第13話 崩壊のファンファーレ
日が沈み、世界が急速に
冷徹な闇に呑まれ始めていた。
AAAランク2体の緊急討伐任務、
その報告書の作成を終えて、
提出を完了したのは、
すでに時計の針が
午後19時を回った頃だった。
光がデスクの周りで
帰りの支度をしていると、
執務室の奥から、
神崎が心配そうな気配を纏って
声をかけてきた。
「光!
お前もこんな時間まで
残ってたのか……
外はもう真っ暗だ。
危ねぇから送っていくぞ。
車に乗れ」
光は恐縮して、
慌てて小さく首を横に振った。
「そんな……
わざわざ申し訳ないです!
今日も美咲先輩が一緒なので、
本当に大丈夫です!」
神崎は少しだけ眉を下げ、
納得したように深く頷いた。
「そうか……。
なら、ちょっと待て」
班長はそう言い残すと
廊下へ歩いていき、
自販機で冷たい缶コーヒーを2本、
手にして戻ってきた。
「じゃあ、気をつけて帰れよ!」
無骨な手のひらから差し出された、
2本の缶。
神崎はそれを、
光と美咲へとそれぞれ手渡した。
手のひらに伝わるアルミ缶の冷たさが、
今日一日を戦い抜いた肉体の火照りを
優しく静めていく。
光と美咲は、
声を揃えて頭を下げた。
「ありがとうございます、班長」
「ああ。美咲、光を頼んだぞ」
「はい。分かっています。
さぁ……
光、帰ろう!」
美咲が先に立ち、
光はその隣に寄り添うようにして、
静まり返った執務室を後にした。
背後で、神崎が
淹れたてのコーヒーを
一口すする音が、
やけに遠く、穏やかに響いていた。
◇
光は美咲と一緒に、
夜の静寂が満ちていく支部を後にした。
敷地を出てすぐの夜道、
「今日はすっかり遅くなっちゃったね」と、
美咲が歩調を合わせながら
光の髪を優しく撫でた。
「彩花ちゃんも待ってるでしょ。
きっと心配してると思うから、
早く帰らなきゃね!」
光の脳裏に、
帰ってきたら温かいお茶を入れて
待っててくれるという
親友の愛らしいメッセージが浮かぶ。
光は美咲へ向けて、
心からのニコッとした笑顔を返した。
「……はい。
でも、残業になるってLINEは
もう送ってあるので、きっと大丈夫です」
二人は並んで夜のバスに乗り込んだ。
車窓を流れていく東京の夜景を
静かに見つめながら数駅。
いつもの、親友のマンションへと続く
最寄りのバス停で、光は美咲と別れた。
「じゃあ、また明日ね、光」
降車口ステップで振り返る美咲が、
夜の風に黒髪を揺らす。
「今日は遅くまで一生懸命仕事して、
すごく疲れたでしょ?
今夜は、ゆっくり休んでね」
美咲のどこまでも温かい労いの言葉に、
光はいつもより、少しだけ胸を張って
誇らしげに返した。
「ありがとうございます!
でも、今日はみんなと頑張れたので……
疲れよりも、充実感の方が勝ってます!」
光の大きな瞳には、
一歩前へ進めたという
確かな光が灯っていた。
「美咲先輩も、お疲れさまでした!」
プシュー、と
機械的な音を立てて
バスの扉が閉まる。
ガラス窓越しに、
二人は互いに小さく手を振り返し合った。
まるで、
当たり前にやってくるはずの、
平和な明日を、
これっぽっちも
疑っていないかのように。
バスが去り、
完全に一人になった帰り道。
等間隔に並ぶ街灯が、
夜の街路樹をキラキラと綺麗に、
幻想的に彩っていた。
光は足取りを、自然と軽くした。
サワサワと夜の風が
街路樹の梢を揺らし、
青々とした葉同士が
擦れ合う音が響く。
今の彼女にはまるで、
戦いに打ち勝った自分を祝う、
勝利の凱旋の
ファンファーレのように
聞こえていた。
◇
光はバッグの奥から鍵を取り出し、
彩花のマンションのドアを開けた。
日常という名の安全な殻へと戻る、
いつもの動作。
しかし、ドアを開け放ったその瞬間――。
世界が、不気味な違和感に包まれた。
「……ただいま……あやか?」
暗い。
部屋の中は、
闇に呑まれたように真っ暗で、
水を打ったように静まり返っていた。
いつもなら
玄関の鍵を開けただけで
飛んでくるはずの、
親友の明るい声がない。
部屋のどこからも、
彩花の確かな体温の気配がしなかった。
光の胸の奥に、
ゆっくりと、しかし確実に、
冷たい不安の色が広がっていく。
靴を脱ぎ、
フローリングへと
一歩踏み込んだ、
その刹那――。
甘ったるく、腐った果実のような、
あの悍ましい香水の匂いが、
暗がりの奥から、
光の鼻の奥を容赦なく突き刺した。
「――――っ!?」
光の華奢な全身が、
本能的な恐怖の自衛反応で
びくりと完全に硬直した。
『ドクン……ドクン……』
心臓が、耳の奥で
嫌な音を立てて暴れ始める。
(この匂い……
まさか……
嘘、嘘だよね……?
なんで……)
這うようにして
リビングへと進み、
壁のスイッチを
探り当てて明かりをつけた、
その瞬間。
網膜に飛び込んできた
あまりにも無惨な光景に、
光は大きく目を見開き、
驚愕に息を呑んだ。
自分のキャリーケースが
狂暴にこじ開けられ、
床には光の衣類や私物が
乱雑に散らかされている。
さらに、
吸い寄せられるように
視線を移した先――。
彩花が
「ここならお母さんが
見守ってくれるよ」と
優しく飾ってくれた、
あの壁際の棚の上。
そこにあったはずの母・希の写真立てが、
冷たい床の上に無残に落ちていた。
透明なガラスには、
縦に引き裂かれたような鋭いヒビが走り、
その亀裂の向こうで、
いつもと変わらないはずの
母の優しい笑顔が、歪んで見えた。
光の呼吸が、完全に止まった。
震える手で、
異界と化した部屋の中を見回すと、
リビングのガラステーブルの上に、
ぽつんと一枚の白い紙が
置かれているのが見えた。
近づき、そこに這う文字を、
青ざめた瞳でなぞる。
『ひかり、少し一緒に散歩しよう。
荒川の土手の公園で待ってるね。
あやか』
それは、
彩花の名前が記された手紙。
けれど、その筆跡は
恐怖に極限まで怯えたように
微妙に細かく震えていて、
彩花のいつもの筆跡とは、
明らかに異なっていた。
その瞬間。
光の頭の中が、真っ白に遮断された。
数秒の間、自分が今、
息をしているのかどうかすら
分からなかった。
『ドクン……ドクン……ドクン……!』
視界が歪に揺れ、
胃の奥が雑巾を絞るように
ギュッと縮み上がる。
膝の力がガクンと崩れそうになり、
喉の奥から激しい酸を孕んだ
吐き気が込み上げた。
(……久我 累……
今度はあやかの部屋に……。
あやかを……
私の代わりに、連れていったの……?)
頭の中を走馬灯のように過るのは、
東西線の車内、自分の耳元で
ねっとりと囁かれたあの甘ったるい声。
久我の歪に裂けた瞳と、
肉体を締め上げてきた
黒い触手の悍ましい感触。
(……私のせいだ……!)
(私が、あいつの恐怖から逃げたくて、
あやかの家に泊まるって言ったから……)
(私が、あいつの悪意をここに呼び寄せて、
あやかを巻き込んでしまったんだ……)
(また、私は……
誰も、守れなかった……)
床に散らばった衣類の上で、
光は自分の胸元を
きつく掻きむしるようにして握りしめ、
誰もいない静寂の部屋のなかで、
声にならない悲痛な絶望に、
その小さな肩を
激しく震わせるのだった。
◇
最悪の結末が、頭の中を過り、
光の瞳から、大粒の涙が勝手に溢れて
その白い頬を絶え間なく伝った。
肺の酸素がうまく吸えなくなり、
胸の奥が締め付けられるように苦しい。
光は激しく震える指先で、
スマートフォンを取り出し、
数分前に別れたばかりの、
唯一の命綱である
美咲の番号へと電話をかけた。
「美咲先輩……!
あ、あやか、
あやかが部屋にいなくて……っ!
久我の香水の匂いが残ってて……。
キャリーケースも無理やり開けられてて……!
テーブルに、置き手紙が……
……荒川の土手の公園に来てって……
書かれてて……!!」
上ずった声は、
すでにほとんど
悲痛な泣き声になっていた。
受話器の向こう、
美咲のどこまでも
冷静だった声音が一瞬にして、
凍りつくような鋭さへと変貌した。
『光!
落ち着いて私の話を聞きなさい!
今すぐその部屋から離れて!
近くのコンビニとか、
とにかく一般人のいる
明るい場所に避難して!』
その鋭い声が、鼓膜を叩く。
『絶対に、一人で
その公園に向かっちゃダメ!
今すぐ悠真と班長に連絡して、
私もそこに行くから待ってて!』
プチ、と通話が切れた後も。
光はスマートフォンを
きつく握りしめたまま、
無機質な壁に背中を預けて
立ち尽くしていた。
涙が、止まらない。
(……私だけ、安全な場所に避難する……?)
(そんなこと、できるわけない……。
ダメ……
あやかを、
私のせいで捕まったあやかを、
今すぐ助けに行かなきゃ……!)
「あやか……あやか……っ」
大好きな親友の名前を
呪文のように何度も呟きながら。
光はバッグの底から、
討魔局支給の護身用ナイフ
『妖小刃』を
ひったくるようにして取り出した。
そして、
未だガタガタと震える足に
無理やり力を込め、
異界の匂いの残る
マンションを飛び出した。
……コツ……コツ……。
コンクリートの階段を駆け降りた先、
太陽の光が完全に死に絶えた、暗い夜道。
先ほどまで、
自分の小さな前進を祝うように
心地よく聞こえていたはずの、
街路樹の葉が擦れ合う
サワサワという音。
それが今は、
取り返しのつかない
最悪の未来を不気味に煽り立てる、
凶兆の胸騒ぎの音へと
完全に反転して聞こえていた。
光は胸を切り裂くような
圧倒的な恐怖を無理やり押し殺し、
手の甲で乱暴に涙を拭いながら、
暗黒の夜のなかを、
荒川の土手へ向けて
ただ一人、走り続けた。
その小さな手のひらで
強く握り締められた
妖小刃の白銀の刃が、
少女の怯えを映すように、
カタカタと小さく、
頼りなく震え続けていた。




