第88話 そこに在る理由
――しとしとと、しとしとと。
病院の外では、
冷たい雨が静かに、
ただ静かに降り続けていた。
硝子窓を伝い、
不規則に流れ落ちる雨粒。
それが、病室の白い壁に淡く、
どこか哀しい影を落とし、
静まり返った部屋の中に
柔らかく湿った雨音を響かせている。
神崎はすべてを話し終え、
深く、長い息を吐き出した。
その背中は、
背負ってきた過去の重み
そのもののように、
ひどく沈痛だった。
ベッドの上で、
光は両手で自分の口を強く押さえていた。
指先が白くなるほどきつく力を込め、
息が詰まるように肩を細かく震わせる。
ただ真っ直ぐに、神崎の顔を
澄み切った大きな瞳で見つめ続けていた。
――ポロ……ポロ……。
大粒の涙が、
堪えきれずに指の隙間から溢れ落ちる。
それは光の頬を伝い、
病衣の膝の上へと落ちて、
静かに、暗い染みを作っていった。
喉の奥が熱く、痛いほどに痺れている。
声を出そうとするたび、
激しい嗚咽が喉に詰まって言葉にならない。
胸が引き裂かれそうだった。
(私を助けるために……
お母さんは、自分のすべてを……
そして……今も……)
光の声は、ようやく、
震えながら喉の奥から絞り出された。
「翼は……あの時の……
……誕生日、プレゼント……?」
震える唇。
「この翼が……
……お母さん……?」
神崎は光の目を真っ直ぐに見つめ、
はっきりと答えた。
「ああ……そうだ」
その言葉を聞いた瞬間、
光の胸の奥で、
張り詰めていた何かが決壊した。
「……私は……
ただ……お母さんと……
一緒にいたかっただけなのに……」
華奢な肩が激しく震えた。
「もう一度……
話したかっただけなのに……」
何故、これほどまでに
残酷な真実が自分を縛るのか。
その時だった――。
光の左の背中が、唐突に、温かい熱を持った。
――フワリ……
まばゆい、けれどどこまでも
温かい淡い光が背中から溢れ出す。
水に溶けるように透き通る、
息を呑むほどに美しい
純白の左翼が展開した。
それはまるで、泣きじゃくる我が子を、
母親がその両腕で抱きしめるかのように。
優しく……優しく……
光の小さな全身を包み込んだ。
光は震える手で、
その白い羽にそっと触れた。
愛おしそうに頬を寄せ、
そっと、静かに目を閉じる。
「……お母さん……?」
光が呟くと、
翼はハラハラと
淡く輝く白い粒子となり、
光の背中の中へと、
優しく溶けて馴染んでいった。
自分の左肩を
愛おしそうに抱きしめると、
そこから確かに、
懐かしい記憶の香りがした。
あふれる涙が頬を濡らし、
視界を滲ませていく。
「……あったかい……」
流れ落ちる涙の数だけ、
心が母のぬくもりで
満たされていくようだった。
「……本当に……
本当にずっと……
一緒にいてくれてたんだね……。
……お母さん……」
神崎は静かにベッドの傍らへと近づいた。
一瞬だけ、その大きな手が空中で止まる。
この、あまりにも残酷で
美しい奇跡を前にして、
自分のような無骨な男が、
一体何を言えばいいのか
分からなかった。
それでも――
神崎は、光の頭を、
大きな手のひらで優しく、
愛おしそうに撫でた。
「……ああ。
ずっと、一緒だ」
その温かい光景の後ろで、
美咲は唇を、血がにじむほど
強く噛みしめていた。
父が命を懸けて守ろうとした人。
そして、光が今も追い続けている人。
過去と現在が交錯する病室で、
美咲の頬を一筋の涙が静かに伝っていった。
蓮司は、何も言わずに静かに立ち上がった。
二人の大切な時間を邪魔しないよう、
音もなく病室を後にした。
蓮司が静かに扉を開けて病室を出ると、
そこには、黒崎悠真がいた。
病室の外の壁に背をもたれ、
腕を組んで目を閉じ、
中で語られたすべての真実を、
黙って静かに聞いていた。
ガチャリ、と扉が閉まる音。
二人はふと目が合い、
どちらからともなく、
病院の長い静かな廊下を歩き出した。
廊下の突き当たり、
自販機の前で足が止まる。
蓮司は小銭を入れ、
1本の缶コーヒーを買うと、
それを無言で悠真へと手渡した。
続けて、自分の分のコーヒーを買おうと
再び小銭を入れ、ボタンを押そうとした、
その瞬間だった――。
横から別の細い手が素早く伸びて、
冷たいミルクティーのボタンを
勝手に押し込んだ。
――ガコン。
「ありがと!蓮司!」
そこには、いつの間にか
病室を出てきていた美咲がいた。
太陽のような明るい笑顔を浮かべながら、
取り出し口からミルクティーを抜き取る。
蓮司は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、
すぐにいつもの不敵な笑みを小さく浮かべた。
「……あぁ」
蓮司は改めて自分のコーヒーを買い、
三人は自販機の近くにある、
無機質な長椅子へと腰を下ろした。
――トントン、トントン……。
雨の音が、廊下の大きな窓を
優しく叩いている。
しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。
ただ、温かい缶の温もりだけが、
彼らの指先を静かに癒していく。
沈黙を破り、
蓮司がコーヒーを一口飲み、
ぽつりと呟いた。
「……すげぇ母ちゃんだな」
美咲も缶を両手で握りしめ、
小さく、深く頷いた。
「……うん。
本当に、すごいお母さんね」
蓮司は自販機の明かりを見つめ、
少しだけ目を細める。
「神崎サンは……
そんな想いを、一人でずっと、
背負って生きてたのか……」
その言葉に、悠真が静かに、
しかし、はっきりと言った。
「俺は……班長の心を守る」
美咲と蓮司が、
同時に弾かれたように悠真の顔を見た。
「班長は、何としても
光を守りたいんだろう。
……妖魔だけじゃない。
討魔局の上層部からも……」
悠真は二人の方へと真っ直ぐに向き直り、
低く、けれど確かな決意に満ちた声で続けた。
「班長はずっと、たった一人で
そのすべてを背負ってきたんだ。
……今度は、俺たちが支える番だ」
その真っ直ぐな言葉を聞いた瞬間、
蓮司は、その顔にいつものニカッとした
眩しい微笑みを取り戻した。
「ハッ……。
しゃーねぇな。
俺も……神崎班だ。
あの頑固なオッサンに、
最後までついていくよ」
美咲も静かに微笑みながら、
手の中の缶を、ぎゅっと強く握りしめた。
「そうね。
……今度は、私たちが班長を支える番ね」
窓の外。
夜空を覆っていた
分厚い灰色の雨雲の隙間から、
どこまでも澄んだ、
淡く美しい月光が差し込んでいた。
それはまるで、彼らの足元を
照らす道標のようでもあった。
◇
病室では、ようやく泣き止んだ光が
ベッドに座り、雨上がりの空に浮かぶ
優しい月を見上げていた。
神崎には、光のその横顔が、
かつて共に戦った希の横顔と
完全に重なって見えていた。
彼はふっと口元を綻ばせ、
コーヒーを一口飲んだ。
「光……」
光はハッとして、神崎の目を見つめた。
「希の死は、
決してお前のせいじゃない。
それだけは……
覚えておいてくれ」
その一言に、不器用な神崎の
精一杯の優しさが詰まっている気がして、
光は自然と表情が緩んだ。
「……はい。
……私は、ずっと……
お母さんに
置いていかれたんだと思ってました」
光の声は、ひどく小さく、
しかし、病室の静寂に重く響いた。
「お母さんにとって、
私よりもお仕事の方が
大切じゃなかったのかなって。
私の誕生日なのに、
帰ってきてくれなかった……。
そんなお母さんを恨んでいる自分が、
私の中のどこかにいて……
私は……そんな自分が大嫌いでした」
神崎は深く息を吐き、
光の目を真っ直ぐに見据えた。
「違う。
希はな、何よりもお前を愛していた」
「……え?」
「希が死ぬ間際に言った言葉は……
『光、怒ってなかった?』だ。
あいつは自分の死なんかよりも、
お前の誕生日を祝えなかったことを、
最後まで気にしてた。
……希にとって、お前という存在は、
世界で一番、大切なものだった」
光の頬を、一筋の涙が静かに伝う。
「はい……。
班長のお話を聞いて、
痛いほど伝わりました。
班長……話してくれて
本当にありがとうございました。
……でも……どうして、
今まで何も言ってくれなかったんですか?」
その光の問いに、
神崎は苦渋に満ちた顔を伏せた。
「……施設でのお前の暮らしは、
由依から聞いていた」
「え……?」
「お前が……
希と一緒にどんな生活を送っていたか。
そして、希が死んでしまった後に
お前がどんなに苦しい思いをしたか……」
光はギュッと唇を噛み締めた。
「あの頃の俺たちは……
今の討魔局のように、
強くはなかった。
必然的に希に頼るしかなかったんだ。
そのせいで、お前から、
希との大切な時間を奪ってしまい……
本当に、寂しい思いをさせてしまった……」
その言葉で、光は寂しそうに俯いた。
神崎は俯く光を見つめ、
静かに告白を続けた。
「俺は……希の後衛だった。
あいつの背中を守るのが、
俺の仕事だったんだ。
それなのに……
俺は間に合わなかった。
お前に寂しい思いをさせ……
挙句の果てには、
お前から母親を奪う結果になってしまった。
全部……
全部、俺が弱かったせいだ。
俺が、希を殺したようなもんだ」
光の目から、再び涙が溢れ出した。
「そんな俺が、どの面下げて
お前に『お前の母親の後衛だ』なんて言える。
俺は……お前に……
合わせる顔がなかった……。
……本当にすまなかった」
光は首を横に振り、謝る神崎の大きな、
無数の戦傷が刻まれた傷だらけの手を、
自分の包帯だらけの小さな両手で、
ぎゅっと握り返した。
「……謝らないでください。
班長があの日、私を助けてくれたから、
私は……今、ここにいます。
ここで、神崎班の皆と息をしています。
班長……
私のことも、
お母さんのことも、
命懸けで守ろうとしてくれて……
本当にありがとうございます」
「――っ」
神崎は驚愕に目を見開き、
やがて、その目から堪えきれなかった涙が
一筋流れ落ちた。
「いつか、お母さんみたいに……
班長と背中合わせで戦えるように、
私も、強くなります……必ず!」
神崎は手の甲で、乱暴に涙を拭った。
無骨な神崎の手を握る、
光の小さな手が、
やけに温かく感じられた。
神崎は何も言えず、ただ大きな手のひらで、
壊れ物を扱うように、光の頭を何度も撫でた。
窓を透過した月明かりは、
廊下の三人と病室の二人を、
どこまでも優しく照らし続けていた。




