第67話 影のインヴィテイション
夕方から夜へと色彩が融けていく。
一日のうちで最も曖昧な境界線の時間。
南砂の街には、
オレンジ色に燃える空が広がり――
都心のビル群が
まるで無数の宝石を散りばめた
光の海のように輝いていた。
そんな息を呑むほど美しい夕暮れの中、
美咲はバスを降り、家路の途中にある
地元のスーパーへと立ち寄っていた。
(今日の夕飯、
カレーが食べたいって言ってたわね。
……シーフード、喜ぶかしら)
買い物カゴを片手に、
スマホを取り出し、光にLINEを送る。
『シーフードカレーでもいい?』
画面を見つめること、わずか数秒。
ぽん、と小気味よい通知音が跳ねた。
『シーフードカレー良いですね!( ´꒳`)♪』
「ふふっ……」
画面越しでも伝わってくる
素直で可愛らしい返信に、
美咲の頬は自然と緩んでしまう。
(本当に可愛いんだから。
……早く帰って、お腹いっぱい
食べさせてあげなきゃね)
カゴの中にエビやイカ、
カレールーを滑り込ませてレジへと向かう。
買い物を終えて
スーパーの自動ドアを出た頃には、
辺りはすっかり帳が下りていた。
昼間の爽やかな空気はどこへやら、
夜の冷気が南砂の街を
ひっそりと包み込んでいく。
(ちょっと買い物に
時間かけすぎちゃったかな。
……光、お腹を空かせて
待ちくたびれてないといいけど)
ふと、光の愛おしい寝顔が脳裏をよぎり、
美咲は少しだけ歩調を早めた。
いつもの見慣れた路地裏。
その角を曲がった、まさにその瞬間だった。
――シュルルルル……。
風の止まった暗闇の底から、
粘ついて湿った、悍ましい音が
這い上がってきた。
「わっ……!?」
唐突に、冷たくてひどく粘り気のある何かが、
美咲の両足首に猛烈な力で絡みつく。
急激にバランスを崩し、
体が前に傾いた刹那――
間髪入れずに両腕にも同じ感触が巻きつき、
そのまま容赦なく
コンクリートの壁へと叩きつけられた。
――ドンッ!!!
「くっ……! 痛っ……!?」
背中に走る激しい衝撃に、
美咲は小さく悲鳴を上げた。
手から滑り落ちた買い物袋から、
玉ねぎが転がり、じゃがいもが
アスファルトの上を虚しく跳ねていく。
心臓が早鐘を打ち、
全身の毛穴から冷たい汗が
一気に噴き出した。
(な、何……!?
これ、高位妖魔の……妖肢!?
体が、指一本すら動かない……!)
暗がりの中から、
ぞっとするほど甘ったるく、
まるで腐った果実のような匂いが
這うように近づいてくる。
「美咲ちゃん。
不用心だなぁ……。
こんな暗い路地を、一人で歩くなんて」
「……ッ!!
あんた……久我、累……っ!」
声が震えた。
喉がカラカラに乾き、指先が小刻みに震える。
暗闇からにゅっと姿を現した
Sランク妖魔・久我累の目は、
美咲の体をねぶるように舐め回し、
その歪んだ欲望を隠そうともしていなかった。
(まずい……完全に隙を突かれた……!
なんとかして、刀を――逃げなきゃ……!)
「チッ……呼び捨てかよ。
まぁいいや。
あの金髪パーマは
今日は一緒じゃないんだね?
良かった……邪魔が入らないで、
たっぷり遊べる……」
久我は下品な笑みを浮かべたまま、
美咲の首筋へと、
冷たい金属の注射針を素早く突き刺した。
(……!?
何、これ……体が、熱い……っ)
ドクドクと体内に怪しげな薬剤が巡り、
急速に全身から力が抜けていく。
視界が急激にぼやけ、
膝がガクガクと崩れ始めた。
(ダメ……動けない、意識が……。
光……!
光が危ない……!
悠真……ごめん……
助けに……き……て……)
胸の内で大切な人たちの名前を必死に叫ぶが、
唇はただ微かに震えるだけ。
「これで……
やっと、光ちゃんに会える……」
美咲の意識は、
底なしの暗い闇へと沈み込んでいった。
◇
その頃、美咲のマンションの一室。
光はいつも通りのゆるい部屋着姿で
ソファにゴロゴロと寝転がりながら、
スマホで動画サイトを眺めていた。
「あー……どれも美味しそう。
特にこのシーフードカレー、
具だくさんで最高だなぁ……」
「美咲先輩、
早く帰ってきてくれないかなぁ……」
そのとき、手元のスマホが
ブルッと短く震えた。
画面に表示されたのは、
美咲からの新着メッセージ。
『少し話したいことがあるの。
近くのファミレスで待ってるね』
「え……?
ファミレス……?」
光はパチパチと瞬きをして、
少しだけ首を傾げた。
(お話って何だろう?
お家じゃ、ダメなのかな……)
ほんの少しだけ、胸をよぎった違和感。
光は素直に返信の指を動かした。
『分かりました。着替えてから行きます!』
ソファから起き上がると、
光はクローゼットを開けた。
白いキャミソールに、
薄手の柔らかなカーディガン。
ボトムスにはチェック柄の
プリーツスカートを合わせる。
鏡の前で軽く髪を整え、
小さなバッグを肩にかけた。
「……美咲先輩、待たせちゃダメだよね」
けれど、エレベーターを降りて
マンションのエントランスに降り立った瞬間、
光は無意識のうちに
自分の胸元をぎゅっと押さえていた。
ガラス扉の向こう、
外の世界はすでに完全な闇に包まれている。
街灯の橙色の光が
細い路地をぼんやりと照らし、
冷たい夜風がヒュウと音を立てて
光の細い肩をかすめていった。
どこか、世界全体が
静まり返っているような不穏な気配。
(1人で外に出るの、久しぶりすぎる……。
最近はいつも美咲先輩が
一緒にいてくれたから……
なんか、胸がざわざわする……)
トクン、トクンと、
心臓の音がいつもより少しだけ速く響く。
もう一度だけ、LINEの画面を見た。
『少し話したいことがあるの。』
(……美咲先輩が、ファミレスで待ってる)
それだけを確かめるように胸に刻んで、
光は深呼吸をして、勇気を振り絞り、
一歩を踏み出した。
(きっと、大事なお話なんだ。
ちゃんと聞かなきゃ……)
光は、その違和感を胸の奥へ押し込み、
夜の中へと歩き出した。
それは、影からの招待状だった。




