第12話 陽だまりの亡霊
翌日の朝――。
東京深川支部・神崎班 執務室。
窓の外には
雲一つない青空が広がっていた。
ブラインドの隙間を
すり抜けた柔らかな光が、
観葉植物の緑を、鮮やかに彩っている。
淹れたてのコーヒーの香りと、
空調の微かな稼働音。
それは、いつも通りの穏やかな朝だった。
神崎が「よし」と声をかけ、
朝礼を始めようと
デスクから立ち上がった、
まさにその刹那。
「ひゃあああ――っ!?」
およそ討伐課の執務室らしからぬ
情けない悲鳴が、
執務室の空気を派手に切り裂いた。
他班の職員も含め、
全員が一斉に
声の主へと視線を集中させる。
光は床に尻もちをつき、
大きな瞳に涙を浮かべながら
指先を震わせていた。
「……ゴ……ゴ……ゴキ……」
美咲が光の足元へと視線を落とし、
平坦な声でぽつりと言った。
「あら……。ゴキブリだわ」
悠真はふぅと安堵のため息をつき、
いつものように冷静に腕を組んだ。
神崎は頭を乱暴に掻きながら
引き出しを開け、
殺虫スプレーを取り出した。
「……ったく、
朝っぱらから大騒ぎしやがって……」
班長は無駄のない動作でスプレーを噴射し、
瞬時にそれを駆逐した。
「……ほら、倒したぞ」
光は身体を震わせながら
よろよろと立ち上がり、
手の甲で涙を拭った。
「す、すみません……班長……」
その時、光が申し訳なさそうに
神崎を見上げると、
班長は床の死骸を見つめたまま、
一瞬だけぴたりと動きを止めた。
「……ほんと……そっくりだな」
光は不思議そうに小首を傾げた。
「え……?」
神崎はハッとしたように顔を上げ、
いつもの豪快な笑顔を貼り付け直した。
「あ? いや、なんでもねぇよ!
さぁ、朝礼を始めるぞ、お前らー!」
◇
午前10時を過ぎた頃。
突然、神崎のスマートフォンが
激しい緊急着信音を鳴り響かせた。
神崎は太い眉間に深いシワを寄せ、
通話ボタンをスワイプした。
『緊急討伐依頼です!
江東区内の繁華街の路地裏に、
寄生型AAAランク2体が出現しました。
神崎班、対応できますか?』
「ああ! いつでもいけるぞ!」
神崎は通話を切ると同時に、
椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「緊急討伐依頼だ!
AAAランクが2体同時に出やがった。
すぐに準備を始めてくれ!」
光は心臓が跳ね上がるのを感じた。
(AAAランク……。
初めての高位妖魔との戦い……!)
――出撃準備室
光が震える手で
制式妖魔刀の柄を握りしめると、
隣の悠真が低い声で話しかけてきた。
「光……
今回はお前にとって、
初めての『妖肢』持ち
との闘いになる。
絶対に油断するなよ」
その忠告に、
光の背中を冷たい緊張が走る。
「はい!」
神崎班の4人は黒いバンに乗り込み、
サイレンを轟かせながら
江東区の繁華街へと滑り込んでいった。
大通り沿いに停車した車内で、
神崎が言った。
「現場はこの裏の路地裏だ。
ここから歩いて向かうぞ」
路地の入り口には
警察官が規制線を張っていた。
神崎は悠真に「先に中へ入れ」と指示を出す。
太陽の光が届かない繁華街の路地裏。
そこは、スナックやBARなど
店舗が所狭しと並んでいた。
足元には破裂した酒瓶の破片が散乱し、
路地裏の湿気とともに
ビールの不快な匂いが漂っている。
その奥、古い雑居ビルの入り口から、
どす黒い妖気が陽炎のように揺らめいていた。
神崎が警察との調整を終えて走ってくる。
「いたか?」
悠真は長刀を低く構えたまま、
ビルの暗がりを指差した。
「あそこに2体。
報告通り、どちらも間違いなく
AAAだと思います」
ビルの奥から、
人間の喉を押し潰したような唸り声が響き、
異様な腐敗臭が鼻を突いた。
入り口の影から、
床をズルズルと引き摺るようにして、
何かがゆっくりとせり出してくる。
――そして、光はそれを見た。
不気味に人間のシルエットを残した肉体。
その背中から、
大蛇のように長く、
太く、
どす黒く脈動しながら蠢く、
捕食の器官。
(……あれが……妖肢……)
久我に襲われて以来、
初めて実戦で目にする
本物の妖肢だった。
一瞬だけ背筋が凍りついたが、
光は奥歯を強く噛み締めた。
(もう……
私は、誰かの後ろに隠れて
守られるだけの子供じゃない。
今度は私が、
みんなを守りたい……!)
◇
班長の鋭い指示が飛んだ。
「悠真と俺が前衛! 美咲は中衛!
光は後方支援だ! 無理はするな!」
妖魔の1体が神崎へ肉薄し、
太い妖肢を狂暴に振り下ろした、
その瞬間――
光の妖魔刀が閃いた。
後方から放たれた鋭い一撃が、
妖肢の関節部分を正確に切り裂く。
ガキィンと強烈な振動が、
刀身を通じて光の両腕へと伝わってきた。
(……届いた……!
私の刃、ちゃんと届いてる……!)
もう1体の妖魔が
死角から美咲を狙ったときも、
光は鋭く滑り込み、
横薙ぎの一閃を放った。
妖肢を掠めた一撃が、
その必殺の軌跡を強引に狂わせる。
恐怖はまだ胸の奥にあった。
けれど、それを凌駕する熱が、
光の身体を強く動かしていた。
光が作った決定的な隙を、
美咲が逃さなかった。
横一閃、そして縦一閃。
美咲の連撃により
妖魔の胸元へ十文字の深い傷が刻まれ、
奥の『核』が露出する。
すぐさま、悠真の長い太刀が
冷徹な袈裟斬りとなって、
その核を完璧に破壊した。
後方でも神崎がもう1体の核を粉砕し、
2体の高位妖魔は黒い光の粒子となり、
舞い散る黒い雪のように霧散していった。
光は膝に手をつき、
大きく息を吐いた。
班長が豪快に笑いながら光の肩を叩く。
「光、今日も動きが最高に良かったぞ!
確実に強くなってる」
悠真が静かに近づき、
光の頭を優しく撫でた。
「……よくやった。
初めての妖肢持ち相手でも怯まなかったな。
最初の任務のときとは、まるで別人だ」
光は少し驚きながら、
みんなの顔を見回した。
美咲が肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「光、誇っていいわよ。
本当に頑張ったね」
光は頬を赤らめながら、
胸の奥が熱くなった。
「……ありがとうございます。
みんながいるから……頑張れます」
帰りの車の中。
光は窓の外、
午後の日差しに
揺れる緑を眺めながら、
班長がくれた缶コーヒーを
ギュッと握り締めた。
(……少しずつ、私は前に進めてる。
みんなと一緒に……)
小さく、けれど確かに――
光の唇に穏やかな微笑みが浮かんでいた。
夕方17時を過ぎ、
執務室で光は彩花にLINEを送った。
光:『あやか、ごめん!
今日は残業になっちゃった。
もう少しで終わるから、
先に夕飯食べててね!』
彩花:『了解ー!無理しないでね。
帰ってきたら温かいお茶入れて
待ってるよー♪』
光と美咲は並んで報告書をまとめていた。
「美咲先輩、この部分……
『光の俊敏な動きにより、
妖魔の側面を崩すことに成功』で
本当に大丈夫ですか?」
美咲が優しく微笑んだ。
「完璧よ。
今日は本当に光が頑張ったんだから」
光はキーボードをパチパチと叩き、
ふと小さく微笑んだ。
「……書くと、自分が少し
強くなれた気がします」
◇
一方、夕方18時半頃。
彩花がいつものように
鍵を回してドアを開けた瞬間――
部屋の中に、腐った果実のような
甘くねっとりした香水の匂いが、
むっと漂ってきた。
「……え?」
違和感に眉をひそめながら。
一歩踏み込んだ彩花の目に、
リビングの奥の異常な光景が飛び込んできた。
西日の夕陽が低く差し込む部屋の中、
見知らぬ一人の男が、
椅子に深く腰掛けていた。
「……誰……ですか?
あなた……っ」
久我累は、
ゆっくりと首の骨を鳴らすような
歪な動作で彩花を見つめ、
ニチャッと唇を歪めた。
男の足元には、
強引にこじ開けられた
光のキャリーケースが転がり、
衣類が無造作に、無惨に散らばっている。
「あれぇ……?
おかしいな。
光ちゃんの方が、
早く帰ってくると思ったんだけどな……。
――おかえり、彩花ちゃん♪」
彩花の呼吸が止まった。
喉の奥がひくりと鳴り、
恐怖で胃の奥がぐっと不快に縮み上がる。
(なんで……
この人が部屋の中にいるの?
ひかりのものをめちゃくちゃにして……
なんで、私の名前を……)
彩花の視線の先、
久我の手元に目が止まった。
男は、彩花が丁寧に
棚の上に飾ってあげたばかりの、
光の母『希』の写真立てを弄んでいた。
彩花の拒絶の視線に気づいた久我は、
その写真をペロリと舌先で舐めあげ、
狂気的な愛おしさを湛えた瞳で見つめた。
「希……。
やっと俺も、その温もりを、
すべて奪うことが出来そうだよ……」
彩花は喉がカラカラに乾ききってしまい、
声が出ない。
脳裏を過るのは、
光が怯えたように語った
「怖いストーカー」の存在だった。
足がガクガクと震え、
後ろ手に握ったドアノブから手が離れない。
心臓の鼓動だけが
耳の中で爆音のように鳴り響き、
視界が急激に狭まっていく。
久我は、そんな彩花の反応を
楽しむように細い目をさらに細めた。
そして、希の写真を、
指先から滑らせるようにして
床へと落とした。
――ガシャンッ!!
写真立ての硝子が派手に粉砕され、
床の上に無数の鋭利な破片となって
激しく飛び散った。
その音に、彩花の肩が
ビクッと大きく跳ね上がる。
ベタ……、ベタ……。
湿った、不快な足音を立てながら、
久我がゆっくりと近づいてきた。
彩花は息を止めたまま、
その近づいてくる足音だけを、
ただ恐怖の中で聞いていた。
(こんな恐ろしいモノに……
毎日……ひかりは一人で怯えてたの……?)
逃げ出したいのに、
足に鉛でも詰められたように
一歩も動けない。
「そんなに怖がらないでよ……。
俺は光ちゃんの、
特別な、特別なお友達だよ?
ふふ……彩花ちゃんも、
近くで見ると
こんなに可愛い顔をしてるんだね。
光ちゃんが、
世界で一番大事にしている親友……
なんだよね?」
久我の歪んだ笑みが、
さらにねっとりと広がっていく。
彩花は、か細く震える声を
喉の奥から必死に絞り出した。
「……出て……行って……っ!
警察、呼ぶよ……!」
ベタ……、ベタ……。
「いいよ、呼んでも。
でもさ、光ちゃんが帰ってくる前に、
俺と少しだけ……お話ししない?
光ちゃんのこと……
もっと教えてくれないと……」
彩花の視界が恐怖の涙で
ボロボロとぼやけ、
膝の力が抜けて崩れ落ちそうになる。
頭の中に、
大好きなひかりのあの笑顔が、
何度も、何度も繰り返された。
(ひかり……大好き。
いつも一緒にいてくれて、
本当に、ありがとう……。
……だからお願い、ひかり。
早く、早く帰ってきて……!)
(お願い――助けて――ッ!!)
日常の箱が、
完全に地獄の向こう側へと
反転したその刹那。
穏やかな夕陽は、
無残に散らばった硝子の破片を、
ただ赤黒く、血のように
照らし続けていた。




