第71話 残光のブレイク
――ヴゥゥゥゥンッッ!!!!!
空間そのものを引き裂くような、
空刃の重低音の振動音。
白と黒の
相反する粒子が激しく飛び散り、
地下駐車場の淀んだ空気を
パチパチと爆ぜさせる。
両者のすべてを懸けた刃が
正面から交錯する。
だが、その均衡は
あまりにも容易く崩れ去った。
影目は、光が全霊を乗せたはずの空刃を、
大鎌の妖肢で易々と押し返したのだ。
「やはり非力ですねぇ、ミス光」
「あ……っ!」
押し返された凄まじい質量に、
光の身体は容易くバランスを崩した。
そのままコンクリートの床へと
尻もちをつき、背中と腰に
鈍く強い衝撃が走る。
「……ッ!」
(まだ、立ち上がらなきゃ――!)
痛む身体を無理やり動かし、
起き上がろうとした、その刹那。
影目の細長い影が、
光の視界を完全に覆い尽くした。
――ドンッ!!!
「ッ……あぁぁぁッ――!?!?」
容赦のない、冷酷な一撃。
影目の革靴が、
光の華奢な腹部を思い切り踏みつけた。
光は内臓を押し潰された衝撃に、
背中を丸めて床に蹲り、悲鳴を上げた。
肺の空気が強制的にすべて吐き出され、
酸素が吸えない。
あまりの激痛に、
視界がチカチカと真っ白に染まっていく。
「……っ、ひゅ、う……っ」
(動けない……!
苦しい……
早く……
美咲先輩を……
助けなきゃ……)
そんな光の痛々しい姿を、
影目は冷徹に見下ろし、
愉悦を孕んだ笑みをその唇に刻んだ。
「良い表情です、ミス光」
ゾッとするほど甘やかな、死神の称賛。
「ですが……
貴女の母親は虎と戦った際、
戦いの中でそんな悲鳴は
上げませんでしたよ……」
「……っ」
「娘の貴女はどうでしょうね?
――もう一度、試してみましょうか?」
影目は、蹲る光の脳天に向けて、
黒く研ぎ澄まされた大鎌の妖肢を
静かに掲げた。
(やらせない……
絶対に……
ここで終われない――!!)
死線に立たされた瞬間、
光の防衛本能が爆発した。
内側から枯渇しかけていた妖力を、
死に物狂いで背中の翼へと回す。
――フッ!
純白だった片翼が、
光の激しい感情に呼応するように
淡い青へと輝きを変えた。
青く鋭利に研ぎ澄まされた翼の刃が、
影目の大鎌の根本を、
下から上へと勢いよく切り裂く。
――斬ッ!!!
「ほう……!」
予想外の鋭い反撃に、
影目の完璧な体勢が微かに崩れた。
光はその隙を逃さず、
翼をさらに羽ばたかせて
影目の身体を強引に弾き飛ばし、
素早く床を蹴って起き上がった。
左手で蹴られたお腹をきつく押さえながら、
光は駐車場のさらに奥へ向かって、
死に物狂いで走り出した。
だが、死神の追撃は
どこまでも容赦がなかった。
背後から四本の黒い妖肢が、
生き物のようにうねりながら
猛烈な速度で迫り来る。
――ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!
光は必死に上半身を捻り、
紙一重のところで大鎌を躱し続けた。
しかし、人間の身体能力の限界は、
すぐに訪れる。
――ザシュッ!!!
「っ……あぁっ……!」
右のふくらはぎを、
冷酷な刃が深く切り裂いた。
激痛に足が激しくもつれ、
転びそうになる。
血が白い靴下を一瞬で赤く染め上げ、
コンクリートの床へと
ポタポタと滴り落ちていく。
さらに、残る一本の妖肢が、
無防備な左の二の腕を深く掠め取った。
――ザクッ!
「くっ……!」
鋭い痛みが走ると同時に、
鮮血が周囲に飛び散る。
白いカーディガンに、
禍々しい赤がじんわりと滲んでいく。
(痛い……痛いよ……!
息が、うまくできない……
でも……
止まったら、
絶対に終わり……!)
限界を超えて叫ぶ心が、
かろうじて光の足を動かしていた。
やっとの思いで、
太い鉄柱と壁が作り出す
狭い隙間に滑り込む。
壁に背中を押しつけ、
キャミソールの胸元を
片手で必死に掴みながら、
息を殺して潜んだ。
ハァ、ハァ、という
自分の荒い呼吸の音がうるさい。
体中が熱く震え、
鉄臭い血の匂いが鼻を突く。
(このままじゃ……
勝てない……)
光は、血と埃で汚れ、
無惨に破れた
カーディガンに視線を落とした。
左腕の袖はボロボロに裂け、
剥き出しになった肌から
鮮血が絶え間なく滴り落ちている。
弱くて、惨めで、怯えてばかりいる――
今の自分を象徴しているかのような、
この邪魔な布切れ。
――シャッ……。
光は無言のまま、
正面のボタンを強引に引きちぎり、
カーディガンをその場に脱ぎ捨てた。
非常灯の赤い光の中に、
白いキャミソール一枚になった、
華奢で傷だらけの細い肩が晒される。
光は震える手で、
空刃の柄を壊れるほど強く握りしめた。
――カツ……カツ……カツ……
コンクリートを叩く影目の足音が、
ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
(怖い……
やっぱり怖いよ……
お母さん……)
恐怖の重圧に耐えかねて、
光がぎゅっと目を閉じた、
その瞬間だった。
冷え切った地下駐車場に、
そんなものは
存在するはずがないのに。
心の奥底、魂の一番深い場所から、
優しく温かい『誰か』の声が響いた気がした。
『――光』
はっと目を見開く。
『大丈夫。
あなたなら、きっと大丈夫。
ほら……大切なお友達が待ってる。
声、聞こえるでしょ?
……勇気を出して』
お母さん――?
温かい記憶の余韻が胸に広がった、
まさにその時だった。
コンクリートの壁を隔てたすぐ近くから、
涙をボロボロと溢れさせた、
悲痛な叫び声が響き渡った。
「光! 光!!
もうやめて……っ!
私のことはいいから……
お願い……
逃げて……!!」
美咲先輩。
その声だけは、
世界中の何と間違えるはずもなかった。
自分をずっと守ってくれた、
大好きな人の声。
――ドクンッ!!!
光の胸の奥で、何かが熱く、激しく弾けた。
怯えも、恐怖も、身体の痛みさえも、
その熱が一瞬にしてすべて焼き尽くしていく。
(美咲先輩……!
すぐそこにいる……!
怖がってる場合じゃない……。
私は、もう……
逃げない……っ!!)
カツ……カツ……と、
すぐそこまで迫っていた
死神の足音が、不意に止まる。
壁の陰から
一歩を踏み出す光の瞳には、
かつてないほど鋭く、
青く澄んだ光が宿っていた。
柄を握る手に、
限界以上の力がこもる。
――ヴゥゥゥゥンッ!!!
空刃が、
まるで主の覚悟に呼応するかのように、
一段と高く鳴り響いた。
壁の陰から現れた光は、
傷だらけの身体で、
それでも真っ直ぐに
死神を見据えていた。




