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白翼の光  作者: 月凪
第三巻 宿命は光と影になって

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第64話 終焉の異形


『ズシン……、ズシン……』


湿ったカビ臭さと

錆びた鉄の匂いが混ざり合う暗闇の奥、

屋上へと続く重い鉄扉の内側から、

コンクリートを無慈悲に踏み鳴らす

足音が響いていた。


それは人間の歩調とは明らかに違う、

まるで巨大な肉塊が引きずられながら

迫ってくるような、悍ましい音。


非常灯の赤い光が明滅する中、

その足音が一歩近づくたびに、

廃墟の空気そのものが

恐怖でビリビリと震えていくようだった。


神崎は屋上へ続く扉に手をかけ、

深く息を吸った。


ゴクリ、と全員が固唾を呑む。


神崎は意を決したように、

一気に扉を開け放った。


外は、いつの間にか

しとしとと冷たい小雨が降り出していた。


灰色の空から落ちる水滴が、

光たちの視界を濡らす。


「……くっ」


「な……なんだ、ありゃ……?」


扉の向こうの光景に、

神崎の顔が歪み、

蓮司の声から余裕が消え去った。


「……でかいな……」


悠真が低く呻く。


光と美咲は、ただその圧倒的な異形を前に、

言葉を失うことしかできなかった。


現れたのは、巨大で異様な影だった。


黒い禍々しい甲殻に覆われた巨体。


背中と両腕からは、

うねるように無数の妖肢が

非対称に伸びており、

その胸の中央には、

ドクドクと不快に脈打つ

巨大な赤い核が埋め込まれている。


甲殻の隙間を走る黄緑色の不気味な紋様、

環境にそぐわない歪な人間の顔。


生物の遺伝子と、

何か別の邪悪な存在を

無理やり融合させたかのような

禍々しいシルエット。


それは、これまで討魔局で見た、

どの高位妖魔とも明らかに違っていた。


◇


『グワァァァァァーーーーー!!』


突如、異形の巨獣が、

世界を呪うかのような雄叫びを上げた。


「ひっ……!」


恐怖で顔を青ざめさせ、

光は思わず一歩後ずさった。


「来るぞ! 散れッ!」


神崎の鋭い一喝と同時に、

異形体妖魔が地響きを立てて

猛ダッシュで突進してきた。


巨大な右腕を、

地面を引きずるようにして

強引に振り払う。


『ズズズドォォン!!!!』


凄まじい衝撃が屋上の床を抉り、


大量の砂煙が一気に舞い上がった。


「光――っ!!」

「光!」


美咲と悠真の叫びが

爆煙に吸い込まれていく。


一歩逃げ遅れた光だったが、

ギリギリのところで直撃を回避し、

コンクリートに激しく尻餅をついた。


すぐに立ち上がり、

横へ飛び退いて十分な距離を取る。


「ハァ……ハァ……っ!」


「……ふぅ。


光に当たったかと思ったぜ。

見た目通りのパワー特化だな。


直線の突進は速いが、

細かい動きはそこまでじゃない」


「大丈夫か、光ちゃん!?


俺の後ろにつけ!」


蓮司が素早く光の前に割り込もうとする。

けれど、光は刀の柄をきつく握り直した。


「いいえ……


すみません!


もう大丈夫です……


私もやります!」


「……でも、なんて破壊力なの……」


美咲の声が微かに震えていた。


砂煙の中から再び現れた異形体妖魔の、

右腕の一撃の跡——


屋上のコンクリートは、

まるで爆撃でも受けたかのように

大きく抉り取られていた。


「光! 


翼はいけるか!?」


神崎が光に鋭い指示を飛ばした。


「……はい! 


いけます!」


「ダメだ! 神崎サン!


光、翼は今は使うな」


蓮司の、いつになく冷徹な一喝が響いた。


「何だと?」


蓮司は前方の敵を睨み据えたまま、

低く響かせる。


「あのデカブツが、

たった一人でこの狭い廃墟の階段を

登ってきたとは到底思えねえ……。


おそらく誰かがここまで運んだんだ。


そして今もどこかで、

俺たちの戦いをじっと観察している。


ここで翼を使えば

アイツを仕留められるかもしれないが……


相手が何を企んでるか分からない以上、

翼は今使うべきじゃない」


「……くっ……!


筋が通ってやがるな、チクショウ!」


神崎は悔しそうに歯噛みした。


『グワァァァァァーーーーー!!』


異形体妖魔が

再び猛ダッシュで接近してくる。


――それに合わせるように、

悠真が一陣の風となって

地面を蹴り出した。


「悠真――っ!!」


美咲の叫び。

その瞬間、硬質な金属音が響き渡った。


『ギィィィン――!!』


異形体妖魔が

その巨大な右腕を振りかぶるより早く、

悠真の刀が、不気味に蠢く赤い核の

表面を正確に切り裂いた。


『グワァァァァァ!!』


巨獣が苦悶の雄叫びを上げ、

大鎌のような妖肢を荒々しく振り回す。


けれど、悠真はすぐにバックステップで

その攻撃範囲から完璧に離脱してみせた。


「……まだだ。


かなり硬い核だ。

簡単には砕けそうもない」


「タフな野郎だな……!


よし、俺が引きつける!


全員で散らばって一気に叩いてくれ!


光は蓮司と一緒だ!」


「「「了解!!」」」


「オッケー!」


神崎班は、猛り狂う異形体妖魔を

取り囲むようにして、

雨に濡れた屋上へと散開した。


◇


最初に動いたのは神崎だった。


巨大な右腕が風を切り裂き、

叩き下ろされる。


『ズドォォン――!!』


神崎は紙一重でその猛撃を躱すと、

大剣を核へと全力で叩き込んだ。


『ギィィン――!!』


「硬いな!」


その刹那――


美咲が敵の背後へ影のように滑り込んだ。


妖魔刀を目にも止まらぬ速さで連撃させる。


風を裂く鋭い音が、虚空を連続して震わせた。


異形体妖魔が振り返った瞬間、

右側面から蓮司が舞うように鋭く踏み込み、

二刀を深く抉り込んだ。


『ザシュッ! ザシュッ!』


「光ちゃん、今だっ!」


蓮司の叫びと同時に、

光も即座に前に飛び出し、

核を狙って刀を突き出した。


(当たって……!


お願い、届いて――っ!!)


光の妖魔刀が、

あと数センチというところで

核を掠めた。


妖魔が怒りに満ちた咆哮を上げ、

傷ついた右腕を狂ったように

振り回し始める。


光たちは同時に後方へと跳び退いた。


――だが、その一瞬の隙を、

最後方にいた悠真が見逃すはずもなかった。


渾身の力を込め、

一撃を核へと叩き込む。


『パキパキ……パキ……』


核の表面に、

クモの巣状のヒビが入っていく。


しかし、異形の妖魔は

自らの破壊も構わず、大蛇のような右腕を

目の前の悠真目掛けて振り下ろした。


悠真の表情が曇る。


「くっ――」


「悠真――っ!!」


美咲の叫び。


『ガギィィィン――!!』


「ぐぅぁ……」


間一髪のところで

神崎が悠真の前に立ち塞がり、

その大剣で妖魔の右腕を受け止めていた。


激しい火花が散る。


その瞬間、神崎の妖魔刀の刀身から、

微かに――赤い粒子が陽炎のように放たれた。


(……え!? 


班長の刀が、赤い光を――!?)


光、美咲、そして蓮司の目が見開かれる。


神崎はそのまま、その凄まじい膂力で、

妖魔の巨大な右腕を力任せに押し返し、

弾き飛ばした。


その圧倒的な背中を見て、

蓮司が闘志を爆発させて叫んだ。


「凄ぇな! 神崎サン!


――じゃあ、俺も……!」


双妖刀へ爆発的な妖気が集中し、

刀身から微かに青い粒子が舞う。


「美咲、しっかり見とけよ。


……これが『片鱗解放』だ。」


美咲は初めて聞く言葉に息を呑んだ。


「片鱗……解放……?」


小雨が煙るなか、次の瞬間――


蓮司の姿が、文字通り「無音」となって

世界から消え去った。


神速の歩法――


『流水』。


雨粒の隙間をもすりぬけるような

流れる動きで、蓮司は一瞬にして

妖魔の懐へと潜り込んでいた。


「いくぜ――」


低く冷徹な声が響いたのと同時に、

二振りの妖魔刀が閃いた。


左右交互に放たれる、超高速の六連撃。


一撃。

二撃。

三撃。


六連撃が終わった時には、

蓮司はすでに妖魔の背後へ着地していた。


遅れて弾けた凄まじい衝撃波が

周囲の雨を激しく吹き飛ばし、

妖魔の肉体から噴き出した黒い粒子が、

灰色の空へと吹雪のように舞い上がった。


蓮司は振り返ることもなく、

雨に濡れた二振りの刃を、

静かに鞘へと収めた。


――パキン!


その硬質な音とともに、

妖魔の胸の核が粉々に砕け散った。


異形体妖魔は

最後の雄叫びを空に響かせながら、

無意味に妖肢を振り回し


――そのまま黒い霧となって、

跡形もなく霧散していった。


「……倒、した……の……?」


光は膝に両手を突き、

激しく肩を上下させていた。


心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り続け、

息を吸うたびに胸の奥が痛い。


(怖かった……。


みんながいてくれなかったら、

私は今頃……)


へたり込みそうになった光の肩を、

神崎が力強く、けれど優しく

ポンと叩いてくれた。


「お疲れさん。


よくやったぞ、光」


「は、はい……っ」


光が小さく頷くと、

神崎班長は消え去った妖魔の残滓を見つめ、

険しい顔で眉をひそめた。


「しかし……


ありゃ一体何だったんだ?


まるで、巨大な実験体みたいな

姿をしてやがったな……」


「たぶん……


俺もそう思いますね」


蓮司がいつになく真剣な顔で同意する。


――その時だった。


「っ……く……!」


少し離れた場所で、

悠真が突然その場に片膝をつき、

激しく顔を歪めて歯を強く食いしばった。


その額には、

尋常ではない量の冷や汗が浮かんでいる。


久我との戦いで負った古傷が、

鋭く疼いていた。


「悠真――っ!!」


美咲が即座に駆け寄り、

彼の肩をがしっと両腕で支える。


「悠真! 大丈夫!?」


神崎も慌てて駆け寄り、

悠真の様子を見て顔を強張らせた。


「悠真……っ! 


大丈夫か!?


ったく、


そんな痛えのを我慢して、

あの動きかよ……。


大したヤツだが、

無茶しすぎだ!」


◇


――少し離れた高層マンションの屋上。


久我と薄刃は、

長距離監視機器の液晶画面越しに

廃墟の戦いの終わりを

冷ややかに見下ろしていた。


久我は深く、苛立たしげに息を吐き、

チッと盛大に舌打ちをした。


「弱いなー……。


光ちゃんの翼、

結局見れなかったな……。」


隣に立つ薄刃は、

感情の欠片もない無機質な瞳のまま、

ノートパソコンのキーボードを

淡々と叩いてデータを更新していく。


「当然の結果だ。


戦闘記憶粒子の

定着率が未だに低すぎる。


ランクで言えばA以上、

S未満といったところだな」


「ん? 


なんだそれ」


「『龍』が作り出した、人工の実験体だ。


他個体がこれまでに蓄積してきた

戦闘経験を『記憶』する特殊な粒子を、

あの核に組み込んだものだ。


……だが、再現率はわずか三割程度。


まだ、実戦のデータとしては話にならんな。


本来なら、あの場で

光の翼から放たれる未知の粒子を取り込み、

進化の引き金にする手筈だったわけだが……


龍の目論見は完全に外れたというわけだ」


薄刃はそこで初めてノートパソコンを閉じ、

ゆっくりと身を乗り出した。


その薄い口の端を、愉悦に歪めて笑う。


「だが、収穫はあった。


――鳴海蓮司。


あの人間離れした神速の剣技は、

記録しておく価値が十分にあるな。……ん?」


薄刃の言葉が、不自然に途切れた。


液晶画面の向こう、廃墟の屋上から

まさに去ろうとしていたはずの蓮司が――


突如、足を止めたのだ。


そして、遮るもののない空間を

真っ直ぐに凝視し、こちらの監視機器と、

完全に視線を合わせた。


蓮司はどこか気怠げに、

けれど確固たる意思を込めて

――シッシッと、

野良猫でも追い払うように

手でこちらを払う仕草をしてみせた。


「……完全に、こちらの位置に気づいていたか」


薄刃は低く呟き、ゆっくりと立ち上がると、

屋上の冷たい手すりに細い手をかけた。


重い雲の隙間から、

まるで舞台のスポットライトのように、

昼の強い陽光が唐突に差し込んでくる。


光に射抜かれた豊洲の街並みが

白く眩しく輝く中、空からは未だに、

蜘蛛の糸のように

細やかな雨が静かに降り続いていた。


――天気雨。


屋上に残る激しい死闘の痕跡。


その痛々しい削り跡の上を、

きらきらと光る真珠のような水滴が

次々と落ちては、儚く弾けて、

煙のように消えていく。


「奴らが完全にあの場から撤退したら、

すぐに現地へ向かう。


――残された『粒子』を回収するぞ」


「粒子……?」


久我がその言葉を繰り返す。


降り注ぐ光と雨の境界線で、

薄刃の瞳は、まるで深い底なしの闇のように

どこまでも冷たく沈んでいた。


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