第59話『遺構へ行こう』
昨日お休みした分、今日は少し多めに投稿するかもです。
水鏡の名にふさわしく静まり返っていた湖面に、あらゆる自然法則を無視した橋が架かっていく。
「では、行きますぞ!」
ロヨンは自らに気合を入れるように声を張り、杖を軽く回してから一歩目を踏み出した。
その口調だけ聞けば、長い年月を重ねた老人そのものだが、私の目の前を進む肉体は健康な青年にそのものだ。氷と石が入り混じる頼りない足場の上で、彼は杖先を軽く当てながら、まるで浅い小川の飛び石を渡るように進んでいった。
「……よし」
私も後に続く。
一歩目を乗せた瞬間、氷の表面から硬質な冷たさが足裏へ伝わってきた。機械の脚だからといって、感覚が完全に鈍いわけではない。薄く張った氷の奥で水が揺れ、そのさらに下に暗い深みがあることまで、妙にはっきりと意識してしまう。
落ちたところで即座に死ぬとは限らない。だが、水没は避けたい。できれば一生避けたいんだ……。
《足場の強度は、通行可能な範囲内です。ただし、氷柱の一部は倒壊柱へ仮接続されています。跳躍、急制動、過度な横荷重を避けてください》
「つまり、格好つけるなということだね」
《はい》
「了解。格好よくない範囲で頑張るよ」
私は左腕で均衡を取りながら、足場を渡り始めた。
氷は踏みしめるたびに微かな軋みを返してくるが、割れる気配は薄い。ロヨンの魔法が優れているのか、それとも湖中央の構造物から漂う妙な力が何かしら作用しているのか。まあ、なんでもいいか。
時折挟まる石材の足場には、そのところどころに細かな文様が残っている。波に洗われ続けたせいで輪郭は随分と丸くなっているが、規則的な溝や幾何学的な線はまだ消えていない。サクス文字そのものかどうかは分からないが、少なくともただの飾りとは思えなかった。
「おお、さすがはルイス殿ですな。この程度の道では、足止めにもなりませぬか」
前を行くロヨンが、こちらを振り返りながらそう言った。
おい、前を向け。
心の底からそう思った。彼は不安定な氷の足場の上で、後ろを見たまま危なげなく歩いている。杖先は次の足場を正確に探り、足は滑る気配すら見せない。いったいどういう平衡感覚をしているのだろうか。
「ロヨン、君はもう少し足元を見た方がいい」
「ふむ。ご心配なく。これでも若い頃は、崩れかけた遺跡の梁を渡ったこともありましてな」
今でも十分に若いだろうが、少なくとも肉体は!
「安心材料ではなく、不安材料の補強だよ」
私の嘆きに対して、ロヨンは愉快そうに肩を揺らした。
私はマリーの補助に従いながら、足を置く位置を慎重に選ぶ。
新たに得た最適化の影響は、こういう場面でよく分かった。意識を向ける前に、体の細かなズレが自然と整えられているからね。
もちろん、あの変化によって右腕も右目も戻っていない。それでも、壊れかけの機械兵器がどうにか歩いているという感覚からは、少しだけ離れられた気がする。
この体は、今よりもずっと強くなれる。その事実が、単純に心地良かった。
「よっ、ほっ……うわ、ここは薄いな」
氷の端へ足を乗せかけた瞬間、表面に細い白い罅が走った。私はすぐに足を引き、隣の倒壊柱へ移る。黒い石の表面は水に濡れて滑りやすく、足裏で赤い砂粒がじゃり、と潰れた。
《左前おおよそ四十センチ、安定した接地点あり》
「助かる」
指示通りに足を置くと、今度はしっかりと重みを受け止めてくれた。
そこから数歩進むと、湖中央の島がはっきりと見え始めた。
遠くからは、水面から覗く黒い台座か、崩れた構造物の頭にしか見えなかった。砂丘の上から眺めたときも、島というほどの大きさには見えなかったはずだ。だが、近づくにつれて、その印象は少しずつ変わっていく。
水面のすぐ下に、広い浅瀬が隠れていたのだ。
湖の中心には、直径数百メートルほどの円形の小島があった。周囲は赤砂の浜に縁取られ、そこから中央へ向けて、ごくなだらかに土地が盛り上がっている。
山というにはあまりに低く、丘というには形が整いすぎていた。巨大な皿をひっくり返して伏せたような、あるいは平たい小さな台地を水の上へ置いたような姿だ。
そして、その中央に黒い構造物が聳えている。
どこからでも目に入る大きさだ。島の外縁に立とうが、斜面の途中にいようが、あれだけは決して視界から外れないだろう。砂丘の上から見た時に黒い石のように見えたものは、あの構造物の上端か、崩れた外壁の一部だったらしい。
氷の足場が赤砂の浜へ届く直前、ロヨンが立ち止まった。
「ふむ……」
彼は杖を砂へ突き、まず水際を見た。次に赤砂の粒を指で摘まみ、擦り合わせる。さらに腰を落として、浜辺に残った細い跡を眺めた。
私はその横へ降り立つ。
グニャリと足が砂に沈んだ。水を含んだ赤砂は思ったよりも重く、足底の隙間に細かな粒が入り込んでくる。乾いた砂丘の砂とは幾分かその質が違う。穏やかな湖の波に洗われたせいか、粒の角が丸く、濡れた金属粉のような鈍い光を放っていた。
「まずは観察かい?」
「ええ。水辺に踏み込む時は、急がぬ方がよろしい。美しい場所ほど、何を隠しているか分かりませぬからな」
私たちは改めて島の全体を見渡した。
「この赤砂の浜は、自然に集まったものに見えますな。ですが、その下には石組みがある。ほれ、あそこです」
杖先が水際の一角を指した。
波に洗われた赤砂の下から、黒とも灰ともとれる色の石材が僅かに覗いている。よく見ると、それは一枚岩ではなく、規則的に並べられた石畳だった。浜そのものは自然に見えるが、どうやらその土台は人の手によって整えられているらしい。
「かつては、この島全体が人工の祭壇、あるいは水上の庭のようなものだったのかもしれませぬ。長い年月のうちに砂丘より飛来した砂が積もり、草が根を張り、今の姿になったのでしょう」
《周辺に人工構造物の残骸を複数確認。水流は中央構造物を中心にわずかに偏向しています》
「なるほどね」
よく分からないけれど、どうやら人工の構造物の上に砂が堆積することで生まれた小島であるらしい。
「参りましょう。あれを見ずして、この場所を調べたとは申せますまい」
私たちは牛歩で赤砂の浜を進み、島の内側へと向かった。
周囲には、小さな生き物の気配があった。
最初に目についたのは、赤い砂の上を跳ねる小さな蜥蜴のような生き物だった。体長は私の手のひらほどしかない。細い胴に対して後ろ脚が長く、砂へ触れる足先が扇のように広がっている。体色は赤砂とほとんど同じだが、背中だけが黒く、まるで小さな焦げ跡が走っているように見えた。
それは私たちの足音に気づくと、砂の上を二度、三度と跳ね、近くの草陰へ滑り込んだ。逃げた後には、扇形の足跡が連なって残る。
「ふふ、なかなか可愛いじゃないか」
「砂跳び蜥蜴、と呼ばれる類に似ておりますな。正式な名は知りませぬが、この辺りの乾いた砂地に適応した小動物でしょう。足先が広いのは沈み込まぬためですな」
「素材には?」
「さすがに小さすぎましょう」
「うーむ、残念だ」
ロヨンが呆れたようにこちらを見た。ガスマスク越しなので表情は見えにくいが、たぶんそういう顔だ。
何が言いたい?
少し進むと、今度は低い灌木の周囲を、硝子細工のような羽虫が舞っていた。蝶に似ているが、翅は薄く透き通り、縁だけが青や橙に光っている。羽ばたくたびに曇天の光を拾い、赤砂の上へ小さな色の斑点を落とした。
見たところこの辺りには花が少ない。代わりに、その灌木の葉の裏には水滴のような蜜が浮いている。羽虫たちはそこへ細い口を差し込み、すぐにふわりと舞い上がる。
「綺麗だね。こういうものを見ていると、ここが本当に危険な世界なのか少し疑いたくなるよ」
《周辺に大型敵性反応なし。ただし、小型生物の毒性、擬態能力は未確認です》
「台無しにしてくれてありがとう」
《安全確認の一環です》
うん、マリーはいつも通りだった。
中央へ近づくにつれて、島の傾斜はさらに緩やかになっていく。歩いている最中はほとんど坂だと意識しないほどだが、振り返ると湖面が少し低い位置に見えた。
赤砂の浜は輪のように島を囲み、その内側には背の低い草と、細い葉を持つ灌木が点在している。草の根元には水気があり、指で掘ればすぐに湿った土が出てきそうだった。
その地面のあちこちから、古い石材が顔を覗かせていた。
半分埋まった敷石。崩れた低い壁。円形に並んだ小さな柱の根元。水路の名残らしい細い溝。どれも赤砂と草に覆われ、長い時間をかけてこの島の一部になっている。
そこへ、別の小動物が現れた。
小さな丸い体を持つ、鼠に似た生き物だ。ただし、背中には葉のような薄い膜が幾つも並び、風を受けるたびにそれがふるふると震える。体毛は灰色がかった赤で、鼻先だけがやけに白い。そいつは割れた石材の上へ登ると、背中の膜を広げて日光を集めるような姿勢を取った。
曇天でも、わずかな光を逃さないための形なのだろうか。
「今度のは食べられるのかなあ」
「ルイス殿には、まず鑑賞という選択肢はないのですかな?」
「いや、鑑賞しているよ。鑑賞したうえで、使い道を考えているだけじゃないか」
ロヨンは憮然としながらも、その小動物を驚かせないよう少し遠回りを選んだ。背中の膜を広げた小さな生き物は、私たちをその黒い粒のような目で見つめ、やがて石の隙間へ潜り込んでいった。
生き物たちの姿は、この島が思いのほか自然豊かな場所であるということを教えてくれている。
だが、中央に聳える構造物が近づくほど、その印象は少しずつ変わった。
最初は、黒い塔のように見えていた。
島の中央部は平らで、そこに円形の基壇が据えられている。基壇の上には太い柱が幾つも立ち、さらにその内側に、半球状の屋根を支えていたらしい巨大な骨組みが残っていた。
石とも金属ともつかない黒灰色の材質で、表面には水に濡れたような鈍い艶がある。ところどころに刻まれた線は、見覚えのあるサクス文字の流れに似ていた。
高さは、遠目に見積もってもかなりある。サンクティンで見た廃ビルほどではないにせよ、五階建てか、あるいはそれ以上の建物を思わせる規模だ。湖の中心にある小島、そのさらに中央に据えられた遺構としては、あまりにも存在感が大きい。
かつて完全な姿だった頃は、相当に壮麗だったのだろう。
水を湛えた窪地の中央で、黒い基壇と柱が空を映し、湖面の波紋がその足元を巡る。曇天でさえ、この場所ではこの演出の一部になる。晴れていれば、きっと光が水面で砕け、その光が柱の内側へ反射していたはずだ。
だが、近づくほどに、そこにあるものが美しい遺跡という言葉だけでは済まないことも分かってきた。
外周の柱は、その半数以上が無惨にも折れていた。
風化によって丸く崩れたものもある。根元から斜めに倒れ、赤砂に半分埋もれたものもある。けれど、それだけではない。
いくつかの柱には、明らかに外から叩き割られた痕があった。断面が不自然に抉れ、黒灰色の素材が内側から砕け散っている。巨大な武器で殴られたのか、強力な魔法で撃ち抜かれたのか。いずれにせよ、ただ時間だけが作る壊れ方ではなかった。
半球状の屋根は、そのほとんどが残っていない。骨組みだけが肋骨のように空へ伸び、中央の一部は途中で大きく脱落している。
柱と柱の間に延びる外壁のところどころには、高熱によって溶けたような跡と、鋭利な刃物で削ぎ落とされたような滑らかな破断面が並んでいた。崩落した石材は基壇の周囲に散乱し、その上を赤砂と草が覆っている。
どこかで見たことがある姿だと思った。
現実の世界、二十二世紀半ばになっても保存されている、戦争の悲惨さを伝えるための建物に似ているのだ。写真や映像で何度も見た、あの骨組みだけを残した建物に。
外観の大枠だけを辛うじて残し、中身を破壊され尽くした建物が放つ沈黙には、どこか似たものがあった。
「……これは」
ロヨンの声が、わずかに低くなった。
彼は足を止め、杖を握る手に力を込めている。背中越しでも分かる。いつもの研究者としての興奮より先に、別の感情が立ち上がっていた。
怒りだ。
少し進んだ先に見えた重要な建物と思われる施設の入口には、かつて門だったものの残骸があった。左右の支柱は辛うじて残っているが、中央の扉は無惨にも砕け、奥へ向かって吹き飛ばされたように倒れている。表面には古い傷が幾重にも走り、その傷の間に赤砂が詰まっていた。
《この構造物より微弱な信号反応を確認。前回受信したものと近似する痕跡が見られます》
「つまり、ここで間違いないのか?」
《その可能性が高いです》
なるほどね。
ここはただの水上遺跡ではなかったわけだ。私の体に信号を送り、喧嘩していた機構の整理を助けた何かが眠っている場所だ。機神サクスザント様に関わる何かが、少なくともこの壊れた構造物の奥に残っている。
その一方で、目の前に広がる破壊の痕跡は、ロヨンから聞いたサクスドルフ滅亡の神話を嫌でも思い出させた。
神々より遣わされた使者、別名勇者。彼らによって破壊され尽くした技術の結晶。民が積み上げたものを踏みにじり、後世へ残るはずだった知を瓦礫へ変えた暴力。
この場所も、同じなのかもしれない。
大雑把な外観だけは残っている。遠くから見れば、湖の中心に聳える荘厳な遺構に見えるが、近くに立てば分かる。残っているのは僅かな輪郭だけだ。内側は裂かれ、抉られ、焼かれ、風雨と赤砂によって風化し続けている。
「ルイス殿」
ロヨンがゆっくりとこちらを見た。
ガスマスクの奥にある彼の目は、やけに暗く、静かだった。怒鳴るでもなく、嘆くでもない。ただ、その静けさの底に、どこか黒い熱が沈んでいる。
「ここは、恐らく……」
「ああ」
私は短く答え、目の前に聳える遺構へと視線を戻した。
美しい小島だった。赤砂の浜に囲まれ、緑が点在し、硝子の羽虫が舞い、小さな生き物たちが暮らしている。水鏡の窪地と呼ばれるにふさわしい、とても静謐な場所だ。
かつては、その美しさでもってとある神を祀り、讃えていたのだろう。この遺構の大きさからして、かなりの規模であったのは間違いないだろう。
一度でも良いので、この目で見たかったと思ってしまうのは、ゲーマーの性だろうか。
そして残念ながら、誰かが徹底的に壊した跡があった。
私たちは改めて、大きな基壇の中央に泰然と聳える、流麗な外観を僅かに遺すだけの遺跡の前に立った。
私たちの赤砂を踏む音が止まり、遠く聞こえる湖の水音だけが周囲を満たす。
午後にも更新する予定です。
また、要望により作中時点でのステータスを後書きに載せる予定です。




