第11話 捕食者の残香
自主訓練の心地よい疲労感をまとい、
光と美咲は並んでバス停へと向かった。
街灯の柔らかな橙色の光が、
まだ濡れている路面を照らしている。
夜の風が、少しだけ冷たく、
火照った二人の頬を優しく撫でていった。
バスの座席に揺られながら、
光は窓の外へと流れていく東京の夜景を、
ぼんやりと眺めていた。
「……美咲先輩、
今日は本当にありがとうございました。
美咲先輩のおかげで、
色々、知ることができました」
美咲は隣の席で、
夜の車内灯に黒髪を美しく光らせながら、
優しく微笑んだ。
「いいのよ。
光がちゃんと前を
向いてくれて良かった。
本当はね、久我のこと……
光にどこまで話すべきか、凄く迷ったの。
でも、私が思っているより、
光はずっと強くなってたんだなって、
今日確信したわ」
先輩からの真っ直ぐな肯定に、
光は少しだけ照れくさそうに
白い頬を赤らめた。
「……確かに、
今もまだ、心の中は
複雑な気持ちでいっぱいですけど……。
でも、少しだけ……
ほんの少しだけ、
前進できた気がします」
美咲はいたずらっぽく少し微笑みながら、
声を一段トーンダウンさせた。
「悠真と稽古してる時の光、
すごく良い表情してたよ」
「えっ!?」
不意を突かれた光は、
一瞬にして顔を真っ赤にして
慌てて両手をブンブンと振った。
「……そ、そんなっ!
……悠真さんと美咲先輩って、
本当に仲が良いですよね。
なんというか、
理想の恋人同士っていうか……
私からしたら、すごく羨ましいです」
美咲は一瞬だけ驚いたように
少し顔を赤らめ、
それから笑いながら
光の肩を軽くポンと叩いた。
「何言ってんのよ!
光だってこんなに可愛いんだから、
彼氏なんてすぐに見つかるわよ」
「わ……私なんて……。
まだまだ、もっと強くなるために
頑張らなきゃ!
……って感じです……」
二人は車内の片隅で小さく笑い合い、
バスは夜の街の静寂を切り裂いて、
静かに走り続けた。
◇
バスを降りた二人は、
南砂にある光のマンションへと向かった。
街灯がぼんやりと灯り始めた道。
湿った路面が淡いオレンジ色に
光を反射している。
エレベーターを上がり、
部屋のドアの鍵を開けて
内側へと踏み込んだ――
その瞬間。
甘ったるく、腐った果実のような、
あの忌まわしい香水の匂いが、
薄く、けれど確かに、澱みのように
部屋の空気の底に残っていた。
光の肉体が、
本能的な恐怖で一瞬にして
完全に硬直する。
室内は、当局の手によって
割れた硝子窓だけは
綺麗に修復されていた。
しかし、荒らされた本棚は倒れたままで、
お気に入りで可愛く飾っていた小物類も、
何点か無残に壊れたまま床に散らばっている。
美咲が鋭い視線で
部屋の隅々を見回した。
「光の部屋、
せっかくこんなに可愛いのに……
グチャグチャになっちゃったね……」
美咲の声はどこまでも優しかったが、
その怜悧な瞳の奥には、
他者の生活を汚した
怪異への明らかな怒りと
悲しみが混ざり合っていた。
光は胸の奥の動揺を隠すように
無理に笑顔を作り、
クローゼットの扉を開けた。
「……大丈夫です。
必要な着替えだけバッグに詰めて、
すぐに出ますから……」
美咲は床に落ちていた観葉植物を起こし、
壊れた小物を丁寧に拾い集めて
棚の上に並べながら、
ふと、クローゼットの前に立つ
光の背中へと視線を向けた。
――その瞬間、美咲の動きが止まる。
クローゼットの中を見つめたまま、
光の指先が、明らかに小刻みに震えていた。
その華奢な背中が異様に強張り、
喉の奥で、息を細く、苦しげに
詰めるような不自然な動きをしていた。
「……光?……どうしたの?」
美咲の静かな問いかけに、
光は弾かれたように
慌てて中の衣類をまとめ始めた。
まるで、そこにある「何か」を、
自分自身でもほとんど見ないように
拒絶しているかのように、
大急ぎでキャリーケースの奥へと
衣服を押し込んでいく。
光はすぐに表情を平静へと戻し、
美咲を振り返って小さく言った。
「……何でもないです。
準備、できました」
美咲は光のそのあまりにも素早い
取り繕い方に、
拭いきれない違和感を覚えていた。
けれどそれを
今ここで追及することはせず、
ただ優しく微笑んで頷き返した。
美咲の目に映る光のその横顔は、
夜の静寂のなかで、
酷く、酷く哀しそうに
凍りついているように見えた。
二人は南砂のマンションを後にし、
近くのバス停へと並んで歩き始めた。
街はすっかりと薄暗くなり、
冷え切った夜の帳が下りていく。
無機質な街灯が、
湿ったアスファルトの路面を
青白くぼんやりと照らしていた。
光は、急に無口になっていた。
先ほどまで
少しだけ柔らかい笑顔を見せていたのに、
今の彼女はただ視線を地面へと落とし、
何か重い錘でも
引きずっているかのように
足取りも重い。
美咲は少しだけ歩調を緩め、
横を歩きながら、
そっと光の様子をうかがった。
バス停に着くと、
美咲は光が乗る帰りのバスが
滑り込んでくるまで、
隣で静かに一緒に待った。
やがて、夜の闇を
ヘッドライトで切り裂きながら、
大型のバスがゆっくりと近づいてくる。
プシュー、
と音を立ててドアが開き、
光が乗り込もうとしたその瞬間、
美咲は光の華奢な背中に向けて、
祈るように優しく声をかけた。
「光。
……何かあったら、何でもいいから、
必ず私に連絡してね」
光はステップに足をかけたまま振り返り、
無理に笑顔を作って頷いた。
「……はい。
美咲先輩、ありがとうございます」
◇
彩花のマンションの最寄りのバス停で、
光は一人、夜の地面へと降り立った。
ガラガラ、ガラガラと。
無機質なコンクリートに
キャリーケースの車輪を転がす音だけが、
静まり返った夜の街にやけに大きく響く。
光は親友の待つマンションへ向かう道を、
ただ一人、早足で歩き始めた。
夜の街路樹が、
風もないのに小さく揺れる、
そんな道の中央で――
ふいに、背後に、ねっとりとした
『悍ましい気配』を感じた。
「っ……!?」
心臓が冷たく跳ね、
弾かれたように後ろを振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
街灯の下、静まり返った夜道が
虚無のように伸びているだけだった。
振り返った光の顔を、
夜の風が冷たく撫で抜けた、その瞬間。
甘ったるく、腐った果実のような――
あの悍ましい香水の残り香が、
風に混じって、濃厚に鼻腔へと漂ってきた。
五臓六腑を直撃するような、
ねっとりと甘く、
激しい吐き気を催す
あの匂い。
光の背筋が一瞬にして完全に凍りつき、
足の動きがピタリと止まった。
(……気のせい……だよね?
……違う……絶対に……気のせい……)
光は無意識に
自分の胸元をきつく押さえ、
走りたい衝動を必死に抑え、
限界まで歩幅を広げ、早足に歩いた。
夜20時を過ぎた頃。
光は逃げ込むようにして
彩花のマンションへと辿り着き、
その扉の前で、冷え切った両手を
ぎゅっと握りしめて
何度も、何度も深呼吸を繰り返した。
大好きな親友に、
これ以上の不穏な影を
浴びせたくはなかった。
よし、と自分に言い聞かせ、
ようやく扉の鍵を開けた。
「ただいまー!」
「ひかり、おかえり!」
パッと玄関の明かりが灯り、
彩花がいつもと変わらない
明るい笑顔で出迎えてくれた。
「ごめんね。
仕事が終わってから、
南砂のマンションに
ちょっと荷物を取りに帰ってたから、
遅くなっちゃった」
「そうなんだ!
実は私も、さっき仕事から
帰ってきた所――」
彩花は光のキャリーケースを
受け取ろうと手を伸ばし、
そこでピタリと動きを止めた。
「ん……?
ひかり……何かあった?
凄い、疲れた顔してるよ」
光の身体が一瞬、硬直した。
しかし、光はすぐに
仮面を貼り直すように笑顔を作り、
彩花に何でもない風を装って返事をした。
「え?
ううん、本当に何もないよ……。
今日、業務のあとに
訓練でしっかり身体を動かしたから、
そのせいかな?」
彩花は少しだけ怪訝そうな顔をして、
光の曇った瞳を見つめた。
けれど、あまりにも疲弊している
親友の様子を見て、
今は深く追及するのをやめ、
わざと明るいトーンで声を弾ませた。
「そっか……。
じゃあ、ひかりは
先にシャワーを浴びておいで!
私も今日は残業で
少し遅くなっちゃったから、
二人分のお弁当を買ってきたの。
シャワーが終わったら、一緒に食べよう!」
光は精一杯の、
元気なフリをして返事をした。
「うん! ありがと、あやか」
◇
浴室の温かいシャワーで
さっぱりと汗を流した光は、
持ってきた部屋着に着替えて
リビングへと戻った。
温かいお湯のおかげで
血の気が戻ったのか、
その表情はさっきよりも少しだけ、
柔らかい日常の質感を取り戻していた。
二人はローテーブルに向かい合って座り、
彩花が広げたお弁当のパックを見つめた。
「あやか、お弁当ありがとう!
動いたからかな、もうお腹ペコペコだよ!」
彩花は手際よくお箸を割りながら、
ニコッと太陽のように笑った。
「お礼なんていーよー!
これ、スーパーの惣菜コーナーで、
半額シールが付いて
安くなってたやつだから!」
二人はまるで
呼吸を合わせたかのように、
綺麗に声を揃えて
「いただきます!」と告げ、
温かいお弁当を口へと運び始めた。
「ねぇ……ひかり……」
お箸を動かしていた光は、
ハッとして顔を上げた。
「えっ? ……何、あやか?」
彩花も自分の箸を
ローテーブルへと置き、
真っ直ぐに、
光の少し曇った瞳を見つめた。
「何かあったでしょ?
隠さなくても分かるよ」
光は、自分の心の中を
見透かされたような気がした。
あのクローゼットを
開けた瞬間に刻まれた、
誰にも言えない重い記憶の欠片。
それをどう伝えていいか分からず、
光は視線を彷徨わせながら、
真剣な表情で言葉を絞り出した。
「うーん……。
説明するの、すごく難しいんだけど……。
悲しいというか……
悔しいというか……。
美味しく焼けたクッキーをね、
せっかく分けてあげたのに……。
一口も食べないで、
ゴミ箱にぽいってされたみたいな……。
……そんな気分……」
凄く真剣な話をしていたはずなのに、
なぜ突然、クッキーが出てきたのだろう。
彩花はポカンと口を開けた。
「ひかり……。
今まさに、私が買ってきたお弁当が、
そういう悲しい運命になりそうな予感が、
ひしひしとするんですけど……」
「あぁっ……!?
そ……そんなことないよ!」
光はハッとして、
自分の手元にある、
ほとんど手付かずのままだった
お弁当に目を落とした。
「ちょっと考え事してただけで……!
ちゃんと食べる、残さず食べるよ!」
慌ててお箸を動かし、パクパクと
弁当を口に放り込み始めた光の姿を見て、
彩花の張り詰めていた口元が、
少しだけおかしそうに緩んだ。
「ひかりって、
いつも真面目な顔して、
想像の斜め上をいくよね……」
光は少し気恥ずかしそうに、
照れ臭そうに微笑んだ。
「そんなに褒めないでよ。
照れちゃうよ……。」
彩花は思わず耐えきれずに吹き出した。
「ひかり! 誰も褒めてないよ!」
少女たちの
明るい笑い声が狭いリビングに満ち、
温かい時間がゆっくりと流れていった。
食後、二人はソファに並んで腰掛け、
冷たいアイスを突っつきながら
テレビの画面を眺めた。
ふいに、彩花が光の少し細い肩に、
こつんと頭を乗せてきた。
「ひかり。
やっぱり少し疲れてるみたい。
……何かあったら、
本当にいつでも言ってね?
私はここにいるから」
光は、隣から伝わってくる
親友の絶対的な体温に救われるようにして、
その頭を優しく撫でた。
「……うん。
ありがとう、あやか。
あやかがここにいてくれて、
本当に、嬉しいの」
二人はそのまま、
お互いの存在を確かめ合うようにして、
のんびりと優しい夜を過ごした。
窓の外――
美しい街路樹の並ぶ夜道へ、
オレンジ色のカーテン越しに、
二人の笑い声が柔らかく漏れていた。
部屋の中の明かりが、
カーテンに優しく滲む頃。
その街路樹の濃い影のなかに、
ひとつの『黒い影』が、
じっと音もなく佇んでいた。
久我 累。
男は、少女たちの部屋の窓から溢れ出る、
柔らかいオレンジ色の明かりを、
暗がりの底からじっと見つめていた。
カーテンの隙間から透過する、
光と彩花が笑い合い、
肩を寄せ合っている二つのシルエット。
久我の濁った視線は、
その可憐なシルエットへと、
釘付けになっていた。
「……希……」
久我はゆっくりと、
骨が鳴るような歪な動作で首を傾げた。
カーテン越しに映る光の華奢な輪郭を、
ねばつくような視線で追い続ける。
「……光ちゃん……見つけた……」
久我の青白い唇が、
獲物を見定めた捕食者の形に歪んだ。
その縦に裂けた瞳の視線は、
カーテン越しの光のシルエットから、
一瞬たりとも、離れることはなかった。




