ用立てるし、移動は全て自前。金銭を支払う相手なんていなかったので、初期所持金がそのまま残っている。
宿代くらいなら余裕だ。
「とりあえず三泊でお願いします。後で一人合流する可能性があるので、その時は追加で相談を」
「承りました。三泊ですと、少し引いて二百四十ゴールドになります」
「はい」
私は指定された分を支払った。
女将は受け取った硬貨を手早く確認し、小さな木箱へ収める。娘の方が棚から鍵を三つ取り出し、カウンターの上へ並べた。木札のついた鍵には、それぞれ三階奥の部屋番号らしきものが刻まれている。
「三階の奥、並びの三部屋です。お連れ様が増える場合は、夕方までに声をかけてください。空きがあれば近くの部屋を押さえますから」
「助かるよ」
「既にお昼過ぎですので、次の食事は日暮れからです。今でしたら、焼きたてのパンとスープくらいなら出せますが」
パンの匂いが、またふわりと漂ってくる。
私は少しだけ考えた。
ヤトとの合流。大聖殿。小祭壇。やることは多い。だが、ここで一息ついても罰は当たらないだろう。街に入ったばかりの状態で無闇に動き回るより、少し作戦会議をするのも悪くない。
それに、せっかく小麦香る楠亭に来たのだ。パンを食べずに出るのは、さすがに……ねえ?
「では、それもお願いします」
「はい。すぐに用意しますね!パパ〜!」
娘が明るく返事をして、厨房の方へ駆けていった。
「す、すみません……あの子ったら、もう!」
「はは、賑やかで良いじゃないですか」
私は鍵の一つを左手で摘まみ上げる。木札はよく磨かれていて、指先に滑らかな感触が返ってきた。
宿、確保。
まずは第一関門突破である。
私は後ろへ振り返り、そこに立っていた仲間二人に声をかける。
「悪くないどころか、かなり良い宿を引いたかもしれないね」
「ええ。落ち着けそうです」
「幸先が良いですな」
ロヨンとモリアも、それぞれカウンターに置かれた鍵を受け取った。
小麦の香り、楠の木陰、落ち着いた女将と、少しヤンチャそうな娘。アルラスでの最初の拠点としては、上々だ。
私は視界の端にヤトへのメッセージ欄を開く。宿は決まった旨を報告。
簡単な作戦会議をして、次はいよいよ合流だ。
他の神々を呪うロヨンも、誰彼構わず闇雲に噛み付くほど短慮ではありません。憎き怨敵の提供するサービスの利用が必要な場面では、人畜無害に振る舞うだけの理性があります。どうやら目につく全てに殴り掛かる猪ではないようですね。




