第69話 光と影のセカンド・ヴァース
――同時刻。
元地下駐車場の防災センター、
狭いモニタールーム。
そこは、感情というものを
一切拒絶したかのような、
灰色一色の無機質な空間だった。
冷え切ったコンクリートの壁。
埃っぽい空気。
壁一面に埋め込まれた
複数のモニターだけが、
機械的な青白い光を放ち、
部屋を不気味に照らしている。
その冷徹な空間の真ん中で、
美咲はパイプ椅子に
太いロープで固く縛り付けられていた。
どれだけ力を込めても、
ロープは無情に肌に食い込むだけ。
指一本すら自由に動かせない。
五感を満たすのは、
カビ臭い匂いと、機械の駆動音だけ。
自分の体でありながら、
何一つコントロールできない圧倒的な拒絶感。
その無機質で冷酷な現実が、
美咲の胸に「無力」という名の
重い枷となってのしかかっていた。
(私が……
私が、あのとき
油断さえしなければ……!)
そんな終わりのない
後悔と静寂を切り裂くように、
美咲は声を枯らして叫んでいた。
「光! 光!!
お願い……逃げて……っ!」
壁に設置された
小さなモニターを見つめながら、
必死に、何度も、届かない声を張り上げる。
しかし、その声が
防音の壁を突き抜けて届くはずもない。
機械の駆動音にかき消され、
無機質なコンクリートに吸い込まれていく
その悲痛な叫びは、
ただ虚しく部屋の中に霧散するだけだった。
久我はモニターに映る光を
食い入るように見つめ、
ウザったそうに表情を醜く歪めた。
「うるせーなぁ……。
呼ばなくても、すぐ来るって」
「……っ」
美咲は息を呑み、久我から発せられる
異様なプレッシャーに身を固くする。
久我は画面のなかに佇む光を見つめたまま、
喉の奥から絞り出すように、ポツリと呟いた。
「どうしても……
会わなきゃならねぇんだよ……。
俺は、光ちゃんに……」
その言葉を耳にした瞬間、
美咲の胸に奇妙な違和感が走った。
久我の横顔に刻まれたそれは、
単なる独占欲や執着とは、明らかに違う。
彼は、光という存在の向こう側に、
もっと別の、救いのような何かを
必死に求めている――そんな気がした。
(……この男は、一体何を?)
その時、久我は突然、
ハッとした表情を浮かべ、
縦に裂けた瞳孔で
美咲の顔を凝視した。
急激に向けられた視線に、
美咲は即座に表情を身構える。
「なぁ……お前!」
久我の歪んだ声が、
静まり返った室内を激しく打った。
「なんで、光ちゃんはあの時……
俺の右腕を抱いて泣いたんだ?」
あまりにも唐突で、場違いな問い。
美咲は久我の瞳の奥にある
乾いた飢えを見つめながら、
あの夜の公園での、
戦いの記憶を脳裏に蘇らせていた。
腕を切り落とされた怪物と、
刃を振るった少女。
その光景を思い返しながら、
美咲は落ち着いた声で告げた。
「……貴方のことを、
“怪物”としてだけ見てなかったからよ」
それは、悲しすぎる怪物の掌を
本当は握りしめてあげたかった――
一人の少女が背負った、
あまりにも哀しい優しさ。
久我は眉を吊り上げ、
言葉の意味を理解できないとばかりに、
その両目を限界まで見開いた。
「は……!?」
そのやり取りを、薄刃は退屈そうに
冷ややかな目で見下ろしていた。
「フーッ……。
俺はあっちの大型モニターで見る。
こちらは画質が不鮮明で分かりにくい」
そう吐き捨てると、
薄刃はノートPCを片手に、
隣の部屋へと戻っていった。
「……」
久我は立ち上がり、
一瞬だけ美咲を見てから
隣の部屋へと姿を消した。
バタン、と重い扉が閉まる。
一人きり残された暗いモニタールーム。
美咲は奥歯が
ガチガチと鳴るのを堪えるように、
血の味がするほど唇を強く噛みしめた。
画面の向こう、青白い光の中で、
光の小さな背中が揺れている。
◇
――地下駐車場、奥深く。
入り組んだコンクリートの迷宮。
ここには、湿った地下特有の冷たい匂いと、
遠くで配管から水滴が落ちる
ポタ、ポタという虚しい音だけが響いていた。
明滅する非常灯の、禍々しい橙色の光。
それが、コンクリートの壁に二人の長い影を、
不気味に揺らしている。
影目は、数メートル先で
不意に足を止めると、光に向かって、
まるで貴族のように丁寧に一礼した。
「改めまして……
お久しぶりです、ミス光。
先日の戦い以来ですね。
私は影目零次と申します。
今日は、貴女と純粋に
一対一で決闘をさせていただきたいと思い、
この場所へ招待させていただきました」
その滑らかな声を聞いた瞬間、
光の背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。
「……決闘?
美咲先輩は……どこ?」
声が、どうしても震えてしまう。
息を吸うたび、
喉がきつく締め付けられるように苦しかった。
影目は、どこまでも穏やかに
微笑んだまま言葉を続ける。
「ミス美咲は無事です。
この近くにいますよ」
「……っ」
「しかし、貴女が逃走すれば、
ミス美咲はこのまま死ぬこととなります。
……貴女が私に敗れても、結果は同じです」
影目の瞳の奥に、
底知れない闇が揺らめいた。
「更に貴女は……『器』として、
龍へ献上させていただきます。
つまり貴女は、
ここで私を倒さなければなりません」
光の胸に、冷たい絶望がずしりと落ちてきた。
(逃げたら……美咲先輩が死ぬ)
(私が負けたら……同じ……)
(龍に、献上……?
私……本当に、勝てるの……?)
指先が急速に冷たくなり、
じわじわと痺れていく。
呼吸が浅くなる。
恐怖のあまり膝が小刻みに震え、
立っているだけで精一杯だった。
だくだくと不快な冷や汗が背中を伝い、
キャミソールが
肌にべっとりと張り付いていく。
そんな光の動揺を
あらかじめ見越していたかのように、
影目は懐から、鈍い銀色に光る
金属の筒のようなものを取り出した。
「これは……
かつてミス希が使っていた武器です。
貴女に返す時が来たようですね」
正式な決闘の儀式を執り行うかのように、
影目はそれを光へと静かに放り投げた。
カツッ。
光は半ば本能的に、
空中を舞ったそれを受け止めていた。
冷たい金属の感触が、掌に伝わる。
しかし、次の瞬間――
光はその手にある物を見つめて
目を見開いた。
「……これ!!
お母さんの!?
……何故、貴方が
お母さんのことを知ってるの……?」
影目は静かに、けれど淡々と答える。
「かつて、貴女の母は……
私の兄のような存在、『虎』と闘いました。
私はその傍らで見守っていました。
……そして、その武器は
『空刃』と呼ばれるものです」
「これが……空刃……」
光はゴクリと乾いた唾を飲み込み、
その金属の筒を見つめた。
影目は意外そうな表情で
目を丸くして、ポツリと呟いた。
「おや……ご存知でしたか……?」
(これ……あの動画の……)
光の脳裏に、あのとき美咲と共に見た
動画に映る、母・希の姿が、鮮明に蘇る。
光輝く妖気の刃を
頭上へと高く振りかぶり、
圧倒的な「飛ぶ斬撃」で
AAA級妖魔の狂暴な妖肢もろとも、
真っ二つに切り裂いた武器――
お母さんが、これを握っていた。
この軽さで、戦っていた。
(……お母さん)
胸の奥に、恐怖とは違う何かが、
ほんの一瞬だけ灯った。
それはすぐに、
押し寄せてくる現実の重さに
かき消されてしまったけれど——
確かに、あった。
光はその感覚を心の奥に押し込め、
震える手で空刃を強く握りしめた。
(これで……
本当に戦えるの……?)
(私、こんなところで……
死ぬかもしれない……)
(でも……
絶対に逃げられない。
美咲先輩を、絶対に……
助けなきゃ……っ!)
光が顔を上げた瞬間、
影目は満足そうに微笑み、
ゆっくりと後退して十分な間合いを取った。
「私はずっと……
この瞬間を待っていました。」
その瞳の奥には、
静かな狂気にも似た興奮が宿っている。
「さぁ……
始めましょうか、ミス光。
貴女の力……
存分に見せてください」
――シュルルルル……!
影目の背中から、
黒い妖気が爆発的に噴き出し、
禍々しい妖肢が
ゆっくりと形を成していく。
鎌のような複数の刃が、
薄暗い地下駐車場に、
冷酷な死の影を落とした。
大鎌を携えた影目を前に、
光は思わず小さく息を呑んだ。
漆黒の妖肢。
禍々しく伸びた複数の大鎌。
それは、光の目には
死神そのものに映った。
そして、自分の背に宿る純白の翼は、
あまりにも小さく、頼りなく感じられた。




