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白翼の光  作者: 月凪
第四巻 希望と影は光を紡いで

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第87話 誓いの翼


予感は、いつも五感よりも先に肌を刺す。


豪雨に遮断された五階建てのビルは、

人の気配を完全に拒絶していた。


降り注ぐ雨水は

コンクリートの壁を黒く濡らし、

どこか、どす黒い血液の膜を

張っていくようでもあった。


ザァァ……、ザァァ……。


空間を圧迫する雨音の隙間に、

かすかな、けれど致命的な

「異物」の気配が混じる。


主人の帰還を永遠に失ったかのように、

そのビルの前に、ぽつんと乗り捨てられた

一台の黒いバン。


それは、この先に待つ

取り返しのつかない惨劇を静かに見守る、

冷徹な墓標のように佇んでいた。


――キギィィィッッッ!!!!!


その静寂を力任せに切り裂いて、

そのバンの隣に、神崎の車が滑り込んだ。


激しい摩擦音とともに

アスファルトを削り、急停車する。


神崎はドアを開け放ち、

その孤独なビルの中を目指した。


その大きな掌には、

妖魔刀が固く、白くなるほどに

握りしめられている。


他には何も聞こえない。

ただ、激しい雨の音だけが響くビルの中。


神崎は、ただひたすらに

希の無事だけを祈り、

その階段を駆け上がっていく。


五階。


最上階に足を踏み入れた瞬間、

生々しい鉄の匂いが立ち込めていた。


床に転がる、

討伐課の職員たちの遺体。


無残な骸。


その惨劇の最奥――。


折れて粉々に砕け散った

妖魔刀の破片の隣に、彼女はいた。


希は、広大な血だまりの上で、

分離された黒い妖肢によって

両腕を天に向かって縛り上げられ、

無力に宙吊りにされていた。


両足首から先は綺麗に切断され、

剥き出しの断面から

白い妖気が弱々しく舞い上がり、

大量の鮮血が絶え間なく滴り落ちていた。


項垂れた口元からも鮮血が溢れ、

腹部の傷からは

止まる気配のない血が流れ続けている。


その傍らで、

薄刃は両膝をだらしなく左右に割り、

力なく床にへたり込んでいた。


残った妖肢で宙に吊るした希を、

まるで玩具のように

徹底的に嬲り続けている――。


薄刃の右の掌は異形の暗赤色に脈動し、

白く淡く輝く小さな結晶を

握りしめていた。


それはまるで、小さな心臓のように、

かすかに脈打っている。


薄刃はそれを愛おしそうに懐にしまい、

冷たい硝子のような目で神崎を睨みつけた。


口の端を、わずかに歪める。


「……遅かったな、神崎」


神崎の視界が、怒りで真っ赤に染まった。


頭の奥で、

理性がすべて焼き切れる音がした。


「テメェ……


何をしやがったァァァァッッッ!!!」


獣のような咆哮。


神崎は大剣型妖魔刀を

狂暴に振り上げて斬りかかった。


神崎の凄まじい怒りに呼応するかのように

刀身が禍々しく赤く輝き出す。


薄刃は立ち上がり、

ボロボロの体で複数の妖肢を繰り出した。


辛うじてその一撃を弾いたが、

神崎の勢いはもはや止められない。


怒りがそのまま刃の質量となったかのように、

激しい衝撃波を伴って大刃が振り下ろされる。


一閃。


二閃――。


赤く燃え盛る大刃が

薄刃の体を容赦なく切り裂き、

そのまま窓枠の外の虚空へと吹き飛ばした。


薄刃は暗い夜空へ落下しながら、

血の混じった声で、満足そうに低く笑った。


「……フッ……


やっと……手に入れたぞ……希……」


神崎は落ちていく薄刃に目もくれず、

すぐに宙に吊られた希の元へ駆け寄った。


希の華奢な体を

自身の左腕でしっかりと支え、

右手で大刃を鋭く振るう。


天井から伸びて

彼女の両手を拘束していた黒い妖肢を、

根元から力任せに叩き切った。


重力に従って落ちてくる希の体を、

正面からその大きな胸で受け止める。


そのまま床の上へ、

希の体をゆっくりと、

静かに下ろして抱き上げた。


「おい……希!


しっかりしろ!」


希の瞳がうっすらと開いた。


「……かん……ざき……」


希の口から漏れた、

かつて一度も聞いたことのない

消え入りそうなほどに弱々しい声。


神崎は自分のワイシャツを脱ぎ、

希の深く抉れた腹へ押し当てた。


祈るように、必死に止血を試みる。


しかし、温かい鮮血は

神崎の指の隙間から溢れ、

容赦なく床を赤く染め続けていく。


希は血まみれの震える指先を

ゆっくりと持ち上げ、

神崎の頰にそっと触れた。


「ひ……光……無事……?」


神崎は目頭が熱くなるのを必死に堪え、

何度も激しく頷いた。


「ああ……無事だ!


だからお前も生きろ!


死ぬな……希!!」


「よ……良かった……


光……怒ってなかった?」


「怒る訳ねぇだろ……!」


その言葉を聞いた瞬間、

希の痛みに張り詰めていた表情が、

ふっと、柔らかくほどけた。


「そっか……」


まるで、それだけを

確かめたかったかのように、

彼女の顔に心からの安堵が広がる。


希の目はすでに神崎を見ていなかった。


ずっと遠く、

愛しい愛しい娘の姿を見つめるように、

ゆっくりと右手を空へと伸ばす。


何も無い空間を掴むように、

虚空でその指を優しく動かした。


「……光……ごめんね……


誕生日……翼……あげられなくて……」


神崎の胸が、音を立てて張り裂けた。


空へと伸ばされた希の手を、

自分の両手でぎゅっと、

壊れるほど強く握りしめる。


「そんなこと言うな!


お前が……


お前が自分で渡せばいいだろ……!」


神崎の声が、遠く、ひどく遠くで響いている。


急速に冷えていく指先。


感覚を失っていく肉体の中で、

自分の意識だけが、

世界から切り離されたように

静かに澄み渡っていく。


ああ。


私はもう、会えないのか……


せめてもう一度……

抱きしめたかったな……


一緒に誕生日……お祝いしたかったな……


光――


脳裏に浮かぶのは、


泣き虫で、


優しすぎて、


私の後ろをいつも

必死に追いかけてきた小さな背中。


あの子を一人、

この世界に残してしまう。


――それでも、光。


どうか、生きて――


「……光……


本当は、一緒にいたかっただけだよね……


お母さん……知ってたよ……


ありがとう……幸せだったよ……」


その言葉を最後に、

希の体から白い光の粒子が

ゆっくりと溢れ出した。


神崎は希の冷えていく亡骸を強く抱きしめ、

声を限界まで振り絞って叫んだ。


「希……!


おい……希!!


目を開けろ!!」


だが、希の瞳から完全に光が消え、

その瞼が静かに閉じられた。


白い粒子は彼女の体を

優しく包み込むように舞い上がり、

雨の夜空へと溶けて消えていった。


後ろから、重い、悲痛な足取りで、

冬華がゆっくりと近づいてきた。


かつて共に戦った親友の、変わり果てた姿。


冬華は神崎の隣りに崩れるように膝をついた。


「……希……」


冬華の声が、激しく震えて涙に変わる。


神崎は希の亡骸を抱いたまま、動けなかった。


残されたのは、血に染まった自分の体と、

まだ、ほんのわずかな温もりだけを残した――


美雲希の姿だけだった。


◇


――数日後。江戸川区の火葬場。


火葬炉の前に、光は呆然と立ち尽くしていた。


通夜の間も、葬儀の間も、

ただ毅然としていた光だったが、

希の棺が炉に入る直前、

光の心の中で、何かが完全に崩壊した。


「いやぁぁ……!


お母さん……!」


突然、叫び声を上げて崩れ落ち、

光は棺へと必死にしがみついた。


「光ちゃん……離れろ……!」


神崎が後ろから

彼女の華奢な体を必死に抱きかかえ、

引き剥がそうとする。


だが、光は激しく抵抗し、

神崎の腕の中で

涙をボロボロと流して叫び続けた。


「待って……待って!


まだそこにいるのに! 閉めないで!!」


光は震える手で棺の縁を掴んだ。


手のひらに伝わる、冷たい木の感触。


その向こうに、お母さんがいる。


「……やだ……」


「やだよ……お母さん……」


あと少し手を伸ばせば、

また頭を撫でてくれる気がした。


「ひかり……!」


そのとき、

後ろから駆け寄ってきた親友の彩花が、

神崎の腕から光の体を強引に抱き取った。


「私だよ、彩花だよ……!


もう……


もう大丈夫だから、ひかり……!」


彩花は光の小さな体を強く、

壊れるほどに抱きしめ、

その背中を何度も、何度も優しく撫で続けた。


光は彩花の胸に顔を埋め、

子供のように大声を上げて嗚咽を漏らし、

激しく身体を震わせて泣きじゃくった。


神崎は、その二人の姿を、

胸が張り裂けそうな思いで

見つめることしかできなかった。


やがて、重い鉄の扉が閉まり、

火葬が始まった。


どれだけの時間が経っただろう。


火葬場の煙突から、

白い煙が、ゆっくりと

空に向かって昇っていくのが見えた。


だが、その煙は――


普通の煙とは、明らかに違っていた。


白く輝く粒子を含み、青空に舞い上がると、

まるで雪のようにゆっくりと降り注いできた。


神崎は呆然とその光景を見つめた。


白い粒子は、風に運ばれるようにして、

火葬場の外で彩花に抱きしめられている、

光の小さな背中へと……


静かに、優しく、降り積もっていった。


光は突然、泣きじゃくるのを止めた。


ぽつりと、涙で濡れた顔を上げ、

空を見つめる。


「……お母さん……?」


神崎の目から、とうとう涙が零れ落ちた。


(……希……)


白い粒子は、

光の小さな背中へと

ゆっくり吸い込まれるように消えていった。


それは、翼ではなかった。


まだ、羽根の形すら持たない。


ただ一つ。


この世界に残された、

母親の強すぎる願い。


――この子だけは、守りたい。


その願いは、

光の背中の奥深くで、

長い、長い眠りについた。


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