第86話 血涙の雨が降る場所で
昏い湾岸部の臨海道路に、
雨がしとしとと降り始めていた。
それはひどく冷たい雨だった。
吹き抜ける風が、
冬華の長い髪を濡らし、
その青白い頰へと
容赦なく張りつかせている。
足元で、討伐された妖魔の巨躯が
粒子となって霧散していく。
黒い雪のような塵が、
灰色の空の境界へと溶けて消えていった。
妖魔刀を鞘に収め、
神崎は忌々しげに天を仰いだ。
「ちっ……雨降ってきやがったか……」
その瞬間――。
神崎の胸ポケットで、
スマートフォンが激しく振動した。
画面に通知されたのは、希からのLINE。
『爆弾』
『光が危ない』
『助けて』
単語が3通、
脈絡もなく立て続けに流れ、
最後に光が通う塾の、
正確な位置情報が送られてきた。
ドクン、と神崎の心臓が嫌な音を立てた。
全身の血の気が一瞬で引き、視界がかすむ。
「……は?」
隣で画面を覗き込んだ冬華の表情も、
わずかに強張った。
あの希が。
他人に『助けて』などと
送ってくるはずがない。
それが意味する絶望の深さに、
脳の理解が追いつかない。
その直後、神崎が手に持ったスマホに
本部からの緊急着信音が鳴り響いた。
画面に浮かび上がったのは――
『総司令』の3文字。
神崎は冬華と一瞬だけ視線を合わせ、
すぐにスピーカー通話に切り替えた。
「はい。こちら神崎」
『神崎か。
先程、深川支部から緊急連絡が入った。
希が、任務中の妖魔を放置して
移動している。異常事態だ』
総司令・九重 宗一郎の、
感情を排した鋼のような声が響く。
「総司令!
恐らく希の身に何かが起きました!
今、あいつから直に連絡が来て……
爆弾から娘を助けてくれと、
位置情報が届いたんです!」
一瞬の、冷徹な沈黙。
九重は一切の動揺を見せず、
淡々と、世界の理を告げるように
指示を出した。
「分かった。
先ずは一般人の保護が最優先だ。
お前達は、そのまま光のいる場所へ向かえ。
希の現在地は、リアルタイムで
そちらの端末に同期させる。
……篠宮、お前は爆発物の
処理知識に長けていたな。
念のため、本部から
特殊探知機を積んだ車両を回す。
光を救出次第、
即座に希の元へ向かえ。
希と……南砂の倉庫は、
こちらでも包囲網を敷く」
「了解!」
◇
南砂。
光が通う塾の正面。
――ギャァァァアアアッッッ!!!
急ブレーキの悲鳴とともに、
黒いバンがアスファルトを滑り、
横付けされた。
ドアが開き、神崎と冬華が
地を蹴って降り立つ。
激しい雨の中、
塾の前にぽつんと佇む一人の男がいた。
男は傘もささず
街灯の鈍い光を浴びながら、
ふいに、二人を見据えて声をかけてきた。
「神崎と、篠宮か……」
その顔を見た瞬間、
神崎の目が限界まで見開かれた。
「お前……確か、龍の配下だな」
男はフッと、
夜の闇に溶けるような
不気味な笑みを浮かべた。
「九条 牙狼だ」
そう名乗ると同時に、
九条は自身の背中から、
一本の太い妖肢を引き抜いた。
背中から引きちぎられるように
現れたそれは、黒く不気味に脈動する
一振りの妖魔刀そのものだった。
神崎も迷わず大剣型妖魔刀を抜き放ち、
正眼に構える。
「くっ……こんな街中でやる気かよ。
冬華、周りの一般人を避難させろ!」
その瞬間、
空気を切り裂くサイレンの音とともに、
討魔局の特殊車両が急停車した。
勢いよく開いた扉から、
物々しい防護服に身を包み、
爆発物探知機を抱えた局員が飛び出してくる。
現場は一瞬で、
戦場という名の混沌に塗り潰された。
◇
一方、
南砂の現場からそう遠くない、
無人の廃ビル。
コンクリートが剥き出しになった
薄暗い部屋の真ん中に、
希は薄刃に連れられて立っていた。
窓から吹き込む雨が、
彼女の白い肌を冷たく濡らしていく。
「こんな所に何の用?
私をここに連れてきて、
どうするつもり?」
希の声音には、
いつもの軽やかさはなかった。
けれど、恐怖もない。
薄刃はククッと、
喉の奥で昏い笑いを漏らした。
「美雲 希。
ここで、私と決闘をしよう。
……ただし、貴様がその特異な
『白い妖気』を使った時点で、
娘はあの塾ごと爆弾で消し飛ぶ。
心してかかってこい」
希は一瞬の沈黙の後、
ゆっくりと、妖魔刀の柄に手をかけた。
シャイン、と抜刀の音が、
冷徹に部屋に響く。
「へー……。
妖力を使った私には、
勝ち目が無いと思って、
光を遠隔で人質にとった……って訳ね。」
口ではそう言ったものの、
希の胸の奥には、
初めて冷たい焦燥が過っていた。
(……ちょっとマズイな。
妖力無しで、生身の剣技だけ。
しかも1人で薄刃くん相手は……
さすがにキツいかも……)
薄刃は、獲物の破滅を
確信した学者のような目で、
不気味に笑った。
「さぁ……
行くぞ、美雲 希。
これでお前は、俺の物だ……」
◇
――光の通う塾。
バリィィイイィンッッ!!!
破れたガラス破片とともに、
神崎の巨体が、窓ガラスを突き破って、
塾の中へと叩きつけられた。
「ぐっ……!」
まだ学生や講師が残る教室の片隅に、
怯える光の制服姿が見えた。
パニックに陥った悲鳴と叫び声が、
狭い空間に木霊する。
「早く……!
早くこの建物から逃げろ!!」
神崎は血を吐きながら叫んだ。
その割れた窓枠から、
九条が音もなく室内に侵入してくる。
「どうした、神崎。
……その程度か。
殲滅班が聞いて呆れるな」
九条は室内を見渡し、
すぐ近くで恐怖にへたり込む
光の姿を正確に捉えた。
「おっと……お前は逃げるなよ」
ヒュン、と黒い妖肢が伸び、
光の細い腰に巻きついた。
そのまま、彼女の身体を
宙へと吊るし上げる。
「いやぁぁっ……!」
光の顔が、恐怖で
真っ赤から一瞬で真っ青へと変わる。
神崎は泥臭く起き上がり、
妖魔刀を構え直した。
「テメェ……ッ!
その子を離せ!!」
九条は、さらにもう一本の妖肢を展開すると、光の細い首を容赦なく締め上げた。
「……ぅ……あ……っ……!」
光の酸素を奪われた小さな声が漏れる。
苦しい。
怖い。
声が出ない。
けれど、霞む視界の向こうで、
大きな背中が立っていた。
九条は残酷に目を細めた。
「こいつを逃すわけにはいかないからな。
どうした、神崎。
早く俺を倒さないと、
希の娘の首がへし折れるぞ。
本気で来い!」
その瞬間――。
――ドスッッ!!!
天井の排気口から、
一筋の閃光が降り注いだ。
冬華の放った妖魔刀が、
死角から九条の首筋を
深々と貫いたのだ。
「グッ……!?」
神崎はその一瞬の隙を、
絶対に見逃さなかった。
地を這うような爆発的な踏み込み。
九条の横を一瞬で駆け抜けながら、
光を捉えていた妖肢を力任せに切り裂く。
そして、すれ違いざま、
九条の背中へと大刃を深々と突き刺した。
「グハッ……!」
肉を切り裂く音とともに、
九条の背中から黒い粒子が舞い散る。
光の身体が、
教室の床へと力なく崩れ落ちた。
ピクリとも動かない。
天井から冬華が息を切らせて叫んだ。
「神崎!
爆弾の解除は完了した!
罠はすべて外したぞ!」
神崎は九条の肉体から、
冷徹に妖魔刀を引き抜いた。
「もう諦めろ。
お前達の作戦は失敗だ」
九条は、その体から
大量の粒子を撒き散らしながらも、
なぜか焦る様子もなく、
口の端を不気味に釣り上げて笑った。
「フッ……そのようだな。
なかなか楽しかったぞ、神崎……
また会おう……
その時は、もっと本気で来いよ。」
そう言い残すと、
九条は残った妖肢を割れた窓枠に突き立て、
激しい雨の中へと飛び出した。
一瞬でその姿は闇に消え、
遠くから彼を嘲笑うような
歪んだ笑い声だけが、
冷たい雨音に混ざって響いていた。
神崎はすぐさま、
床に倒れている光の元へと駆けつけ、
その華奢な身体を抱き起こした。
「おい!
生きてるな!?
しっかりしろ!」
「う……っ……」
光はうっすらと、
涙に濡れた目を持ち上げ、
神崎の必死な形相を確認した。
張り詰めた糸が切れていく。
大きくて、
温かくて、
怖くなかった。
再び意識が、遠くなる。
降りてきた冬華が、
急ぎ足で2人の元へ駆け寄る。
「神崎! 希の娘は無事か!?」
神崎は深く頷き、
動かない光を冬華の腕へと預けた。
「ああ。
気を失ってるだけだ。
冬華、悪いが医療班が来るまで
光ちゃんを頼む。
……俺は、先に希の所へ向かう!」
「待て! 神崎!
1人で行くな!」
背後からの冬華の鋭い制止の声。
しかし、神崎にはもう、
それを受け入れる余裕はなかった。
彼はバンの運転席へと飛び乗り、
乱暴にエンジンをかけた。
「くそ……嫌な予感がする……!」
まるで、
何か取り返しのつかないものが、
指の隙間から零れ落ちていくような――。
激しい大粒の雨が
フロントガラスを叩きつける。
不気味なワイパーの音が、
冷徹に室内に響いていた。
アクセルを踏み込む神崎は、
ふと、ステアリングを握る
自身の左手首に目を落とした。
赤黒い文字盤の上で、
これまで時を刻んでいた秒針が、
カチ……。
カチ……。
と、最後の呼吸のように小さく震え。
――カチリ。
秒針は、そこで止まった。
静寂を残して、完全にその動きを止め
世界から、音が消えた。
電池の切れた文字盤だけが、
ここから先はもう戻れない
死の時間であることを示すように、
冷たく沈黙していた。
「……希……っ!」
世界を塗り潰すような血涙の雨の中。
神崎はアクセルを限界まで踏み込み、
最悪の結末が待つ、
死のビルへと車を走らせる。




