第70話 閃光のブリッジ
――同時刻。
元地下駐車場・防災センター別室。
狭い別室の光源は、
PCの画面が放つ青白い光だけだった。
壁にべっとりと張り付くような、
湿った冷たい空気。
その静寂の中に、
電子機器の低い唸り声だけが、
機械の呼吸のように規則正しく響いている。
薄刃は画面の映像を
食い入るように見つめたまま、
微かに目を見開いた。
その冷徹な横顔に、
初めて明確な動揺が走る。
「あれは……空刃……?」
低く、押し殺したような呟き。
「……何故、影目が空刃を持っている……?」
隣で退屈そうにしていた久我が、
怪訝そうに首を傾げた。
「は? 何だよ『クージン』て?」
「……『空刃』
光が今、その手にしている武器の名前だ。」
薄刃は忌々しげに吐き捨て、
ずらりと並んだモニターを睨みつける。
「かつて希が使っていた……龍殺しの兵器……」
彼は珍しく激しい苛立ちを露わにしながら、
机の上の拳を強く、白くなるまで握りしめた。
「……やはりあいつは、
作戦など眼中になく、
ただ光との戦いを楽しんでいる。
これは完全に、想定外だ……」
冷徹な計算が狂わされた知性体の呟きは、
青白い画面の光の中に、
ただ虚しく溶けていった。
――地下駐車場、最奥。
入り組んだコンクリートの迷宮の、
さらに深い最奥。
そこは湿ったカビの匂いが濃く立ち込め、
壁の非常灯が明滅するたびに、
無機質なコンクリートに
複雑な影の怪物を躍らせていた。
――ヒュンッ!!!
前触れもなく、
影目の妖肢が容赦なく風を切り裂き、
光の首元へと迫る。
「――っ!」
光は本能的に地面を強く蹴り、
背中の【純白の翼】を展開した。
その刹那――
まばゆい白い粒子が
彼女の背中から溢れ出し、
幻想的な輝きを放ちながら
ゆっくりと広がっていく。
暗く淀んだ地下空間に、
まるで一筋の美しい月光が
差し込んだかのように。
純白の片翼は、
あまりにも優しく、
美しく輝いた。
(……お母さん……)
翼に包まれるような感覚に、
光の胸に切ない愛おしさが込み上げる。
しかし、戦場は美しくも甘くもなかった。
――ヒュッ!!!
もう一本の妖肢が、
倍の速度で光の死角である側面を襲う。
(速い――避けなきゃ……!)
光がさらに翼を加速させようとした、
まさにその刹那。
影目は冷酷に微笑み、
展開していた背中の妖肢を
自ら「消滅」させた。
「え……!?
――きゃああっ!?」
妖気が消えた瞬間、
光の翼の出力が急激にダウンし、
その体が鉛のように重くなる。
――ドザザザッ!!!
勢いよく地面に叩きつけられ、
勢いのままコンクリートを転がった。
肘と膝の皮膚が無惨に削り取られ、
鋭い激痛が脳髄を突き抜ける。
(……翼が……急に弱くなった……!?
影目が妖肢を消した、瞬間……?)
あまりの力の差に、
光の身体が恐怖で強張る。
影目はそんな彼女をいたわるように、
悠然と微笑みながら、
再び黒い大鎌を展開した。
「さぁ……本気で参りましょう」
――ヒュンッ!!!
二本の黒い妖肢が、
今度は明確な殺意を持って迫り来る。
「……くっ!」
光も必死に再び翼を展開し、
決死の跳躍を見せたが――
――ザシュッ!!!
「っ……あぁぁぁぁぁっ……!!」
左腕に灼熱の痛みが爆発した。
肉が深く抉られ、
鮮血が勢いよく噴き出す。
白いカーディガンが、
一瞬で禍々しい赤に染まっていく。
光は前のめりに激しく転倒し、
地面に両手と膝を打ち付けた。
激痛と失血。
視界が白くチカチカと明滅し、
胃の底から強烈な吐き気が込み上げる。
(痛い……痛い、よ……。
でも……終われない……
美咲先輩が……!)
「ミス光……
相手の妖気を頼りに
翼を制御しているのなら、
その気配を消されれば、貴女のその翼は
ただの重荷にしかなりません。」
影目の冷徹な解説が、死の宣告のように響く。
光は出血と痛みを堪えて
泥臭く立ち上がろうとする。
しかし――
――シュルルルッ!
立ち上がった光の視界に、
再び黒い大鎌が複数同時に現れた。
上段、中段、下段。完璧な包囲網。
「さぁ……早く
その『空刃』を見せて下さい……。
そのままでは、
死んでしまいますよ?」
光は死に物狂いで、翼を広げて
上空へ跳躍して回避を試みた。
だが、それこそが影目の狙いだった。
「ミス光……
それは、浅慮です。」
光が完全に宙に浮き、
回避不能になった瞬間――
影目は三本の妖肢を同時に「消去」した。
「あ――」
背中の翼の推進力が
一瞬にして完全に消失する。
重力に囚われ、
ただの華奢な少女として
落下していく光の背後。
――シュルルルルッ!
死角である真後ろに、
消したはずの妖肢が
再び爆発的な速度で実体化した。
大鎌のハラが、
無防備な光の背中を
容赦なく打ち据える。
――ドカァァンッ!!!
「あぁぁぁぁっ…… ―― !?!?」
コンクリートの支柱へと
背中から激しく叩きつけられ、
光は床へと崩れ落ちた。
肺の空気が強制的にすべて搾り取られ、
ヒューヒューと
喉が引き攣るような悲鳴が漏れる。
(強い……強すぎるよ……。
かすり傷一つ、つけられない……)
出す・消すの波に完全に翻弄され、
翼を広げることすら恐怖に変わっていく。
(でも……
負けられない……っ!)
しかし、光は勇気を振り絞って
尚も翼を大きく広げて展開する。
圧倒的な絶望という名の泥濘が、
光の心をへし折ろうと迫り来る。
カツ……カツ……と、
影目が静かに距離を詰めてくる足音が、
死神のカウントダウンのように響く。
「ミス光……
それではまだ足りません。
さぁ……
その手にした『空刃』を
私に見せて下さい。」
光は血に汚れた震える手で、
――空刃を握りしめた。
「お願い……お母さん……」
声が、掠れた。
祈りなのか、縋りなのか、
自分でも分からなかった。
ただ——
それ以外に、言葉が出てこなかった。
震える指で空刃の柄を強く握りしめた、
その瞬間だった。
――シュンッッッ!!!
空刃の先端がボウと凄まじい熱を持ち、
エネルギーが凝縮されていく。
――ヴゥゥゥゥンッッ!!!!!
空気を力強く引き裂く、重低音の振動音。
まるで空間そのものが
激しく共鳴しているかのような駆動音と共に、
純白に輝く妖気の刃が形を成した。
「……っ、あ……!?」
その瞬間、光は背中に奇妙な
『飢餓感』を覚えた。
空刃が激しく振動を増していくのと
完全に同期して、自身の体から、
温かい妖力が濁流となって
金属の柄へと強引に引きずり出されていく。
刃が眩く、鋭く
研ぎ澄まされていくのと引き換えに。
光の背中で広がっていた純白の片翼は、
小さく、細く萎んでしまった。
翼の粒子が一本、また一本と、
白い刃へ吸い込まれていく。
背中が、急速に軽くなっていく。
(……お母さんの武器が……
私の力を、吸ってる……?)
光が僅かに身じろぎするだけで、
刃は――ズ、ヴゥゥン……と
周囲の空気を貪るように
不気味な唸りを上げて大気を焼いた。
「……!?
これが……
お母さんの……空刃……?」
非常灯の明滅する闇の中で、
自分の妖力を喰らって燃え盛る白い光刃は、
激しく振動しながら
世界を確かに照らしていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
光は荒い息を繰り返しながら、
内側から枯渇していくような身体を
無理やり奮い立たせ、空刃を両手で構えた。
「懐かしい……
やはり、貴女も使えるのですね。
……ミス光。」
体は鉛のように酷く重い。
対する影目は、静かに微笑んだまま、
背中からさらに二本の妖肢を展開した。
死神の大鎌が、
彼の背中で禍々しい翼のように広がる。
「ミス光……
そして、ミス希。
……全霊をもって、
貴女達を殺しましょう」
――ヒュウウウッ!!!
四本の連撃が、
同時に光を圧殺せんと襲いかかった。
光は歯を食いしばり、
激しく収束を増す空刃を、全力で切り上げる。
――ズ、ヴゥゥゥンッッ!!!!!
空間を裂く光刃の咆哮が響き、
――ガキィィィンッ!!!!!
白と黒。
光と闇。
純白の光刃と四本の死神の大鎌が、
地下駐車場の中央で激しく噛み合う。
爆ぜた白い粒子が、
まるで雪のように、
薄暗い闇へ静かに舞い上がった――。




