第82話 白い悪魔
――10年前。
東京都新宿区。
夕暮れの廃墟と化したビル。
傾いたオレンジ色の夕陽が、
崩れかけたコンクリートの隙間から
赤く差し込み、埃っぽい階段を
長く、血のように染めていた。
沈みゆく太陽が
街全体を赤く灼くような残光を投げかけ、
不気味に長い影を伸ばしている。
まるでこの世界が、
これから起こる悍ましい出来事を
あらかじめ予感しているかのように。
階段を駆け上がる
神崎剛志(当時30歳)の息は、
ひどく荒かった。
剥き出しの鉄骨に手をつき、
肩を激しく上下させながら、
届かない上層を睨みつける。
足元では、粒子となって崩れゆく妖魔の骸が、
夕陽に照らされて黒く、不気味に輝いていた。
「くそ……おい!
希! 先行しすぎだ!」
階段の遥か上方から、
空刃が空気を震わせる
独特の低音――ヴーンという不気味な脈動と、
容赦のない爆発音が響いてくる。
「え? なんだってー?
聞こえないよー!」
返ってきたのは、
まるで夕暮れの公園で
遊びに夢中になっている子供のような、
無邪気で明るい女性の声だった。
神崎は額の汗を乱暴に拭いながら、
深い溜め息をついた。
「……ったく。
またかよ、あいつは……」
吐き捨てながらも、
神崎はさらに足を加速させる。
その後ろから、篠宮冬華(当時28歳)が
必死の形相で追いかけてくる。
「待て……!
早すぎだ、
陣形が崩れる!」
だが、その前を走る
美雲希(当時29歳)は、
すでに人間の領域を
置き去りにしていた。
両足の踝から噴き出すのは、
濃密な純白の翼の形をした妖気。
彼女がコンクリートを蹴るたび、
純白の粒子が、幻想的に舞い上がる。
正面から雄叫びを上げて現れた
Aランクの妖魔を、
希は一切速度を落とさず、
ただの障害物を退けるように
屠っていった。
空刃が閃くたび、
世界の境界線が切り裂かれ、
黒い粒子が雪のように冷たく舞い散る。
そして――最上階。
希が錆びついた扉を蹴り開けて
部屋に踏み込んだ瞬間、
鼻を突く強烈な死臭が広がった。
床には、数名の人間の死体が
無残に転がっている。
その惨劇の中心で、
恐怖と痛みに全身を震わせる、
生き残りの男性がひとり。
彼の足には、細く禍々しい妖肢が、
深々と突き刺さっていた。
妖魔はゆっくりと、
肉を抉るように
妖肢を引き抜き、振り返る。
「あー……」
希は、頭の中の記憶の引き出しを
静かに出し入れした。
昆虫型の妖肢。
連続行方不明事件。
異常な知能。
討魔局危険指定。未だ討伐例なし。
「……君だったの。
薄刃くん」
薄刃恒一は、
突如現れた白を纏う女の姿を認め、
その日初めて、明確な動揺を顔に浮かべた。
「……!?
美雲……希……か?」
希は一切の間合いを無視し、
無警戒に歩み寄りながら、のんびりと言った。
「ここ、あんた達の食堂でしょ?
なんか入ったときから、
そんな匂いがしたんだよねー」
薄刃の、眼鏡の奥の目が細められた。
「……まさか、狗どもが
ここを嗅ぎつけるとはな……」
希は小さく肩をすくめた。
その瞳には、
目の前の凄惨な死体に対する嫌悪も、
同情も映っていない。
「ごめんね。
妖魔も食事が必要なのは
分かるんだけどさ……
私、今は討魔局の人間として、
ここに来ているの。
だから――」
薄刃は、低く、喉を鳴らして笑った。
「白い妖気……興味深い。
……噂に聞く、『白い悪魔』か。
その強さ……ここで試してやろう。
美雲 希」
尖った昆虫の足のような妖肢が、
彼の背中から何本も、
意思を持つかのように展開される。
薄刃が、獲物を屠る構えを取った。
その瞬間、希の表情が初めて、
不快そうに歪んだ。
「君の喋り方……
気持ち悪くて嫌い」
ドゥンッ!!
希の両踝から
白い妖気が爆発的に解放された。
幻想的な粒子を撒き散らしながら
一回り大きな翼状に変化した。
その直後、神崎がようやく
最上階の部屋に滑り込んできた。
「ハァ、ハァ……
お前……薄刃、恒一……!」
希は、戦場の真ん中であるにもかかわらず、
平然と後ろを振り返ってにこっと笑った。
「かんざきー、遅いよー。
前衛でしょ?」
その一瞬の隙を見逃さず、
薄刃が背後の妖肢を弾丸のように振るった。
神崎が叫ぶ。
「バカ!
前を見ろ!」
しかし、希の意識は
最初から世界すべてを捉えていた。
振り返ったままの姿勢で、
即座に空刃を閃かせ、
迫る妖肢を完璧な軌道で切り払う。
切断された妖肢が爆発的に吹き飛び、
黒い粒子が視界を染める。
だが、速度を優先した一本の妖肢が
希の白い頰を薄く掠め、
そこに鮮烈な血の線が浮かび上がった。
「あっぶな。卑怯くさー」
「チッ……!」
薄刃が悔しげに舌打ちした、
まさにその刹那――
希の姿が、世界から掻き消えた。
「っ!?」
知覚が追いつかない。
次の瞬間、薄刃の真後ろで、
鋭い風の音が鳴り響いた。
薄刃が背後へ
攻撃を繰り出そうとした瞬間には、
すでに希は、信じられないほど
低い姿勢で彼の直下に滑り込んでいた。
冷徹な、光の一閃。
両足を一瞬できれいに切断された薄刃が、
重力に従ってその場に崩れ落ちた。
「グッ……あぁぁあ!!」
(そんな……馬鹿な!?
……速度が異次元だ……!)
そこへ、息を切らせた冬華がようやく到着し、
部屋の惨状を見て息を呑んだ。
「ハァ、ハァ……
な、何だこれは……!?」
希は血の滴る空刃を構えたまま、
冬華をからかうように無邪気に笑う。
「あ、今日は冬華がビリだねー。
ジュース奢り〜!」
薄刃は床に這いつくばり、
己の黒い血を撒き散らしながら、
狂気的な表情で叫んだ。
「美雲希……お前は……
ただ殺すだけでは済まさんぞ……!
徹底的に蹂躙し、
死しても尚、俺の物にしてやる!
永遠にだ!」
その言葉を遺し、薄刃は残った妖肢を
コンクリートに突き立てると、
這い回る昆虫のように
素早く窓の外へと逃走した。
希はぞわぞわと背中に走る寒気に、
露骨に顔をしかめた。
「……あいつ……キモすぎだよ……
話し方も行動もゴキブリみたい……
私、ゴキブリ大っ嫌いなんだよね……」
神崎は刀を収めながら、
呆れたように彼女に近づいた。
「お前……
ゴキブリと喋ったことあんのかよ?」
希は何も言わず、
ただ無言で神崎を見つめ返した。
酷く奇妙な静寂が、二人の間に流れる。
冬華はそんな二人を完全に無視し、
倒れている男性の元へと膝をついた。
「生きているな?
討魔局だ、安心しろ。
すぐに医療班が来る。
もう大丈夫だ」
遠くから、サイレンの音が響き始めていた。
夕日は沈みかけ、
空は夜に変わろうとしていた。
赤く燃えるような残照が、
廃墟の部屋を血のように深く染め、
その部屋の隅では、
埃まみれの時計だけが、
静かに時を刻んでいた。
カチ――。
――その音を合図にするように、
美雲希と薄刃恒一の因縁が、
静かに動き始めた。




