第40話『一般的なモンスター?』
夕方頃にもう一話更新するかもしれません、私に元気があれば……!
草地の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
湿った風に揺れる草の間で、何かが跳ねるように動く。最初に見えたのは、濁った緑色の額だった。次いで、尖った耳、歪んだ鼻、ひび割れた唇の隙間から覗く不揃いな歯が現れる。
立ち尽くす私たちの前へ姿を現したのは、まさに「ゴブリン」と呼ぶべき醜い緑の怪物だった。背丈は平均的な子供ほどで、手足は細く、胴も薄い。遠目には頼りない体格に見えるが、その手に握られた錆びた短剣と鉈には、乾いた血のような赤黒い汚れがこびりついていた。
小柄でも、武器を持っている。武器を持ち、それを振るうだけの知恵がある。それだけで十分危険だと言えるだろう。
私は銀牙の柄を握ったまま、すかさず簡易鑑定を飛ばした。
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▼基礎情報▼
♦名称:イビル・ゴブリン
♦属性:瘴人
♦レベル:4
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レベルは四。今の私よりは低い。
だが、引っかかるのはそこではなかった。属性欄に表示された瘴人という言葉が、どうにも見慣れない。
「ロヨン。あいつはイビル・ゴブリンという名前らしい。それから、瘴人という属性に聞き覚えはあるかい」
私が視線を前に向けたまま尋ねると、ロヨンは杖を構え直しながら小さく息を吐いた。彼の表情には、驚きよりも先に諦めに似た陰りが浮かんでいた。
「瘴人とは、そのまま瘴気に侵された人々を指す言葉ですな。龍人でも笹穂耳でも、醜鬼でも、瘴気に呑まれた者はみな等しく瘴人と呼ばれまする。どれだけ傷ついても力尽きるまで襲いかかってくる姿は、多くの人に恐れられておりますぞ」
草の間から、さらに二体が姿を現した。三体という数は、ロヨンが先ほど感じ取った気配と一致している。
どの個体も目が濁っている。瞳の奥に理性らしい光は薄く、代わりに黒ずんだ紫の筋が白目にまで浮かんでいた。涎を垂らしながら肩を揺らし、こちらを見るたび、獲物を見つけた獣のように口元を歪める。
「ああなってしまっては、もう戻りませぬ。楽にしてやるのが、せめてもの情というものですな」
「……なるほどね。そういう相手なら、迷う理由はなさそうだ」
ゴブリンという種族そのものが敵というわけではない。掲示板でも、ゴブリンとして生まれ落ちた旅人の体験記はそれなりに人気だった。醜鬼という呼び名も、彼らの自虐的な自称に近いらしい。
体格は小さく、見た目は少々癖が強いが、基本的には大らかで気のいい種族だと聞いている。だが、目の前の三体は違う。瘴気に侵され、元の在り方を奪われ、見境なく襲いかかる危険な存在へ変わってしまった者たちだ。
「ロヨン、悪いけどパーティは組めない。我らが主神のお望みでね。別々に動くことになるけれど、構わないかい」
「構いませんとも。儂も好きに動かせていただきますゆえ。ルイス殿も、儂のことは気にせず戦ってくだされ」
ロヨンはなんでもないことのように頷いた。
恩寵の効果で、私はパーティを組めない。経験値を共有できず、仲間の体力や状態を確認するための便利な表示も使えない。ロヨンがどれほど傷ついているか、戦闘中に数値で把握する方法はないということだ。
つまり、互いに互いの動きを見て判断するしかない。ロヨンの杖がどちらを向いているか、私の銀牙がどこへ振られるか、その場その場で読み合う必要がある。
《敵性個体三体、接近。左方個体、速度上昇》
「分かってる。まずは一体、こちらで受ける」
最初に飛び出したのは、右手に錆びた鉈を握った個体だった。小柄な体が草を割り、低い姿勢のままこちらへ突っ込んでくる。足運びは乱れているが、速度は思ったより速い。地面を蹴るたび泥が跳ね、裂けた唇の奥から濁った息が漏れた。
私は銀牙を片手で引き抜く。黒銀の鉈剣が曇天の光を鈍く弾き、柄に巻いた銀の糸が掌へ軽く食い込んだ。
ゴブリンが鉈を振り上げる。狙いは私の左膝だ。右腕がない私にとって、姿勢を崩されるのはかなりまずい。
私は左足を半歩引き、それと同時に刃を斜めに振り落とした。ギン、と錆びた鉈と銀牙が噛み合い、軽い衝撃が左肩の奥へ伝わる。
軽い。銀索蜘蛛の脚を受けた時のような、骨の芯まで響く重圧はない。しかし、力任せに押してくるだけではなく、刃を滑らせてこちらの手首を狙ってくる。
「小さい相手も、これはこれで厄介だな。けれど、今の私なら見える」
私は銀牙で相手の鉈を押し流し、柄頭で顔面を打った。ゴブリンの鼻が潰れ、頭が仰け反る。だが、痛みに怯んだ様子は薄く、濁った目のまま、なおも腕を振り回そうとする。
瘴人。痛みに鈍いという話は本当らしい。
私は柄頭を引き戻し、そのまま銀牙を短く振り抜いた。重い刃を大きく回すのではなく、すでに崩れた相手の首筋へ押し込むように走らせる。
黒銀の刃が肉を噛む。銀牙の刃縁が皮膚と筋を裂き、そのまま骨へ当たって鈍い抵抗を返した。
「まず一体」
私は左足を踏み込み、銀牙を最後まで押し切った。ゴブリンの体が力を失い、錆びた鉈を取り落としながら草地へ崩れる。
《一体の沈黙を確認。残存敵性個体、二》
「なら、次は練習も兼ねようか。折角、岩槍の広場へ向かっているのだからね」
二体目が横合いから飛びかかってきた。手には短い槍のような鉄器。体を低くし、私の脇腹へ向けて突き込んでくる。
右腕があれば受けられたかもしれない。だが、今の私にその腕はない。私は銀牙を無理に戻さず、足を軸にして身体ごと回した。刃の重さに体を引かせ、回転の勢いを利用して敵の突きを躱す。
錆びた穂先が脇腹の装甲をかすめ、嫌な音を立てて火花を散らした。浅いとはいえ、当たった感触ははっきり残る。
《浅い損傷。戦闘継続に支障なし》
「なら、続ける。大地よ、少しだけ力を貸してくれ」
私は強く息を整えるように意識し、足元へ神経を沈めた。
地面。濡れた土。ひび割れた石畳。石の下にある硬い層。これから目指すという岩槍の広場。その名から想起される、地面より突き出した無数の岩の槍。
太く大きな柱ではなく、細く、鋭く、できる限り無駄のない槍。地中から一直線に突き上げ、相手の動きを止め、そのまま貫く形を思い描く。
強く。
さらに強く。
私は踏み込んできたゴブリンの足元を見据え、そこへ槍の先端が生まれる瞬間を鮮明に想像した。
「貫け」
足元の地面が、低く震えた。
次の瞬間、ゴブリンの胴の下から黒灰色の岩槍が突き上がる。濡れた土と石を突き破って伸びたそれは、私が思い描いた通り、槍というにはあまりに細く、針というにはあまりに硬い岩の刃だった。
「ギ、ガ……ッ」
濁った声が漏れた。ゴブリンの体は下から突き上げられ、短い鉄器を握ったまま宙で震える。岩槍の先端は背中側へわずかに抜け、黒ずんだ血を細く伝わせていた。
思った以上にうまくいった。以前に小石を作った時よりも、形の輪郭がはっきりしている。目的地の名前からイメージを借りたのが良かったのかもしれない。
だが、そこで安堵する暇はない。ロヨンの方から、水を叩きつけるような音が連続して響いた。
視線を向けると、ロヨンの周囲には拳大の水球がいくつも浮かんでいた。雨粒を集めたような透明な球ではない。濁った空を映し込んだ深い水の塊が、彼の杖の動きに合わせて、ゆらりと位置を変える。
「少し荒くなりますぞ。水は優しくもありますが、扱い方次第では石より重いゆえ」
ロヨンが杖を振った。一つ目の水球が弾丸のように飛び、残ったゴブリンの肩へ直撃する。
骨の砕けるような鈍い音が立ち、小柄な体が半回転した。続けて二発、三発。水球はただ濡らすためのものではなく、圧縮された水の塊として相手の体を打ち据える。
胸、腹、膝、顔面。着弾するたび、ゴブリンの体が地面の上で跳ね、手にした短剣がどこかへ飛んだ。
それでも瘴人は起き上がろうとした。片腕が折れ、片脚が妙な方向へ曲がっているのに、泥の中へ爪を立て、こちらへ這ってこようとする。
ロヨンの表情が、ほんの少しだけ翳った。憐れみと慣れが混ざった、なんとも表現し難い複雑な顔だ。
「哀れなことですな。せめて、苦しまぬようにいたしましょう」
次の水は、弾丸ではなかった。
倒れたゴブリンの顔を覆うように、ひとつの水球がふわりと落ちる。水は口と鼻を塞ぎ、頭部にぴたりと張りついた。ゴブリンが暴れる。爪で水を掻き、喉から濁った音を漏らし、背を反らせる。
だが、それでは水はほどけない。
ロヨンは杖の先をわずかに下げ、静かに見つめていた。やがて、ゴブリンの手足から力が抜ける。水球は形を失い、ただの水となって草地へ落ちた。
周囲に残ったのは、湿った土の匂いと、一本の岩槍、そして地面に沈んだ三体の瘴人だった。
「……よし。銀牙で一体、魔法で一体。初めての地上戦にしては悪くない」
私は軽く構えていた銀牙を下ろし、短く息を吐いた。岩槍はしばらく形を保っていたが、やがて根元から崩れ、泥と石片へ戻っていく。
その瞬間のことだった。
《警告。背後および右側面より高速接近》
マリーの声が脳内に刺さる。
考えるより先に、私は銀牙を引き戻した。休憩所の崩れた屋根の影から、ひと回り大きな緑の巨体がヌッと飛び出してくる。
ゴブリンより頭一つ高い。肩幅も厚く、手に持つ棍棒は、錆びた鉄板を無理やり木の柄へ打ちつけたような雑な武器だった。
その緑色の肌は先程まで戦っていたゴブリンと瓜二つだが、生物としての強度が違いすぎると感じてしまうのはどうしてだろうか。
厳しく歪められたその顔には、仲間を失ったことによる怒りがありありと浮かんでいた。全身から漲る殺意が魔力として周囲に広がり、息苦しさを感じる。呼吸器は無いけれども。
簡易鑑定が、反射的に走る。
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▼基礎情報▼
♦名称:イビル・ホブゴブリン
♦属性:瘴人
♦レベル:8
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「レベル八……!」
私より上だ。
銀索蜘蛛ほどではない。あの怪物が放っていた、空間そのものを支配するような圧はない。だが、あの棍棒を力任せに振り下ろされたならば、それだけで十分致命的になり得る。
そんなことを呑気に考えていた刹那、ホブゴブリンの棍棒が、凄まじい勢いで頭上から落ちてきた。
ようやくゲームらしい敵キャラとの戦闘が描けました。
今までがイレギュラー過ぎたんです。思い返せば、よく分からない機械に、よく分からない大きな蜘蛛にと、おかしな戦闘ばかりでしたね。




