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白翼の光  作者: 月凪
第四巻 希望と影は光を紡いで

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第85話 昏い雨


――7年前。光の誕生日前日の夜。


今にも雨を降らせそうな重い暗雲が、

東京の夜空を急速に侵食し始めていた。


空は境界を失った灰色の闇へと変わり、

重苦しい空気が地上を圧迫していく。


緊急任務を終えた希たちは、

ひとまず討魔局本部へと帰還していた。


執務室の蛍光灯の下、

希はのんびりと報告書をまとめながら、

ふと動きを止めて天井を見つめた。


「ねぇ……かんざきー……」


隣のデスクでキーボードを叩きながら、

神崎が顔を上げた。


「なんだ?」


希は椅子を引くと、

神崎のデスクの端に、

音もなく腰を下ろした。


「光がさー……


誕生日プレゼントに

『翼が欲しい』って言ってるんだけど……


どうしたらいいと思う?


何が正解?」


神崎はあきれたように

深い溜め息をついた。


「俺が知るかよ。


光ちゃんは

お前に似て天然なんだろ。


後でもう一回、

ちゃんと欲しい物聞いてみろよ」


希は神崎のデスクに突っ伏し、

子供のように小さく唸った。


「うーん……」


◇


夜23時。江東区南砂の保護施設。


静まり返った玄関の扉を開けると、

室内には微かな柔軟剤の香りが漂っていた。


施設で光の世話を担当している

橘由依(たちばな ゆい)が、

リビングの明かりの下で、

静かに洗濯物を畳んでいる。


「おかえりなさい。希さん」


希は肩の力を抜き、

疲れた、けれど柔らかな笑顔を浮かべた。


「ただいま、由依さん。


いつも遅くまでありがとう。


光はもう寝ちゃった?」


由依は微笑み、優しく頷いた。


「はい。


光ちゃん……


最近は彩花ちゃんというお友達ができて、

毎日嬉しそうにお話してくれますよ」


「そっか……」


希は寝室のドアを音を立てずにそっと開け、

ベッドで眠る娘の寝顔をじっと見つめた。


「光も、もう中学生だもんね……」


◇


――翌朝。光の誕生日当日。


今にも泣き出しそうな曇り空の下、

希は滑り込むような勢いで

執務室のドアを開け放った。


「危ない! 危ない!


遅刻ギリギリー!」


神崎は書類から目を離さず、鼻で笑った。


「お前の遅刻は

いつものことじゃねえか。


で、光ちゃんに翼以外のプレゼントは

ちゃんと聞けたのか?」


希は髪をかきむしりながら、

苦笑いを浮かべる。


「いやー……


光、陸上の部活で朝が早いからさ……


私が起きたら、もういなかったんだよね。


『いってらっしゃい』も言えなかった」


神崎があきれてため息をつくと、

横から冬華が冷静に口を挟んだ。


「今日は早く帰って、

娘と一緒にプレゼントを買いに行ってやれ」


希は腕を組み、困ったような顔をした。


「光……


今日、塾だから帰り遅いんだよねー……」


神崎が作業の手を止め、

冗談混じりに笑った。


「じゃあ、お前が翼の代わりになって

光ちゃんを持って、空を飛んでやれ。


お前のバカ力なら、

出来そうじゃねーか」


希は思いもよらない提案に、

驚いたように口をポカーンと開けた。


「はー?


……いくら何でも、

そんなのメチャクチャだよ!」


神崎は椅子から立ち上がると、

丸めた資料で希の頭をポンと軽く叩いた。


「冗談だよ!


ほら、仕事しろ」


そんな二人のやり取りを、

冬華は小さく息を吐きながら、

どこか呆れたような、

それでいて温かい目で見つめていた。


まだ、誰も気づいていなかった。


その何気ない笑い声の裏側で、

彼らの愛したありふれた日常が、

二度と巻き戻せない

残酷な秒針を刻み始めていることに。


その日の夕方。


空を覆う暗雲はさらに濃度を増し、

辺りはすでに夜のような薄暗さに沈んでいた。


突然、討伐課の執務室に、

鼓膜を刺すような緊急警報が鳴り響いた。


――江東区湾岸地区、および南砂の倉庫街。

二箇所に同時に、AAAランクの妖魔が出現。


殲滅班への緊急応援要請だった。


神崎と冬華が湾岸地区へ、

そして地理的に近い南砂には、

希が単独で向かうことが瞬時に決まる。


出撃準備室で、希は妖魔刀を手に取り、

いつもの軽い調子で笑ってみせた。


「江東区に、こんな高ランクの

妖魔なんて珍しいね!


私は1人で大丈夫だけど、

かんざきと冬華も気をつけてね!」


神崎の瞳が、鋭く希を射抜いた。


「お前も気をつけろよ。


疲れが溜まってんだろ。


ここ最近、緊急対応が多すぎた」


冬華も、冷徹な声音の奥に懸念を滲ませる。


「ああ。


特に希、お前は私らを無視して

常に最前線だ。1人で無茶をするな」


「大丈夫、大丈夫!


じゃあ、また後でねー!」


希は明るく手を振ると、

弾かれたように部屋を飛び出していった。


◇


南砂川沿いに佇む巨大な倉庫。


希は現地の討伐課職員数名を従え、

埃とカビの匂いが立ち込める

暗がりの奥へと足を進めた。


不意に、床に転がる

数名の人間の遺体が視界に入る。


希の足が止まり、

その表情から完全に温度が消えた。


「この気配……気をつけて。


たぶん、奥に別の『Sランク』がいる」


職員たちの顔に、

引き攣るような緊張が走る。


次の瞬間、倉庫の最奥の闇が、

巨大な影となって蠢いた。


二本の太く長い妖肢が、

獲物を探すように不気味にうねっている。


職員の一人が叫んだ。


「希さん! あれです!」


希は妖魔刀を抜刀しながら、

静かに、冷たい息を吐き出す。


「分かった。


危ないから下がってて。


私が行く」


ドゥン、と希の両踝から

純白の妖気が爆発的に噴き出した。


幻想的な粒子が小さな翼を形成し、

薄暗い倉庫を一瞬だけ、まばゆく染め上げる。


新雪のように、

儚く美しく舞い散る純白の粒子。


それを置き去りにする神速の疾風と化し、

希は一瞬で妖魔の懐へと肉薄した。


妖魔が、巨木のような妖肢を

容赦なく振り下ろす。


ズドォォン!!


コンクリートが激しく爆ぜ、

濃い煙塵が舞い上がった。


だが、希はすでに

その一撃の未来を避けていた。


軽やかなステップで間合いを外すと、

すれ違いざま、妖魔刀の鋭い一閃で

妖魔の核の周辺を正確に切り裂く。


「グォオオォ!」


空間を震わせる絶叫とともに、

黒い粒子が派手に飛び散った。


希はさらに踏み込み、

残る妖肢を完全に切り払おうとした、

まさにその刹那――。


背後の絶対的な死角から、気配が湧いた。


「!?」


冷徹な、血の通わない細い腕が、

希の身体を後ろからそっと、

愛おしそうに抱きしめてきた。


耳元で、鼓膜にへばりつくような

冷たい声が囁く。


「希……


お前の娘の命は、預かっている。


抵抗はするな」


希は全身の毛羽立つような戦慄とともに、

即座にその腕を振り解いた。


鋭いステップで大きく距離を取る。


振り返った視線の先。


そこには、

仕立ての良いスーツに身を包み、

眼鏡をかけた、あまりにも人間的な

外見を持つ妖魔が立っていた。


「あんた……


あのときの、ゴキブリ……!」


薄刃恒一は、

口元を三日月のように歪めて薄く笑った。


「ゴキブリ、か。


相変わらず、勝ち気で美しい女だ。


美雲 希」


挿絵(By みてみん)


希は妖魔刀を顔の横に引き、

切っ先を薄刃に向けたまま、

射殺すような目で見据えた。


「光に、何をしたの?」


薄刃はゆっくりと、

彼女の絶対的な間合いへと歩を進める。

その足音は、まるで秒針のようだった。


「妖力は使うな。


もう、その領域は超えている。


既に『爆弾』は起動しているぞ」


希の額を、冷たい汗が一筋伝い落ちた。


「爆弾? どういうこと?」


薄刃は、獲物をじっくりと観察する

学者のような目で、静かに宣告した。


「娘の通う塾の建物に、爆弾を仕込んだ。


お前がその特異な『白い妖気』を

解放した瞬間、すべてが吹き飛ぶ仕組みだ」


希の胸の奥が、

冷徹なざわつきに支配されていく。


「……そんなの、デタラメよ」


「どうかな? 試してみてもいいぞ」


薄刃はニヤリと、狂気的な笑みを深めた。


「娘の塾のすぐ近くに、

俺の仲間を配置してある。


お前のその卓越した『妖力知覚』なら、

ここからでも十分に捉えられるはずだ」


希は静かに目を閉じ、

光のいる南砂の方角へ、

自身のすべての感覚を極限まで研ぎ澄ませた。


冷たい闇を泳ぎ、目的地を探す。


(――いる)


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


光がいるはずの場所。

そのすぐ傍に。


人間ではあり得ない、

濃密な妖気がひとつ。


希はハッと目を開けた。


その顔から、

先ほどまでの戦士の冷静さが消えていた。


薄刃は完璧な勝利を確信し、

不気味な微笑みを浮かべて背を向けた。


「ククッ……ついてこい、美雲 希」


薄刃の後ろでは、

希の初撃で核を傷つけられた

AAAランクの妖魔が、

死に体のまま巨大な妖肢を闇雲に振り回し、

倉庫の壁を激しく破壊し続けている。


倉庫の外では、

一粒、また一粒と、

昏い雨が降り始めていた。


それはまるで、

止まることなく時を刻む秒針のように、

静かに、確実に、

取り返しのつかない未来へと

世界を押し進めていた――。


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