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白翼の光  作者: 月凪
第一巻 白翼は希望の光となって

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9/13

第9話 捕食者の影


彩花のマンションで目を覚ました光は、

温かい布団の中で、

ゆっくりと大きく伸びをした。


今朝方から、雨がしとしとと降り続いていた。


それは窓ガラスを

静かに伝い落ち、部屋へと差し込む

淡い朝の光をぼんやりと歪めていた。


左の肩甲骨の奥に残る、

あの熱の疼きはまだ

完全には消えていなかった。


けれど……


彩花と過ごした

幸福な休日のおかげで、

光の心はふんわりと

軽くなっていた。


「おはよう、ひかり!


今日は仕事でしょ?


朝ごはんできてるよー!」


キッチンから響く

彩花の明るい声に、

光は自然と笑顔になって

ローテーブルについた。


二人は昨日の

ショッピングモールでの

出来事を思い出し、

小さく笑い合いながら、

温かい朝食を胃へと収めていく。


光の唇から零れる笑顔は、

ここ最近のいつよりも柔らかく、

自然なものだった。


「あっ、ひかり!


電車は絶対にダメだからね!


バスで行って!


また何かされたら嫌だから!」


玄関で、彩花が

真剣な顔で指を差して忠告してくる。


光は少し照れくさそうに笑いながら、

小さく手を振った。


「はーい! わかったよ。


……行ってきます!」


彩花は「いってらっしゃーい!」と、

ポニーテールを跳ねさせて

元気よく光を見送った。


ドアの向こう側。


雨は降っているけれど、

今日の東京の空気は、

光にとって少しだけ、

胸の奥が明るかった。



――深川支部・討伐課 執務室。


窓の外では、依然として雨が

コンクリートを叩き続けており、

無機質な執務室の中に、

静かで冷たいリズムを刻み続けていた。


光は自分のデスクの前に座り、

食い入るようにPCの画面を見つめていた。


発光するブルーライトが、

彼女の大きな瞳を青白く縁取る。


画面に映し出されているのは、

討魔局が長年蓄積してきた

怪異の生態データだ。


――妖魔は、他者の絶望や恐怖など、

強い負の感情を『食事』として吸収する。


特に、『妖肢ようし』と呼ばれる

触手のような特殊器官をもつ妖魔は

危険性が高く、妖肢を使って

効率よく対象の感情を貪る――


(悠真さんが言っていた……。


あの建物は、『食堂』として

妖魔に使われている……って)


光は、マウスが壊れそうなほど

右手に強く力を込めていた。


(お母さんは……食事として、

薄刃に食べられた……ってこと……?


私たちが日常で、

当たり前のように

肉や魚を食べるみたいに……


あいつらは、お母さんを……)


そのあまりにも悍ましい

世界のシステムに、

目眩がするほどの

吐き気が込み上げる。


――ポン、と。


不意に、大きな、

無骨な手のひらが

光の華奢な肩を叩いた。


「どうした?


そんな難しい顔して!

無理すんなよ!!」


神崎の、空間の湿気すら

吹き飛ばすような豪快な声。


班長はそう言って、

光のデスクの傍らに

温かい缶コーヒーをコト、と置いた。


光は内心の動揺を隠すように

少しだけ身を硬くしたが、

すぐにいつもの笑顔を返した。


「はい。ありがとうございます、班長」


神崎は光のすぐ隣に

どさりと腰を下ろすようにしゃがみ込み、

その無骨な顔を、一瞬にして

真剣な顔に切り替えて話し始めた。


「例の……


お前を狙っている

ストーカーの件だがな……。


Sランク以上の

妖魔の可能性があると見て、

動くことにした。


俺から、調査課の『篠宮』っていう

古い友人に、頭を下げて頼み込んでな。


警察の公安とも連携して、

お前の家の周りを

厳重に見回りしてもらうことになった」


「え!?


……そうだったんですね。


ありがとうございます、班長。」


驚きとともに、

光の口から安堵の吐息が漏れた。


しかし、神崎の顔に刻まれた険しい皺は、

少しも緩むことがなかった。


「あぁ……。


だがな、光。


問題はここからだ」


神崎は低い声をさらに低く沈めた。


「昨日、早速その警察が、

お前のマンションの周辺を

見回りしたらしい。


――そこで、報告があった。


それらしき男が、

お前のマンションの周囲を、

不審にうろついていたそうだ」


光の脳裏に、

あの電車の窓ガラスの向こうで歪に裂けた、

男の瞳が鮮烈にフラッシュバックした。


一瞬にして血の気が引き、

その可憐な表情が青ざめていく。


「え……?」


あいつは、

私の部屋があそこだと、知っている。


それだけでなく、私が帰ってくるのを、

あの暗がりの底でじっと待ち続けていたのだ。


「警察が声をかけたらしいが、

人混みに紛れて、

異常な速度で逃走したようだ……。


いいか、光。


南砂のマンションには、

1人で絶対に近づくな。

これだけは約束しろ」


班長の太い指先が、

デスクの木目をコンと叩いた。


「もし、どうしても用事があり、

戻らなければならない時には……


何があっても

必ず、局の誰かを同伴させろ。


いいな」


世界から安全な場所が、

自分の固有のテリトリーごと

切り取られていくような、ショック。


光は隠しきれない動揺を、

小さく震える声に込めて答えた。


「はい……」


その時、隣のデスクで

一部始終を静かに聞いていた美咲が、

椅子を少しだけ寄せて、

いつも以上に真面目な、

けれど優しい顔で光に話しかけた。


「光……。


もし、必要な私物とか取りに帰るなら、

私が一緒に行くわ。


だから遠慮なんて絶対にしないで、

いつでも私に言ってね」


美咲の纏うシトラスの香りと、

ずっと自分を庇い続けてくれる

細い腕の温もり。


光はその情愛に救われるようにして、

コクンと深く頷いた。


「……あのね、光。


ちゃんと伝えておきたいことがあるの」


神崎が席を外した直後、

美咲が少しだけ声を潜めて言った。


「あのストーカーの件……。


局のデータベースから、

少し分かったわ」


美咲のただならぬ気配に、

光の背筋がぴくりと強張った。


美咲が手元のモニターを操作し、

一枚の顔写真を表示させた、その瞬間――。


ニタリと歪に笑うあの『眼』が、

光の視界を直撃した。


昼間の東西線の車内で。


私の尊厳を汚すように、

貪るように見つめていた、

あの粘つく欲望に満ちた男の眼。


それは古い写真であるはずなのに、

まるで今この瞬間も画面の向こうから、

生々しく肌へ絡みついてくるような

錯覚さえ覚える。


光の背中に、

じっとりと冷たい汗が噴き出した。


しかし――


光はその男の、

まだ『人間』の皮を被っていた頃の顔に、

明確に見覚えがあった。


網膜の奥に眠っていた

古い記憶のピースが、

突如として激しく噛み合う。


「こ……この人……知ってます」


光の予想外の呟きに、

美咲が弾かれたように目を見開いた。


「……!?」


光の、PCモニターを指差す人差し指が、

恐怖と驚きで小刻みに震えていた。


「この人……お母さんの、友達です……」


美咲の端正な顔が、驚愕に固まる。


「……え……?


……ウソ?


一体どういうこと、光」


「私……お母さんと、

南砂にある討魔局の保護施設で

暮らしてたんです。


私がまだ小学生の頃かなぁ……。


そのとき……


お母さんと一緒に、

施設の近くの公園で、

この人と会ったことあります。


お母さんは、同級生だって、

言ってました……」


美咲は光の動揺を気遣うように

視線を和らげながら、

画面のスクロールを止め、

静かに、事実だけを

並べるようにして話し始めた。


「この男……


人間だった頃の名前は、

久我くが るい


光のお母さん……


希さんが、かつて任務で関わった

事件の最中に、死亡した人物よ」


光の呼吸が、

一瞬にして完全に止まった。


「……え……?」


「生前は人身売買や爆薬の密輸、

麻薬取引に関わっていた男でね。


それも、裏で妖魔を相手に取引をしていた、

本当の『向こう側』の人間。


光のお母さんは、その取引現場に、

任務として潜入していて――


現場を抑えた希さんは

妖魔に対して攻撃を仕掛けたの。


……けれど、


久我はその攻撃の

巻き添えを喰らう形で、

死んでしまった」


美咲は一瞬だけ言葉を切り、

光の目を見据えた。


「でも、心配しないで。


光のお母さんは、

当時の審問会で、

久我の殺害に関しては

完全に不可抗力だったとして

『無罪判決』を受けているわ。


希さんは悪くない」


光は喉の奥の渇きに耐えながら、

ゴクリと深く唾を飲み込んだ。


「久我……累……」


美咲は、その名前の裏に隠された

もう一つの歪みについて話を続けた。


「希さんの持つ白い妖気は、

妖魔にとって特別に『甘い』らしいの。


恐らく、その血を引く光も同じ……。


だから今の久我は、

極上の『食事』として

光を味わおうとしている。


……私は、そう考えてるわ」


美咲は、さらに画面を

最深部へとスクロールした。


「光……これを見て」


そこに開示されたのは、

当時の裏調査報告書だった。


報告書には、久我累が生前、

美雲希に対して、異常な関心を

示していた記録が残されていた。


接触の試み、

待ち伏せ、

手紙、

施設周辺での目撃情報。


それらはすべて、

希本人によって拒絶されている。


けれど資料は、そこから先を語らなかった。

ただ一行だけ、冷たく記されていた。


《対象者・久我累。

美雲希への執着傾向、極めて強い》


美咲は光の表情の歪みを

静かに見つめながら、

最後の推論を口にした。


「久我の、世界に対する恨みの根源って……

きっとここなんじゃないかな。


久我が妖魔となり、

人外のモノとして生まれ変わった時には、

復讐でも略奪でも、

その対象だった希さんは、

すでにこの世から亡くなっていた……」


一息の静寂が、執務室の雨音に混ざる。


「だからあいつは

かつて希さんへ向けていた

執着のすべてを、

今度は娘である光へ――


向け直している……」


光の顔は、完全に真っ青になっていた。


手元の缶コーヒーのぬくもりすら、

今の彼女には感じられなかった。


(お母さんがもう、この世界にいないから……)


(代わりに、私が狙われているんだ。


私の恐怖という

負の感情を貪り喰らって、

あいつ自身が、化け物として

生きていく為の食糧にするために……?)


美咲は、光の小さな動揺を

すべて包み込むような声音で、

さらに続けた。


「……でもね、光」


美咲は少しだけ迷うように

報告書の最後のページを開いた。


「本来なら、

ここまで読む必要はないんだけど……」


そこに書かれていたのは、

事件とは何の関係もないはずの、

一人の少年の生い立ちだった。


母親の再婚。


義父からの日常的な虐待。


学校にも通えなくなった、

幼い頃の久我累。


「恐らく、局は……


この『久我』が、希さんに対して、

異常な執着を抱いていたことで、

危険因子として、あいつのすべてを

徹底的に調べ上げたのね。


普通はどんな妖魔でも、

人間の頃の、こんな過去の詳細まで

データに記されていることなんて、

まず無いのよ」


美咲の言葉が、

雨の降る執務室に静かに融けていく。


光の中で、

世界の残酷なパズルのピースが、

少しずつ、嵌まっていくような――


そんな、冷徹で、哀しい感覚が芽生えていた。


(この人の根底は、

最初から、愛に飢えていた……


ということなんだ……)


誰からも温もりを与えられず、

世界の美しさを妬むことでしか、

自分を守れなかった少年。


そんな男が生まれて初めて見つけた

『希』というまばゆい光。


そして、その歪みきった愛の毒の矛先が今、


(……私に、向けられている)


窓の外――。


雨に濡れた無機質なアスファルトの隅で、

淡い緑のアジサイが

雨を静かに浴びていた。


訪れる暗い梅雨のなかで、

その花弁がじわじわと、

禍々しいほどの鮮やかな紫へと

色づいていくように。


あいつの抱いた愛の毒もまた、

冷たい現実の雨に激しく濡れそぼりながら、

ただひたすらに、深く、静かに、

その色を濃くしていったのだろうか。


――しとしとと、しとしとと。


降り注ぐ雨はただ無関心に、

深川支部の窓を、濡らし続けていた。


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