第8話 日常の灯火
――ピンポーン。
光が震える指先で
インターホンを押すと、
すぐに彩花のマンションの
ドアが勢いよく開いた。
「ひかり、久しぶりー!」
佐藤 彩花は、
明るい茶色のポニーテールを
元気よく跳ねさせて、
光をぎゅっと抱きしめた。
いつもの太陽のような笑顔が、
薄暗いマンションの廊下を
パッと明るく照らし出す。
「ひかり! 大丈……夫……?」
しかし、抱きしめた身体を離した瞬間、
彩花の言葉が止まった。
間近で見た光の瞳は酷く赤く、
その頬には、拭いきれなかった
涙の跡が白く乾いていた。
光はいつものように
ニッコリと微笑んではいたが、
それが無理に作った
歪な仮面であることは明らかだった。
彩花は一瞬だけ息を呑んだが、
すぐに、心配をかけまいとする
光の健気な気遣いを察した。
だから、何も見なかったフリをして、
わざと大袈裟に光を部屋の中へと招き入れた。
「早く、入って! 入って!
ちょっと狭い部屋だけどねー!」
案内された1Kの部屋は、
意外なほど女の子らしい雰囲気に満ちていた。
淡いパステルカラーのクッションや
ぬいぐるみが、ふんわりと散らばっている。
壁には、中学時代の陸上部の
懐かしい集合写真や、
光と彩花が、
並んでピースをしている
ツーショット写真が、
可愛らしいフレームに飾られていた。
「ねぇ……なんか……
すごく疲れてる顔してるけど、
本当に大丈夫?」
彩花に覗き込まれ、
光は無理に笑おうとして、今度は失敗した。
「ううん……。
ちょっと、怖いことがあって……。
あやかには、
たくさん迷惑をかけちゃうけど、
しばらくだけ、ここに……」
彩花は光の重い荷物を
ひったくるように受け取りながら、
迷いのない強い声で言った。
「迷惑なんて全然ないよ!
ひかりが困ってる時は、
いつだって私が力になるって、
中学の時から決めてるでしょ?」
部屋に入り、
彩花が少し不器用な手つきで
夕食を作ってくれた。
炒め物は少し焦げ気味で、
味噌汁の具の野菜も
形が不揃いだった。
けれど、そこからは
彩花が光のために
一生懸命に包丁を握ったことが
痛いほど伝わってくる、
芯から温かいご飯だった。
二人は小さなローテーブルに
向かい合って、
静かに食べ始めた。
しばらくして、彩花の目が
真剣なものへと変わった。
「ねえ、ひかり。
本当は、何があったの?
ただのストーカー……
って感じじゃないよね……?」
光は温かいコップを両手で強く握りしめ、
言葉を途切れ途切れに紡ぎ出した。
満員電車での異常な執着。
そして昨夜、
自分の部屋の窓が破られて襲われたこと。
ただ――
背中から生えた
『純白の翼』のことだけは、
どうしても言えなかった。
親友である彩花にまで、
自分を「人間ではないモノ」として
怖がられるのが、
たまらなく恐ろしかったから。
話し終えた光の手を、
彩花はそっと、自分の両手で包み込んだ。
その体温が、ひどく優しかった。
「……怖かったね。
ひかりがそんなに
一人で我慢してたなんて、
私、全然知らなかったよ。」
彩花は光の瞳をまっすぐに見つめた。
「もう大丈夫。
うちにいる間は、
私がずっと一緒にいるから。
夜中でも、もし変な音がしたら
すぐに私を起こしてね。
……一緒に寝よう?」
張り詰めていた心がその言葉に融かされ、
光の目頭が再び熱くなった。
「……あやか、ありがとう……。
本当に、ごめんね……」
彩花はいつもの明るい笑顔を取り戻し、
光の華奢な肩をポンと軽く叩いた。
「謝らないの!
ひかりは昔から、
ちょっと頑張り屋さんすぎるんだから。
たまには私を頼ってよ!
私、ひかりのこと、
大大大好きなんだからね!」
その後、彩花は
「冷えちゃってるでしょ」と、
光を先に風呂に入れてくれた。
湯船の温かいお湯に首まで浸かり、
湯気に包まれる静寂のなかで、
光の張り詰めていた心が
ゆっくりと弛緩していく。
風呂から上がると、
リビングでは彩花が
ドライヤーを手に笑顔で待っていた。
「そこに座って。
乾かしてあげる」
光が小さな丸椅子に腰を下ろすと、
彩花は後ろから、その細い指先で
優しく髪を梳きながら、
温かい風を当ててくれた。
時折、まるで
小さな子供をあやすかのように、
軽く頭をポンポンと叩く。
「……あやか、いい匂いするね」
「ひかりの髪こそ、さらさらだよ。
昔から触り心地いいよね」
ヴー、というドライヤーの
低い駆動音が部屋の静寂に響く中、
光はそっと目を閉じ、
後ろから伝わってくる
親友の絶対的な温かさに、
ただ身を委ねた。
髪を乾かし終えると、
彩花は自分の部屋着を
一式貸してくれた。
少し大きめの
オーバーサイズのTシャツと短パン。
そこには、彩花の使っている柔軟剤の、
優しく清潔な匂いがふんわりと残っていた。
光はそれに袖を通しながら、
なんだか酷く安心したような、
同時に、どこか切なく
懐かしいような気持ちに満たされていく。
彩花の紡ぐ無自覚な言葉と、
押し付けがましくない真っ直ぐな優しさ。
そのすべてが、
光の凍てついていた胸の奥に、
じんわりと、温かく染み込んでいった。
その夜――。
二人は狭いフローリングの上に、
布団をぴったりと並べて寝た。
部屋の明かりを消すと、
夜の静寂がしんしんと満ちていく。
隣から聞こえてくる
彩花の、穏やかで規則正しい寝息。
それを子守唄のように聞きながら、
光はそっと目を閉じた。
(あやか……。
本当は私の方が、
討魔局の人間として、
あやかを守るべき立場のはずなのに……。
……ごめんね。)
お荷物でしかなくて、
守られるばかりの自分への不甲斐なさ。
けれど、その自責の念は今、
確かな目的へと反転し始めていた。
(今度は私が……
絶対に、あやかを守れるように
……強くなるから。)
目を閉じ、意識を睡眠の淵へと沈めていく。
窓の外――。
澄んだ夜空には、昨日と変わらぬ、
冷徹な月がそこに浮かんでいた。
それはここがまだ
日常の境界線であることを示すように、
二人の眠る小さな部屋を、
淡く、静かに照らし続けていた。
――翌日。
彩花が「よいしょ!」と
勢いよく遮光カーテンを開けた瞬間、
朝の、澄み切った柔らかな陽射しが
リビングいっぱいに弾けるように広がった。
「おはよう! ひかり!
今日はお休みだよね?
気分転換に、どこか行こうよ!」
光は少し眩しそうに目を細め、
寝癖のついた髪を押さえながら、
ゆっくりと目をこすった。
「……おはよう、あやか。
うん……ありがとう。
でも……あやかって、
今日は、お仕事じゃなかったっけ?」
彩花は腰に手を当て、
何でもないことのように
ハッキリと言い切った。
「休んだ!」
光は弾かれたように目を丸くして驚いた。
「えぇっ!?
仕事なのに、休んじゃったの……!?」
彩花は目をキラキラさせ、
パンッと両手を叩いて笑った。
「今日は、ひかりが元気になるまで、
私が全力で楽しませるって決めたの!」
有給休暇を
自分のために使ってくれた
親友の真っ直ぐな男気。
光は驚きを通り越して、
胸の奥から込み上げる
温かい嬉しさに包まれた。
「……あやか……ありがとう!」
彩花はニコッと太陽のように笑い、
光の寝癖をくしゃくしゃと直すように、
その頭を優しく撫でた。
「じゃあ……出かける準備……だね!」
朝食を済ませ、
出かける準備をしながら、
光の右手はいつもの癖で、
ハンガーにかかっていた
討魔局のシックな制服へと伸びていた。
それを、後ろから覗き込んだ彩花に
完璧に見つかり、
リビングに大爆笑が響き渡った。
「ひかりいいいい!!
休みなのに完全仕事モード入ってるよ!?」
「……え?
あ……!」
光は、自分が制服のベストを
握りしめていることに気づき、
顔を真っ赤にした。
「いつもの癖で……つい……」
光は慌てて制服をハンガーへと戻し、
鞄の中の私服に着替えた。
ゆったりとした
グレーのスウェットシャツに、
グレーのプリーツミニスカート。
足を動かしやすい黒のタイツを合わせ、
動きやすさを最優先にした
カジュアルなコーディネートだ。
着替えを終えて
リビングに戻ってきた光を見て、
彩花が再びお腹を抱えて吹き出した。
「まだ討魔局っぽいよー!(笑)
動きやすさ全開じゃん!
ひかり、本当に戦う気満々だね」
「……え?」
光はきょとんとして首を傾げ、
自分の格好を見下ろした。
無意識に、いつ妖魔に襲われても
立ち回れるような「機能性」を
選んでしまっていたのだ。
彩花は腹を抱えて笑いながら、
光の華奢な手をぐいっと引いた。
「もう! ダメダメ!
ショッピングモールに行ったら、
私がちゃんと女の子らしい服を
コーディネートしてあげる!」
雲一つない、気持ちのいい晴れた朝。
二人は並んで、江東区の
大きなショッピングモールへと
歩き始めた。
澄んだ空気の中、
光はふとどこまでも広がる空を見上げて、
懐かしそうに呟いた。
「……あやかと一緒に休日を過ごすの、
なんだか凄く久しぶりだね」
彩花は隣で歩調を合わせながら、
ニコッと笑った。
「そうだねー!
ひかりったら、討魔局に入ってから
仕事、仕事で全然遊んでくれないんだもん!」
光は少しだけ視線を彷徨わせ、
記憶の引き出しを
ひっくり返すように小首を傾げた。
「ええっと……。
この前、駅前のファミレスで、
ドリンクバーだけで
3時間も粘ったよね……?」
彩花は一瞬だけきょとんとしてから、
大きく目を丸くして爆笑した。
「ひかり……それ、いつの話よ!?(笑)
高校のときでしょ! 」
「あれ……?
そんなに前だっけ……?」
光は自分の時間感覚の狂いに気づき、
照れくさそうに頬を赤らめた。
彩花は笑いながら、
光の肩を軽くポンと叩いた。
「ひかり……
お仕事頑張りすぎて、
時間感覚が、おかしくなってるんじゃない?
今日は、リラックスして過ごそうね!」
親友の、何も聞かずに
すべてを受け入れてくれる優しさに、
光も柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、あやか」
するとその時、
前方の路地から茶トラの猫が
トコトコと道路を横切った。
彩花がその丸い瞳を輝かせ、
突然タッタッタと駆け出した。
「わー! 猫だー! 待ってー!」
無邪気に猫を追いかけていく、
ポニーテールを
大きく揺らした彩花の後ろ姿。
それを見て、光の頬の緊張が、
自然と柔らかく緩んでいった。
光は思わず足を止め、
澄み切った青空を見上げた。
どこまでも広がる蒼穹を、
元気よく鳥の群れが
翼を広げて飛び回っている。
背中の、あの片翼の疼きは、
今は不思議と、静かに眠っていた。
(……今日は……
ただの、女の子でいていいんだ)
江東区のショッピングモール内にある、
お洒落なセレクトショップ。
彩花に勧められるがまま、
ベージュの柔らかなパーカーと、
白いレースのロングスカートに
着替えた光が、少し気恥ずかしそうに
試着室のカーテンを開けて出てきた。
光はその場でくるりと回って
レースの裾を揺らしてみせ、
ちょっと自信なさげに言った。
「……どう? 強そう?」
「――――」
彩花は一瞬だけ完全にフリーズしてから、
堪えきれずにその場に笑い崩れた。
「ひかり……!
強そうって、何それ……っ!
今日はお休みだよ!?
戦うための服じゃないんだから!」
光はきょとんとして
その大きな瞳を瞬かせ、首を傾げた。
「え? でも……動きやすくて……。
もし何か突発的な事案があった時、
すぐに対応できそうかなって……。
ほら、いつもの制服よりは
少しはマシかなと思って……」
彩花はお腹を抱えて笑いながら、
丸椅子から立ち上がり、
光の華奢な身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう最高……!
ひかりの頭の中、
いつも討魔局モード全開なんだね。
でも、その天然なところが
最高に可愛いから許す!」
午後――。
カフェの陽射しが差し込む窓際の席で、
冷たいアイスラテを飲みながら。
二人は中学時代の
他愛のない昔話に花を咲かせ、
何度も、何度も声を上げて笑い合った。
妖魔のことなど、
今だけはすべて忘れて。
夜――。
すっかり日の落ちたバス停で、
二人は並んで、帰りのバスを
静かに待っていた。
街灯の柔らかな
橙色の光に照らされた夜空は、
雲一つなく、星々がキラキラと輝いて、
まるで、宝石を散りばめたように美しかった。
彩花が、光の細い肩に
こつんと軽く頭を乗せ、
夜風に声を乗せるように優しく言った。
「ひかり、今日はありがとう。
何かあったら、いつでも私を頼ってね。
私はいつだって、ひかりの味方だから」
光は、隣から伝わってくる
彩花の絶対的な温もりに包まれながら、
静かに、深く微笑んだ。
「……うん。私も、あやかの味方だよ」
彩花のマンションに戻り、
パチリと玄関の明かりを灯すと、
彩花は大きな伸びをしながら、
リビングのソファへと倒れ込んだ。
「あー!
今日はほんとに楽しかったねー!」
光も手にした紙袋を抱きしめながら、
心からの笑顔で頷いた。
「うん、めっちゃ楽しかった!」
光が今日買った服の袋をテーブルに置き、
鞄の中身を整理し始めると、
背後から覗き込んできた彩花が、
ふと、その手を止めた。
「あ、ひかり……それダメだよ。
お母さんの写真、そんな鞄の底に
入れっぱなしなんて可哀想じゃん」
彩花は引き出しから
新しい、綺麗な写真立てを持ってくると、
希の写真を丁寧に移し替えた。
そして、リビングの棚の上に、
自分の写真のすぐ隣に並べて、
そっと立ててくれた。
「ほら、ここならお母さんが、
いつでもひかりのことを見守れるでしょ?」
光はパッと、その大きな瞳を輝かせた。
「……うん!」
彩花は自分のことのように嬉しそうに、
にへっと笑った。
「よかった。
ここ最近で、一番いい笑顔だよ」
光は少し照れくさそうに、
その白い頬を赤らめた。
お風呂を済ませ、
彩花が再び光の髪をドライヤーの風で
優しく乾かしてあげている間も、
二人の他愛ないお喋りはいつまでも続いた。
「あの服、どうだった? 本当は気に入った?」
「うん! すごく可愛いよ。本当にありがとう」
「でもやっぱり……
ちょっと強そうだったよね?」
「もう! やめてよー!」
薄暗いリビングに、
少女たちの明るい笑い声が、
温かい灯火のように響き渡る。
光はふと、自分の小さな胸に、
そっと手を当てた。
(……久しぶりに、心がこんなに軽い……)
背中の、あの覚醒したばかりの
片翼の疼きも、今は驚くほどに静かだった。
窓の外――。
美しい街路樹の並ぶ夜道へ、
オレンジ色のカーテン越しに
二人の明るい笑い声が漏れていた。
それは、暗い夜を優しく照らす、
小さな日常の灯火のようだった。




