第81話 雨の記憶
雨が、世界の境界線を曖昧にするように、
しとしとと窓を叩いていた。
病室のガラス越しに見える灰色の空は
どこまでも冷たく、
その下を、傘を差した人々が
足早に消えていく。
その絶え間ない雨音は、
まるで静寂そのものが形を変えて、
病室の奥深くへと
染み込んできているかのようだった。
光はベッドの上で、
ただ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
膝の上。
白く包帯に巻かれた手のひらは、
自分のものとは思えないほど
冷え切っている。
カラカラ……。
静かに扉が開き、
美咲がその細い身体を
滑り込ませてきた。
「光、調子はどう?」
美咲の顔を見た瞬間、
光の表情に微かな体温が戻る。
「美咲先輩。
お仕事お疲れさまです。
……だいぶ、いいみたいです。
前よりも妖力が安定しているせいか、
傷の塞がりが異常に早くて」
「そう。
よかったわ」
美咲は安堵を滲ませて、
病室の外へ向かって手招きをした。
続いて、紙袋を提げた蓮司が、
いつもの軽い足取りで
ひょっこりと顔を出す。
「おーす、光ちゃん!
チョコレート買ってきたぜ。
脳の栄養補給な」
「わあ……
ありがとうございます、蓮司さん」
光の瞳に、ほんの少しだけ生気が灯る。
光は早速袋を開け、
3人と等しく分けるように、
丁寧にチョコレートを並べ始めた。
蓮司は自分の分のチョコレートを
早速口に放り込む。
「そう言えば、
今日、神崎サンもお見舞いに来るってよ。
本部のクソ面倒な手続きで
忙しいみたいだけど
もうすぐ来るだろ」
二人がチョコを口に含んだまま、
どこか気の抜けた会話を
交わしているのを見て、
美咲が小さく吹き出した。
「二人とも、食べるか喋るか、
どちらかにしたら?」
病室を満たす、束の間の柔らかな空気。
しかし、その静寂を破るように、
病室の扉がノックされた。
「光。入るぞ」
神崎の声だった。
いつもの豪快な笑みを浮かべて入ってくる。
「悪い悪い、遅くなった!
バタバタしちまってな……
やっと顔を見られて安心したよ」
神崎はそう言って、
袋から缶コーヒーを取り出し、
三人に手際よく配った。
光は冷たい缶を受け取りながら、
申し訳なさそうに視線を落とす。
「すみません、班長。
お忙しいのに、わざわざ……」
「何言ってんだ」
神崎は首を振った。
だが、その瞳の奥には、
いつもと違う重苦しい光が宿っている。
「お前の大功績のせいで、
調査課や、上の連中は大荒れだ。
SSランク単独撃破……
新人にしては、異例どころの話じゃねぇ。
とんでもない戦果だからな」
「戦果……ですか」
光の表情が、複雑に曇る。
影目のあの、黒い雪のような最期が、
胸の奥をキリキリと締め付けた。
そのとき、神崎の顔から、
完全に「いつもの笑み」が削ぎ落とされた。
「光。
今日はお前に、
どうしても確認しなきゃ
ならないことがある」
神崎は懐から、
布に包まれた【それ】を取り出し、
光のベッドのテーブルへと、そっと置いた。
カツン、と乾いた、
酷く冷徹な金属音が響く。
それは、古びているが、
圧倒的な気配を放っていた。
「これは……希が使っていた
『空刃』と呼ばれる、希の固有武器だ。
7年前に完全に紛失し、
局が死に物狂いで探していた。
……南砂の地下駐車場で
倒れていたお前が、これを握っていた。
光、お前、これをどこで手に入れた?」
病室の温度が、
一瞬で氷点下まで
下がったような錯覚に陥る。
光は小さく俯きながら、
その冷たい鋼の存在を見つめ、
静かに告げた。
「影目が……
私と戦う前に、『返す』と言って。
虎と、お母さんの形見として、
ずっと、持っていたみたいです」
「影目……!?
そうか……」
神崎が、肺の空気を
すべて吐き出すように
小さく息を呑んだ。
その瞬間、光の目から、
自分でも制御できない涙が
堰を切ったように溢れ出した。
影目の悲しい告白。
お母さんへの気持ち。
それを断ち切った自分。
それらが、濁流のように胸に押し寄せる。
神崎はそれ以上追及せず、
そっと空刃の柄を懐にしまい込んだ。
「すまん……どうしても、
確かめておかなくちゃならなかったんだ」
光は溢れる涙を手の甲で拭いながら、
真っ直ぐに神崎の目を見つめた。
「班長……
私は中学1年のとき、
妖魔に襲われました。
でも、あの日、
お母さんが死んでしまって……
助けてくれた人の顔も、名前も……
ただの『大きな影』としてしか、
覚えていなくて」
神崎の顔色が変わった。
光は震える声を、静かに繋いだ。
「影目と戦った後、
倒れた私を抱き上げてくれた班長が……
あのとき、私を助けてくれた人と、
同じ姿に見えたんです。
大きくて、
温かくて……
怖くなかった。
あの感覚と、全部、同じだった……
班長……
あの時、私を助けてくれたのは、
班長じゃないですか?」
病室の時計の針の音だけが、
世界の拍動のように大きく響く。
隣にいた美咲と蓮司も、
ハッとした表情で息を呑む。
「……ああ。俺だ」
光の息が止まった。
瞳だけが小さく揺れる。
何かを言おうとして、
唇が震える。
けれど、声にならない。
何度も。
何度も会っていた。
何度も、その大きな背中を見てきた。
ずっと探していた人が、
ずっと隣にいた。
その事実だけが、
ゆっくりと胸の奥へ沈んでいく。
「……どうして……?」
震える声が、ようやく漏れた。
「どうして今まで……
言ってくれなかったんですか……?
私……
ずっと、その人に……
お礼が言いたくて……っ!」
美咲と蓮司は、
思わず互いに顔を見合わせた。
光がこんなふうに
神崎へ感情をぶつける姿を、
二人は初めて見た。
激しい雨の向こうで、
カチ、カチと秒針の音だけが
鋭く尖って響く。
時が止まったかのような沈黙のなか、
張り詰めた空気の糸が
今にも千切れそうに震えていた。
言葉を失う光に、
神崎はゆっくりと、
苦渋に満ちた口を開いた。
「お前を……
これ以上、悲しませたくなかった」
「……どうして……?
何故……私が悲しむんですか……?」
光は問いかける。
いつも鉄のように
強靭なあの神崎の目から、
大粒の涙が溢れそうになった。
光はハッとして息を呑む。
神崎は右腕でグイッと乱暴に涙を拭うと、
意を決したように、声を一段と低く沈めた。
「光。
お前の背中に、
何故『翼』があるのか……
その理由を知っているか?」
光は困惑しながらも、
自身の根源にある記憶を頼りに答えた。
「お母さんが……
力を貸してくれるからです」
「そうだな。
半分は合っている」
神崎は深く頷いた。
「じゃあ、何故、それが
『翼の形』をしているのか分かるか?」
光は少し考えてから、
静かに首を横に振った。
神崎は、これまでに見たこともないほど
底知れない覚悟を秘めた目で、光を射抜いた。
「いいか、光。
お前が俺に助けられた理由。
希の死の理由。
そして……
お前の背中にある『翼』の正体。
これは、すべて
ひとつの線で繋がっている」
ゴクリ、と光の喉が鳴った。
「そして、これから俺が話す真実は……
お前にとっては、あまりにも重い。
お前が大好きだった母親の死の話だ。
それでも、聞く勇気はあるか?」
神崎の瞳の奥にある、
計り知れない悲しみ。
光はそれを真っ直ぐに受け止め、
強い眼差しで頷いた。
「はい……
お願いします」
その様子を見て、
美咲と蓮司は二人を気遣い、
静かに席を立とうとした。
そんな2人を、神崎は静かに制した。
「お前らも聞いていけ。
光を守ろうとするお前達にとっても、
大事な話だ」
美咲と蓮司は顔を見合わせ、
言葉を失ったまま、ゆっくりと席に戻った。
美咲の表情が強張り、
拳を膝の上でぎゅっと握りしめる。
蓮司もいつもの軽い笑みを完全に消し、
鋭い目で神崎を見つめていた。
神崎は深く、深く息を吐き出すと、
光の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺は……班長になる前、
討魔局の第一期『殲滅班』だった。
そこで何年も希の後衛を務め、
行動を共にしていた。
……お前が、まだ幼い頃の話だ」
病院の窓の外では、
雨が世界を塗り潰すように
その密度を増していく。
ガラスを激しく叩く大粒の雨は、
まるで誰かの流す涙のようであり、
灰色の世界を、境界線すら見えないほどに
朧げにぼやけさせていく。
神崎は深く息を吸った。
雨音だけが、
病室を静かに満たしていた。
そして――
遠い日の記憶を語り始めた。




