第10話 雨上がりの境界線
――その日の午後。
雨上がりの濡れたアスファルトが、
午後の強い陽光を反射して
きらきらと眩しく輝いていた。
そんな穏やかな
日常の空気を切り裂くように、
一台の黒い大型バンが、
けたたましくサイレンを鳴らしながら、
江東区の幹線道路を
猛スピードで走り抜けていく。
神崎班に下った、緊急の討伐要請。
江東区の商店街に出現した、
Bランク狂暴型一体の殲滅任務。
バンの3列目シートに身を沈める光は、
窓の外を高速で流れ去っていく
街の景色を見つめながら、
午前中に知った久我累のデータが
頭から離れずにいた。
(誰からも、愛されなかった……)
(誰にも、その小さな手を、
守ってもらえなかった……)
流れる景色のなかに、
一瞬だけ、仲睦まじく
手を繋いで歩く親子の姿が映った。
(だから、歪んでしまった……)
サイレンの残響を残しながら、
商店街の入り口へと、
滑り込むようにバンが急停車した。
すでに先着していた警察官たちが、
拡声器を手に商店街の
内部へと続く道を封鎖している。
ガチャリ、と音を立てて
バンの助手席のドアが開いた。
「よし、行くぞ!」と
神崎がその巨体を揺らし、
勢いよくアスファルトへと飛び降りる。
対象の妖魔は、
商店街の片隅にある
飲食スペースの隅に潜んでいた。
それは――
こちらを激しく威嚇するように
低く唸り声をあげる、
一匹の『犬』の形をしていた。
しかし、その肉体からは
どす黒い妖気が
陽炎のように揺らめいている。
悠真が妖魔刀の柄に手をかけ、
冷静に呟いた。
「犬の形をしているが……
妖気は割と強いな。」
神崎は警察の指揮官と
短く言葉を交わすと、
すぐにこちらの元へと戻ってきた。
その無骨な顔には、
なぜか不敵な笑みが浮かんでいる。
「よし! じゃあやるか!
――光。
お前、ちょっと前に出てみろ!」
光は、自分の耳を疑うように
大きな瞳を見開いた。
「えっ……!?
私が、ですか……?」
神崎はニコニコと豪快に手招きをする。
「お前なら大丈夫だ!
俺が必ず後ろからフォローに入る。
悠真と美咲は後衛に回れ。
こいつを絶対に、
一般人のいる規制線の外へ出すなよ」
悠真と美咲は、
淀みなく同時に短く応じた。
「了解」
光は、初めて命じられた
『前衛』という大役に
激しく戸惑いながらも、
震える手で妖魔刀を引き抜き、
一歩、前へと踏み出していった。
「グルルルル……」
妖魔と化した獣の、
地獄の底から響くような
唸り声が鼓膜を刺す。
それだけで
背筋が凍りつきそうだった。
ふと周囲に目を向けると、
規制線の外に集まった大勢の野次馬たちが、
まるでコンサートの客席のように見えた。
『おいおい……
あんな華奢な女の子が前に出たぞ。』
『マジかよ、
あんな娘に本当にやれるのか……?』
『……っていうか、
めちゃくちゃ可愛いな。』
無責任な視線とヒソヒソ話が、
冷たいノイズとなって耳に届く。
大勢の人間に
「観測」されているという事実が、
光の心臓の鼓動を
余計に狂わせていった。
美咲の、凛とした
鋭い声が後ろから降ってくる。
「大丈夫よ、光!
私たちもすぐ後ろに控えてるわ!
焦らないで、
いつも通りの動きだけを意識して!」
光は妖魔刀を正眼に構え、
その切っ先を妖魔の濁った瞳から
逸らさないよう固定し、
声を絞り出した。
「はい……っ!
頑張ります!」
神崎が、ずいっと
光の斜め前方へと
立ち塞がるように位置取る。
「いいか、光。
こいつが俺に向かって
跳んだその瞬間、
お前は側面から一気に仕留めろ。
今日は少し、
うるさい観客が多いが……
そんなものは気にするな!」
光の手のひらは、
すでにじっとりと
嫌な汗が滲んでいた。
「はい……!」
神崎が妖魔に向かって
さらに力強く一歩を踏み出し、
その重厚な大剣を、
グルンと片手で豪快に回してみせた。
「グワァァアー――ッ!!」
完全に神崎を標的と定めた獣の妖魔が、
牙を剥いて猛然と飛びかかる。
「今だ!」
班長の鋭い咆哮よりも早く、
光の身体はすでに動いていた。
無意識に地を蹴り、
鋭い踏み込みとともに
妖魔刀を空へと振り下ろす。
――ザシュッッ!
肉を正確に割いた生々しい感覚が、
硬質な手応えとなって
刀身から掌へと伝わってくる。
その鋭利な一撃は、
妖魔の肉体の奥に潜む
『核』を確実に掠めていた。
妖魔は激しい衝撃と共に
地面へと叩きつけられたが、
すぐに狂暴な執念で
体勢を立て直しようとする。
しかし――
その、ほんの僅かな隙を
悠真は見逃さなかった。
光が作った決定的な隙間を
縫うようにして、悠真の冷徹な長刀が、
音もなく妖魔の急所を貫通する。
完全に核を破壊された妖魔は、
苦しげに地面に横たわった後、
黒い雪となって、サラサラと
風の中へ霧散していった。
美咲が、弾んだ足取りで
光に駆け寄りながら、
自分のことのように
嬉しそうに微笑んだ。
「光、いい感じよ!
踏み込むタイミング、
本当にバッチリだったわ!」
班長も大剣を背に担ぎ直し、
ガハハと豪快に笑った。
「そうだな!
光、初めての前衛にしては上出来だ!
今日は少し、自分に自信を持っていいぞ。
着実に強くなってる。」
先輩たちの真っ直ぐな言葉に、
光は少しだけ白い頬を赤らめながら、
小さく、嬉しそうに頷いた。
ふと視線を感じて悠真の方を見ると、
ちょうど目が合った。
いつも無表情な戦闘の天才が、
ほんの少しだけ口元を緩めて、
よくやったと静かに頷いてくれた。
(……少しだけ、みんなの役に立てた……)
(いつも守られるだけじゃなくて、
私も……
少しは、戦えるようになってる……!)
その小さな、けれど確かな達成感が、
光の胸の奥深くに温かい灯火を灯した。
妖魔刀をパチリと音を立てて鞘に戻すと、
いつの間にか周囲を取り囲んでいた
数人の野次馬たちが、
感嘆したようにパチパチと
拍手を送ってきた。
光は照れくさそうに、
その人たちに向かって、
小さくちょこんとお辞儀をした。
ふいに、光の視界の隅――
一般人を隔てる
黄色い規制線のすぐ傍らに、
野次馬の人混みに混ざるようにして、
ポツンと座り込んで
泣きじゃくる小さな影が映った。
それは、4・5歳くらいにしか見えない、
小さな男の子だった。
光は考えるよりも先に、
その子の前にそっと歩み寄り、
目の高さに合わせるようにしゃがみ込んだ。
そして、その小さな頭を優しく撫でた。
「……怖かったね……。
もう大丈夫よ。
お母さんは……どこ?」
男の子はヒッ、ヒッと
小さな胸を上下させて嗚咽を漏らし、
泣きじゃくりながら健気に答えた。
「ママ……どっか……
いなくなっちゃったぁ……」
光はスッと立ち上がり、
その子の小さな手をぎゅっと握りしめて、
周囲の雑音を撥ね退けるように声を上げた。
「どなたか、この子の……
お母さんを知りませんか!?」
ギュッと繋いだその手は、
思った以上に小さく、
そして驚くほどに温かかった。
誰かに守られなければ、
一瞬で壊れてしまう、
あまりにも脆弱な日常の命。
すると、野次馬の向こう側から、
必死に探すような女性の
悲痛な声が聞こえてきた。
「るい――!!」
その言葉――
その名前が鼓膜を打った瞬間。
光の身体が、
まるで冷水を浴びせられたように
ビクッと強烈に強張った。
(るい……?)
午前中に美咲先輩から告げられた、
あの愛に飢えたストーカー男の名前が、
鮮明に脳裏を過る。
しかし、野次馬の群衆をかき分け、
こちらへと走ってきたのは、
ただただ我が子を心配して目を腫らした、
ごく普通の、人間の母親だった。
「るい! るい!!」
「ママ! ママ――ッ!」
母親は光の前に駆け寄るなり、
激しく涙を流しながら、
男の子の小さな身体を
壊れ物のように強く、強く抱きしめた。
「もう!
一体どこにいってたのよ……!」
子供も母親の胸に顔を埋め、
大粒の涙を流しながら何度も謝っている。
「う、うわぁぁん!
ごめんなさい、ママ……!」
光は胸の奥で、
ホッと静かに安堵の息を漏らした。
目の前で交わされる、
当たり前で、
けれど何よりも尊い
『親子の愛』の光景。
それを見つめているだけで、
光の心はたまらなく
温かい気持ちで満たされていく。
光はもう一度しゃがみ込んで、
泣き止まないその子へと、
優しく声をかけた。
「良かったね!
るい君!」
そう言って、もう一度だけ、
その柔らかな頭を優しく撫でてあげた。
母親は、光に対して
何度も何度も
深々と頭を下げてお礼を言うと、
愛おしそうに子供の手を引いて、
夕暮れの帰路についていった。
光が遠ざかっていく親子の背中に
小さく手を振っていると、
唐突に、後ろから首筋に向けて
ヒヤリとした冷たい感触が走った。
「わっ!?」
驚いて勢いよく後ろを振り返ると、
そこには満面の笑みを浮かべた神崎が、
冷たい缶コーヒーを手にして立っていた。
「良くやったな、光!
任務をこなすばかりじゃなく、
迷子の母親探しか!
ほら、これ飲め!」
班長はそう言いながら、
無骨な手で缶コーヒーを差し出してきた。
光はそれを、両手で大切そうに受け取った。
「あ……ありがとうございます、班長!」
光は手の中の冷たさを感じながら、
もう一度だけ、あの親子の
去っていった方角を振り返った。
……もし、あの人も……
あんな風に愛されていたのなら……
もっと別の、優しい明日を
選べていたのかもしれない……
光の胸の奥で、
静かな憐れみの雫が
小さく弾けた。
班長は隣にいた
悠真と美咲の元へも歩み寄り、
それぞれにコーヒーを
無造作に渡していった。
光は胸の中に宿った
複雑な心境をそっと閉じ込め、
コーヒーの蓋をパチリと開けて一口含む。
すると、神崎はふと歩みを止め、
光のその横顔を、じっと見つめた。
「お前はお前だ……。
……1人で突っ走るなよ……」
神崎は手に持った缶コーヒーを一口飲むと、
それ以上は何も語らなかった。
光はただ、
班長の不器用な気遣いを感じ取り、
照れくさそうに微笑み返した。
◇
――夕方、支部。
「光! 業務後の自主訓練でもやるか?
ただし今日は軽めにな!」
任務報告を纏めていると、
ふいに班長の豪快な声が飛んできた。
光はハッとして顔を上げ、迷わず答えた。
「はい! 是非、お願いします!」
班長はニカッと笑い、
奥の悠真に声をかけた。
「おーい、悠真!
光の自主訓練に付き合ってやってくれ!」
悠真は静かに立ち上がり、
班長に向かって軽く頭を下げた。
「……問題ないです」
美咲も微笑みながら立ち上がった。
「私も一緒に行くわ。
光の動き、見ておきたいし」
訓練室の重い鋼鉄の扉を開けた、
その瞬間。
室内の空気が、
ピンと硝子を張ったように張りつめた。
薄暗い水銀灯の下、
マットの白だけが妙に浮き上がって見える。
空調の低い駆動音と、木と汗の混じった匂いが
光の鼻腔を鋭く突いた。
光の心臓が、急に大きく暴れ始める。
(悠真さんと、美咲先輩の前で……。
私、ちゃんとやれるかな……)
竹刀を握りしめた手のひらが、
じっとりと汗ばんでいく。
向かい合う悠真の眼光が、
いつもより深く、
鋭く研ぎ澄まされていた。
「来い」
短い言葉と同時に、
悠真の竹刀が容赦なく振り下ろされた。
(速い……っ!)
光は慌てて手元で受け止めたが、
骨にまで響く衝撃が両腕を走り、
たまらず一歩後退した。
「腰が浮いている。足を地に付けろ」
悠真の声は低く、淡々としていた。
光は歯を食いしばり、
すぐに姿勢を修正して激しく踏み込んだ。
(悠真さんの動き……
本当に、速くて、強くて……
無駄が一切ない……!)
額を伝う汗と、すぐに上がる浅い息。
美咲の凛とした声が横から飛んだ。
「光、呼吸を意識して!
息を止めてちゃダメ!」
光は短く頷きながら、
再び必死に竹刀を振るった。
(怖い……。
でも……
この人たちの領域についていきたい……!)
激しく竹刀が交わる中、
悠真の冷徹な指摘が続く。
「目線が下に落ちている。
相手の動きの『次』を見ろ。
……まだ、甘い」
光は全身でその言葉を吸収しながら、
必死の形相でその背中へと食らいついた。
数合の後、悠真が不意に
ピタリと動きを止めた。
「半歩、甘い」
光は荒い息を整えながら、
悠真を正面から見据えた。
この戦闘の天才の前では、
自分のすべてが見透かされている気がした。
「迷いは、刃を鈍らせるぞ。
余計なことは考えるな」
そう言いながら、
悠真は竹刀をゆっくりと下ろした。
そして、光の頭を優しくポンと撫でた。
「敵を見ろ。
そして――
自分が守るべき者だけを、
頭の中に思い浮かべろ」
そう言い残すと、
悠真はいつもの寡黙な背中に戻り、
訓練室の出口へと歩き去っていった。
光は下ろした竹刀を握りしめたまま、
悠真の去っていく後ろ姿を、
ただじっと見つめていた。
(……悠真さんは……)
(私がどんなに弱くても、
絶対に怒らない。
私の無力さを、
責めたりもしない。
ただ……今の私のままを、
真っ直ぐに、見ていてくれる……)
光は竹刀の柄を
ギュッと強く握りしめ、
その瞳の奥が、温かいもので
少しだけ熱くなるのを感じていた。
「光、今日は本当に頑張ったわね。
お疲れ様」
悠真が去った後、
美咲がそっと歩み寄り、
優しい笑みを湛えて
声をかけてくれた。
◇
それからしばらくして――。
美咲も先に着替えを終え、
悠真の待つ外へと向かっていった。
一人きりになった、
静まり返った更衣室。
無機質な蛍光灯の光の下で、
討魔局の制服に着替えながら、
光は壁に掛けられた
鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。
まだ幼さの残る顔。
けれど――
そこに映る大きな瞳の奥の光は、
ほんの少しだけ、
昨日までの自分よりも
強く、鋭く、研ぎ澄まされている気がした。
(あやか……美咲先輩……
神崎班長、悠真さん……)
(私はもう、
ただ怯えるだけの子供じゃない。
みんなを、大好きな日常を、
今度は私が守れるようになりたい――)
ふいに、少しだけ開いた
窓の外の暗がりから、
低く穏やかな笑い声が
風に乗って聞こえてきた。
光がそっと窓辺に寄り、
暗くなった敷地を見下ろすと、
そこには悠真と美咲が、
肩を並べて仲良さそうに
談笑している姿があった。
光はその光景を、
眩しいものを見るように
少しだけ目を細めた。
(私も……
いつか、あの眩しい人たちと、
本当の意味で肩を並べられるように……)
その静かな視線に気づいたのだろう。
美咲がふと顔を上げて
光のいる窓を見上げ、
いつもの笑顔で大きく手を振った。
「光! 準備できた!?
そろそろ帰ろう!」
光は少しだけ頬を赤らめ、
慌てて窓の向こうへ声を張り上げた。
「はーい! 今、すぐ行きます!」
光はバッグを抱え、
どこか照れくさそうな、
けれど今日一番の
真っ直ぐな微笑みを浮かべながら、
壁のスイッチに指をかけた。
パチリ、と無機質な音を立てて、
蛍光灯の白い光が消える。
一瞬にして満ちた夕闇のなかに、
少女の未来への、小さな決意だけを残して、
光は軽やかな足取りで、更衣室を後にした。




