第62話 夕食会の決闘! チャラ男ナイトはボディガードを突破できるか!?
その日の夕方、
美咲のマンションは、
キッチンから漂う香ばしくて
温かい匂いで満ちていた。
彩花がエプロン姿で
楽しそうにフライパンを振り、
美咲がその横で味見をしている。
病み上がりの光は、
のんびりとテーブルセッティングを
手伝っていた。
平和で穏やかな、
いつもの女三人の夕暮れ。
そこへ、空気を読まない電子音が鳴り響いた。
『ピンポーン』
モニターを覗き込んだ彩花の細い眉が、
ピクッと跳ね上がる。
画面に映っていたのは、
満面の笑みで大きく手を振る
金髪パーマの男だった。
「……また来た。
このチャラ男……」
彩花の声が一瞬でドスの利いたものに変わる。
「えっ、蓮司さん……!?
まだ準備中なのにどうして……っ」
光は驚き、
自分が無防備な部屋着姿であることを
完全に忘れたまま
玄関のドアを開けてしまった。
淡いベージュのキャミソールに、
柔らかなショートパンツ。
急いで歩いたせいで
細い肩紐が少しだけ滑り落ち、
お風呂上がりの少し濡れた長い髪が
ふわっと肩にかかっている。
どこか守りたくなるような、
無警戒な可愛らしさに満ちた姿だった。
「よっ!
今日は俺が特製デザートを――って、」
ドアを開けた瞬間に
快活に声を上げた蓮司は、
光の姿を目にした刹那、
石のようにフリーズした。
目が大きく見開かれ、
口元が自然に緩んで
ニヤッと笑みがこぼれかける。
(うわあああ!!!
なんだその格好は……ッ!?
肩紐ずれてるし、無防備すぎるだろ……!
落ち着け俺、心臓うるせえ!!)
慌てて表情を引き締めたものの、
蓮司の頬はすでに真っ赤に染まっていた。
「……目が完全にアウト。
今の視線、光の親友として
見逃せないんだけど……
ね?……
蓮司さん?」
「ひっ……!?」
光の後ろから音もなく現れた彩花が、
氷点下の声で毒づく。
これには流石の蓮司も
飛び上がって動揺した。
「蓮司さん、ありがとうございます!
中に入ってください!」
光が無邪気に招き入れようとすると、
彩花は即座に光の肩をがしっと抱き寄せ、
素早い手つきで肩紐を直しながら叫んだ。
「ひかり!
なんでそんな部屋着のまま
玄関に出てんの!?
下心全開なチャラ男の前で!
危なすぎる!!」
キッチンから顔を出した美咲も、
あきれ返ったような
冷ややかな視線を突き刺す。
「……諦めなさい、蓮司。
顔が真っ赤よ。
心の声が部屋中に丸聞こえしてるわ」
「!?
ば、バレてた……っ!?」
ガーンと効果音が聞こえそうなほど
ショックを受ける蓮司を見て、
光はきょとんとしたまま
自分の格好を見下ろし――
そこで、ようやく
事の重大さにハッとした。
「わ……っ!
ごめんなさい!
蓮司さんが来たから
急いで出てきちゃって……っ!」
「違うんだ光ちゃん!
俺は決して邪悪な目では
見てないからね!?」
彩花はギロリと蓮司を睨みつけて
光と蓮司の間に割って入る。
「いいから、ひかりは着替えてきて!!」
「えっ……あ、うん……!」
◇
食卓に着いてからも、
彩花の「対チャラ男最高警戒レベル」の監視は
一秒たりとも緩んでいなかった。
メインのハンバーグを平らげ、
いよいよお楽しみのデザートタイム。
蓮司が持ってきた特製タルトを
切り分けようとした、その時だった。
「あ……蓮司さんのタルト、
ちょっとだけ貰ってもいいですか?」
「お、おう!
もちろん!
ほら、遠慮しないで食って食って!」
光が嬉しくなって身を乗り出すと、
蓮司が差し出してくれた
フォークの上のタルトを、
何も疑わずにパクッと口に含んでしまった。
「んーーー!
本当に美味しい……っ!」
幸せそうに頬を緩める光を見て、
蓮司のフォークが空中で静止した。
耳の裏まで真っ赤になり、
しばらく微動だにしない。
彩花が即座にフォークを
武器のように突き出した。
「ちょっとそこまでよ!
ひかりに自分のフォークを使わせるなんて、
下心丸出しでしょ!!
ひかり、絶対にそいつに近づいちゃダメ!」
「ええっ!?
違うよ彩花ちゃん!
ただのデザートシェアでしょ!?」
光はフォークを咥えたまま、
きょとんとした顔で左右の二人を見比べた。
「……?
どうしたんですか?
二人とも……」
そんな喧騒を余所に、
美咲は優雅にワイングラスを傾けながら、
冷静極まりない特大のため息をついた。
「……あのね蓮司。
昼間にね、
悠真があなたのことを
珍しく褒めていたわよ。
『あいつの戦場における洞察力は本物だ』って」
「おー!
さすが悠真!
分かってんねー!」
「ええ。
でも、今のでよーく分かったわ。
あなたのその神がかった洞察力は、
現在、光の無防備さに対して
全力で発揮されているんだってことがね――
悠真が褒めてくれた分のあなたの信用、
今ので全部パーよ。残念。」
「!?
美咲までそりゃないぜ!?
俺、昼間は本当に頑張ってたのに……っ!」
頭を抱えて本気で絶望する蓮司を見て、
彩花は光の肩を強く抱き寄せ、
なおも全力で牽制し続けた。
「ひかりはまだ、
心に深い傷が残ってるの。
これ以上変な男に近づかれたら、
今度は私が守るんだから!」
「え、ええっ……?
あやか……?」
戸惑う光をよそに、
彩花はちらりと蓮司を横目で見た。
傷だらけになりながら、
光を守ってくれたことは知っている。
……だから余計に厄介なのだ。
少なくとも今日は、絶対に認めてやらない。
それが彩花の、小さな意地だった。
夕食のテーブルは、
賑やかな笑い声と、
大人の心理戦、
そして家族の温かい警戒線が
入り混じった空気で満たされていた。
彩花が光の隣を死守し、
蓮司は時折光を盗み見ては
耳を赤くして視線を逸らし、
美咲はそれを極上の冷ややかさで見守る。
当事者である光だけが、
何も気づかないまま、
無自覚に笑顔でタルトを食べ続けていた。
大きな窓の外では、
夕焼けの美しい残光が
南砂の街の輪郭を優しく染め上げ、
静かに夜の訪れを告げていた。
――美咲のマンション、夜遅く。
嵐のような夕食会が終わり、
蓮司が帰った後のリビングは、
穏やかな静けさに包まれていた。
光は再び部屋着に着替え、
ソファーで彩花の隣に
ちょこんと座っていた。
少し離れたキッチンでは、
美咲が食後の紅茶を淹れてくれている。
すると彩花が光の肩をぐっと抱き寄せ、
いつになく深刻な表情で切り出してきた。
「……ひかり。
単刀直入に聞くけど、
あの金髪チャラ男のこと、
本当のところどう思ってる?」
「え?
蓮司さんのこと?」
突然の質問に、光は目を丸くした。
「うーん……
強くて、普段はあんなだけど、
実はすごく優しい人だと思うけど……」
「優しいとか、
そういう生ぬるい次元の話を
してるんじゃないの!」
彩花がソファーのクッションをバシッと叩く。
「あいつ、目が完全にエロいんだよ!
ひかりの部屋着姿を見た時の
あのニヤけ顔、覚えてる!?
頭のてっぺんから爪先まで
舐め回すみたいに見てたんだから!」
「ええっ……?
そんなに見てたっけ……?」
「それが天然の恐ろしいところなんだよ!!」
彩花は光の両肩を掴んで、
がくがくと揺さぶった。
「ひかりは危機感がゼロだから危ないの!
あいつ、間接キスされただけで
顔を真っ赤にしてたでしょ?
美咲さんも言ってたじゃん!
悠真さんのせっかくの評価が
一瞬でパーになったって」
「そうねえ」
美咲が湯気を立てる紅茶のカップを
トレイに載せて運びながら、
苦笑交じりに会話に加わった。
「昼間は少しだけ見直しかけたのに……
見事に元通りね。
どうやらあいつ、
光の無防備さに対して
全く免疫がないタイプみたい」
「でしょでしょ!?
だからひかり、これからは絶対に
部屋着のまま玄関に出ないこと!
あいつが来たらすぐ着替えるか、
私がブロックするから!」
「う、うん……。
あやか、なんか本気だね……」
圧倒的な圧に押され、
光は引き気味に頷く。
彩花は光の頭を
よしよしと優しく撫でながら、
守護神のような決意を込めて言った。
「当たり前でしょ。
ひかりは私の大事な親友なんだから。
いい?
あいつに頼っていいのは
『任務』の時だけ。
プライベートで
一歩も踏み込ませちゃダメだからね」
「……あはは、ありがとう、彩花」
光は苦笑いしながらも、
その過保護な優しさが嬉しくて
素直にお礼を言った。
彩花は光を抱きしめながら、
ふと視線を窓の外へと逃がした。
傷だらけになりながら
光を守ったあの日のことは、
彩花だってちゃんと知っている。
でも今日は絶対に認めてやらない。
それが彩花の――
光への愛情から来る
小さくて頑固な意地だった。
◇
一方、マンションを出て
月明かりが照らす
駐車場へと向かう蓮司。
心地よい夜風を浴びながら、
タルトが入っていた空の紙袋を
指先でクルクルと回し、
その口元は完全に緩みっぱなしだ。
緩みすぎて締まりがない。
赤信号で立ち止まり、
蓮司は夜空を見上げて
盛大に独り言を呟いた。
「はぁ……。
彩花ちゃんに『目が完全にアウト』
って言われたの、結構メンタルにキたわ……。
でも、一ミリも否定できねえんだよな」
青信号に変わり、歩き出す。
「悠真に『洞察力がある』って褒められたの、
完全に無駄にしちまったな。
美咲にも失望されまくりだし。
――でも。
光ちゃんのあんな可愛い笑顔が
見られたんだから、全部チャラだわ……!」
ようやく駐車場に到着し、
愛車――
ド派手なマットイエローのスープラの
ドアを開けながら、
蓮司は最後にぽつりと呟いた。
「……明日も頑張るか。
光ちゃんの護衛として」
一呼吸置いて、誰もいない夜空へ、
吐き出すように小さく言葉をこぼす。
「――そして、一人の男として、ね」
自嘲気味な笑みを浮かべ、
車のドアノブに手をかけようとした――
その刹那。
蓮司の動きが、完全に止まった。
風が、止んでいた。
街の喧騒の残響も、
すべてが嘘のように
消え失せたような感覚。
ただ、鼻腔の奥にだけ、
甘ったるく腐った果実のような匂いが、
静かに、澱のように沈殿していく。
蓮司の表情から、ふっと体温が消えた。
(……なんだ?)
理由は分からない。
ただ、周囲の空気が、
急激に密度を増して
重くなったような錯覚を覚える。
幾度もの死線を潜り抜けてきた彼の肌が、
目に見えない何かに、
じっと見下ろされているような、
凍りつくような感覚を捉えていた。
(……気のせい、か?)
蓮司は視線だけをゆっくりと動かし、
吸い込まれそうな夜の闇を見回した。
――何もない。
ただ、ただ、夜が深い。
蓮司は眉をひそめたまま、
静かにスープラへと乗り込んだ。
――ドン。
重く、吸音されたような密閉の音が、
静寂の底へ沈んでいった。




