第28話『散歩』
少し納得のいかないできなので、少し落ち着いたらプロットを壊さない範囲で書き直す予定です。
私とロヨンが進む先は、壁に点った青白い光と、彼の手元にあるランタンが放つ淡い明かりによって、かろうじて輪郭だけを浮かび上がらせていた。
どこか無意識に肩をすぼめたくなるような圧迫感があるな。
壁面には相変わらず細かな紋様が幾筋も走り、その溝を青白い光が水脈のように巡っていた。
私は足元へ意識を落としながら、ロヨンの後ろを慎重についていく。
そこでふと、自分がログイン初期よりもずっと上手く移動できるようになっていることに気がついた。
最初の頃なら、きっとこうはいかなかっただろう。
見えにくい足場に神経を削られ、身体の重さに振り回され、ちょっとした段差でバランスを崩していたはずだ。だが、今は違うなと思い至った。
この身体は普通ではないし、片目と片腕を欠いた状態であることに変わりはない。けれど、少なくとも私は、自分の機体をただの重荷として扱う段階からは抜け出しつつあったと自負している。
そういえば初めの一週間ほどは、そのほとんどを訓練のために費やした。
ろくに派手な探索もできず、ただ歩く、曲がる、止まる、姿勢を保つ、倒れないように踏みとどまる、そんな基礎ばかりを繰り返していた。
正直、当時は焦りもあった。せっかくのゲームなのに、何を地味なことばかりやっているのだろうと思わなかったわけではない。
だが、今になって思えば、あれは間違いなく英断だった。普通に動かせるようになるまでの時間が必要だったのだ。
「足取りが随分と落ち着いておるな」
前を歩いていたロヨンが、不意にそんなことを言った。
「分かるのかい?」
「分かるとも。こういう場所では、慣れておらん者ほど不必要な音が増えるからの。足音、装備の擦れる音、呼吸の乱れ。お前さんはそのあたりが少ない」
「一応、訓練はしてきたからね」
「ほう。堅実じゃのう」
「こう見えて不自由な身でね」
ロヨンは喉の奥で小さく笑った。
その笑い声は、壁に吸い込まれるようにしてすぐ消える。私も軽く笑い返しながら、改めて周囲へ意識を向ける。
壁の青白い光は、壁に彫られた細い線の中を、ごく小さな粒のような形で流れている。血管の中を巡る血液のようでもあり、機械の回路を走る信号のようでもある。
サクス文字。
たしかロヨンはそう言っていた。文字であり、模様であり、特殊な効果を発揮する未知そのものでもあるもの。
こうして実際にその光を辿りながら歩いていると、この施設全体が巨大な文章の内側で動いているような錯覚を覚える。
「どこを見ても不思議な模様ばかりだね」
私たちは建物の通路を歩いているのではなく、何か途方もなく大きな術式の行間を進んでいるのではないか。
「この先の構造はかなり複雑での」
ロヨンがランタンを少し持ち上げながら言った。
「正しい順路で移動しないと、帰らずの迷宮に喰われることになる。よく記憶しておくことじゃ」
「迷宮に喰われる、か。比喩だよね?」
「さてのう。少なくとも、道を間違えた者が素直に元の場所へ戻れるとは思わん方がいい」
「それは嫌だな」
「嫌なら必死に覚えることじゃ。ここでは記憶力も命綱になる」
軽く言っているようで、冗談には聞こえなかった。
マリーの記録に頼るという手もあるな。
しばらく進んだところで、ようやく通路が途切れた。視界が少しだけ開ける。
「む、三つの選択肢があるのか」
到着したのは、かなり広い空間だった。
今抜けてきた通路を含めて、合計四つの出入口がある。正面にひとつ、右にひとつ、左にひとつ。そして背後に、私たちが今通ってきた道が口を開けていた。
広間は綺麗な正方形に近い形をしていた。天井は高く、中央には何も置かれていない。そのせいで、妙にがらんとして見える。だが、壁際にはいくつもの残置物が積まれていた。
右手側には、大小さまざまな木箱が山のように重なっている。古びてはいるが、完全には朽ちていないらしい。金属の留め具が青白い光を受けて鈍く光っていた。
左手側には、崩れかけた本の山がある。棚から落ちたのか、誰かが意図的に積んだのかは分からない。紙束と革表紙らしきものが不安定に重なり、少しの衝撃で崩れてしまいそうだ。
正面の通路前には瓦礫が散乱している。壁材の欠片、折れた支柱、ひしゃげた金属板。その奥に、さらに暗い通路が続いているのが見えた。
そして、背後の通路の入口近くには、青い火の灯った燭台が据えられている。
なるほど。
これらが目印なのだろう。
もし残置物がなければ、この広間はかなり厄介だったはずだ。出入口の形はどれも似ている。壁の紋様も、ぱっと見ただけでは違いが分かりにくい。
方向感覚を少しでも狂わされれば、どこから来て、どこへ進めばいいのか簡単に見失ってしまいそうだった。
「よいか」
ロヨンがこちらへ振り返る。
「今来た道が青の燭台。右手側が木箱の山。左手側が積み上げられた本の山。正面が瓦礫の山じゃ。元の場所に戻りたいなら、青の燭台が見える通路に入る」
「分かった。しっかり記憶しておこう」
「この広間だけならまだよい。奥へ進むほど、似たような分岐が増える。目印を見ずに進むと、自分がどちらを向いているか分からなくなるぞ」
「ロヨンがいなかったら、相当苦労していただろうね」
「苦労で済めばよいがな」
その言葉に、私は少しだけ肩をすくめる。
実際、ロヨンがいなければ、私はこの通路一つ一つを具に観察し、調査し、行き止まりや危険の有無を確認しながら進む必要があった。
地図を作り、目印をつけ、何度も引き返しながら慎重に進むことになっていただろう。
それはそれで探索としては面白いのかもしれない。だが、今の優先順位は違う。まずはゲートだ。
ロヨンを案内につけることができたのは、間違いなく幸運だった。
「木箱の先は食料庫、嗜好品の保管庫、それから簡単な調理設備が備え付けられた食堂のようなものがあるな」
ロヨンは右手側の通路を指さした。
「左手側の本の先は資料室じゃ。古い記録がいくらか残っておる。それから、まだ開けられておらん部屋がひとつある」
「開かずの部屋か」
「そうじゃ。無理に開けようとしたことはあるが、わしの手には余った。サクス文字による封鎖がかなり強い。鍵が別にあるのか、条件があるのか、単純にわしの解読が足りんのかは分からん」
「それも気になるね」
「気になるものだらけじゃろう。だが、今お前さんが見るべきは正面じゃ」
ロヨンの指が、瓦礫の山へ向く。
「ゲートは、あの先にある」
私は正面の通路を見る。
瓦礫に半ば塞がれた入口は、他の通路よりもよりいっそう暗く見えた。あそこにも青白い光は届いているはずなのに、その奥だけは濃い影を溜め込んでいる。
木箱の先にある保存食や嗜好品の保管庫も、この施設でどのような生活が営まれていたのかを知る手がかりになるだろう。
資料室には、手記よりも重要な記録が眠っているかもしれない。開かずの部屋に至っては、いかにも何かありそうだ。
だが、ここで寄り道を始めればきりがない。優先すべきはゲートである。
「分かった。先にゲートへ向かおう」
「よろしい」
ロヨンは短く頷き、瓦礫の山へ向かって歩き出した。
近づいてみると、瓦礫は見た目ほど雑然としていなかった。崩落したというより、壊れたものを脇に寄せた跡がある。大きな破片は通路の左右へ積まれ、中央には一人ずつなら通れる程度の隙間が作られていた。
「これ、君が?」
「少しずつ退かした。最初に来た時はもっと塞がっておったからの。道具も足りず、腕力にも限界があったから、随分と時間がかかったわい」
「研究者というより作業員だね」
「研究者は必要とあらば穴も掘るし、瓦礫も運ぶ」
ロヨンはそう言って、器用に瓦礫の隙間を抜けていく。
大柄な体格のわりに、動きに無駄がない。どこに足を置けば崩れないか、どの金属片に触れると音が出るか、すでに完全に把握しているのだろう。私はその足跡をなぞるように進んだ。
右腕がない分、こういう場所では身体を支える手段が限られる。
だが、膝と腰を少し落とし、左手で壁面を軽く押さえながら進めば問題はない。瓦礫の角が外装をかすめ、細い音を立てたが、バランスを崩すほどではなかった。
最後の大きな金属板を越えると、壁に空いた口のような入口が現れた。
そこへ入った瞬間、空気がまた変わった。
通路は相変わらず幅広だった。
左右の壁には燭台が並んでいる。ただし、これまでの青白い光ではない。そこに灯っていたのは、紫の火だった。
その火は、私たちが通路へ踏み入れたことに反応したかのように、手前から奥へ向かってひとつずつ明るさを増していく。薄闇の中に沈んでいた壁面が徐々に照らされ、遠くまで続く通路の輪郭が浮かび上がった。
ロヨンのランタンの光と、壁の紫が混ざり合う。
青白さの残る影の中で、床の黒い材質が鈍く光る。壁に刻まれた紋様は、先ほどまでよりもさらに細かく、どこか生々しい。
私は歩調を落としながら、その炎をじっと見つめた。
炎でありながら熱を感じないのが不思議だ。近づけば暖かいはずなのに、むしろ頬のあたりを薄い冷気が撫でていくような感覚がある。
「……この火は?」
「古い照明じゃ。燃料で燃えておるわけではない。壁の奥に刻まれたサクス文字が、一定範囲の光を維持しておる」
「つまり、これも文字の力か」
「そうじゃな。見た目は燭台じゃが、本質はこの遺跡に遺された設備の一部よ。面白いことに、火の色は区画ごとに違う。色はそれぞれの部屋や通路によって使い分けられていてな。きっと意味も異なる。青は保存・保持、白は安全、赤は警告、紫は……まあ、境界に近い場所でよく見る」
「境界?」
私が聞き返すと、ロヨンはほんの少しだけ首を傾けた。
「言葉通りの意味じゃ。この先は、単なる地下施設ではなくなる。建物の中を歩いているはずなのに、どこか別の世界の内側へと入っていくような感覚がある。わしが勝手に境界と呼んでおるだけじゃ」
「それはまた、聞くだけで不穏な場所だね」
「不穏ではあるが、それが直接危険だとは限らん。危険なのは、分からぬものを分かったつもりで扱うことじゃ」
ロヨンはそう言いながら、紫の火に照らされた壁面を指でなぞるように示した。
そこには、先ほどから何度も見てきた紋様が刻まれていた。ただ、ここにあるものは他の区画よりもずっと丁寧に掘られたことが分かる。
線と線が重なり合い、枝分かれし、螺旋を描き、またひとつの筋へ戻っていく。その流れを目で追っていると、水路図にも、回路図にも、道の文明が描いた祈祷文のようにも見えてくる。
模様と言えば模様だ。紋様と言えば紋様だ。だが、ロヨンの話を聞いた後では、それがただの装飾ではないことくらい分かる。
それがこの施設を動かし、保存し、守り、そしておそらくゲートにも関わっている。
「これを読めるのか?」
「ほんの一部だけじゃ。読む、と言っても、我々が普段行っている文字を読むのという行為とは全く異なる。単語を拾うだけならできるが、それで全体を理解した気になると痛い目を見る」
「難儀だね」
「その難儀なものに取り憑かれたから、わしは今こうして地下で干からびかけておる」
そう言って、ロヨンは喉の奥で笑った。
三年もこの街を探り、地下へ落ち、生きているのが不思議な状況で、なお研究を続ける。彼の言う研究者という生き物は、私が思っているよりもずっと面倒で、ずっと厄介なものなのかもしれない。
通路は緩やかに傾斜していた。
下っているのか、奥へ進んでいるのか、感覚だけでは判別しにくい。床は平坦に見えるが、歩くたびに足裏へ伝わる重心のかかり方が微妙に変わる。
壁の燭台は等間隔に並んでいるはずなのに、振り返ると距離感がずれているように見えた。
ロヨンの言った、帰らずの迷宮という言葉が頭をよぎる。
正しい順路で移動しなければ帰れない。比喩ではなく、本当にこの施設は迷い込んだ者の空間認識を狂わせるのかもしれない。
「ロヨンはよく一人でここまで調べたね」
「最初は何度も迷ったわい」
「それ、よく生きて戻れたね」
「運良く塒に戻れたのではない。気がついたら戻されていた、という方が近いかもしれんのう」
不思議な表現をするものだな。
「戻された?」
「おそらくこの施設には、侵入者を殺すのではなく、元の場所へ押し戻すような働きがある箇所がある。もっとも、それが親切心によるものか、何らかの防衛機構によるものかは分からん。わしの場合は、行き倒れかけたところで、いつの間にか先程来た通路に倒れておった」
「親切な迷宮なのか、悪趣味な迷宮なのか判断に困るね」
「どちらでもないのかもしれん。ここは、ただそう作られているだけじゃ」
ロヨンの声は淡々としていた。
私はその背中を見ながら、少しだけ考える。
この地下施設には、不思議な力がある。ロヨンは下水から流され、気がついたらあの通路で寝ていた。迷った時も、塒の近くへ戻された。偶然かもしれない。だが、あまりにも出来すぎているように見えるのは、私が捻くれているからだろうか。
「考え込んでおるな」
「まあね。嫌なほど色々繋がりそうで困っている」
「繋がる時は、こちらが望まんでも繋がるものじゃ」
「研究者らしい言葉だ」
「年寄り臭いだけじゃろう」
若い声でそう言うものだから、どうにも妙な感じがする。
私は少し笑い、再び前へ意識を戻した。紫の火が並ぶ通路は、そこで唐突に途切れた。
それまで両側から迫っていた壁が、ふいに左右へ遠ざかる。天井も一気に高くなり、頭上の暗がりが深い井戸の底から空を見上げているような広がりを持った。
足元の床材も変わる。通路では金属と石材が混ざったような硬い床だったが、ここでは黒い鏡のような平滑な材質が広がっていた。
私は思わず立ち止まった。
「……これは」
言葉が続かなかった。
目の前に、巨大な構造物が鎮座していた。
大きい。
最初に浮かんだ感想は、それだけだった。
見上げるほどの高さがあり、近づく前からその存在感だけで空間の中心を支配している。形は円形に近い。
おそらく元々は完全な輪だったのだろう。だが、その一部が大きく欠け、全体としては巨大なCの字を斜めに傾けたような姿になっている。
いや、欠けているのだろうか。
割れた断面のように見える箇所にも、きちんと紋様が回り込んでいる。破損したにしては整いすぎているし、最初からそういう形状として設計されたと言われても不思議ではない。
通路の壁で見たものとは比べものにならない密度で模様が描かれている。細い線が無数に走り、幾何学的な図形を作り、そこから植物の蔓のように枝分かれし、また機械の回路のように直角に折れていく。
円弧の内側、外側、側面、支柱らしき部分の根元まで、びっしりと刻まれている。
その溝に沿って、青白い光が巡っていた。
光は脈打つように強まり、薄れ、別の線へ流れていく。まるで巨大な構造物全体が、ゆっくりと呼吸しているようだった。
そして、全体から薄い光の粒子が放たれている。
粉雪のようでもあり、燃え尽きる前の火花のようでもある。粒子は構造物の周囲を漂い、床へ落ちる前に消え、また別の場所から生まれていた。
青白い光に照らされた空間は、廃墟の地下とは思えないほど静謐で、どこか神聖ですらあった。
私はしばらく動けなかった。
燭台の火そのものに特別な力が宿っているわけではなく、サクス文字の作用によって色が付けられているに過ぎません。
かつては用途に応じて色が厳密に使い分けられていましたが、その意味や体系はすでに失われており、現在では明確な基準のないまま感覚的に分類されています。




