第6話 記憶の欠片
夕方――。
燃えるようなオレンジ色の夕陽を浴びて、
住宅街の細い路地を、一台の黒いセダンが
滑るように走っていく。
車内を透過する斜陽は、
まるで血の色のようで、
これから向かう場所の悍ましさを
予期しているかのようでもあった。
後部座席に座る光は、
膝の上で自分の両手をきつく握りしめ、
隠しきれない緊張に
その華奢な身体を強張らせていた。
「悠真さんまでついてきてくれて……
本当にありがとうございます。」
悠真はバックミラー越しに、
光の不安に曇った瞳を捉え、
いつもと変わらぬ、
淡々とした静かな声で返した。
「いい。気にするな。
班長は、ここには来れないそうだ。
……だから、俺が代わりに来た。」
車内には一瞬、静謐な沈黙が流れた。
悠真は前方を見据えたまま、
その重苦しい空気を切り裂くように、
淡々と話を続けた。
「恐らく……
該当の建物は、
今も『食堂』として、
妖魔に利用されている。」
光は弾かれたように顔を上げ、
驚愕に目を見開いた。
「……え……?」
食堂。
その日常的な単語が、
妖魔の世界において何を意味するのか。
思い至り、背筋に冷たいものが走る。
「数年前、正式に取り壊しが決まり、
解体業者が入った。
――だが、
そこに訪れた作業員は
全員死亡した。
記録上は事故だが、
実態は妖魔による惨殺だ。」
その現実離れした凄惨な事実に、
助手席の美咲も息を呑み、目を丸くした。
「南砂にも、そんな危険な場所があったなんて……」
少しずつ、少しずつ、
車の窓の外の景色は、
見慣れた穏やかな住宅街から、
人気の絶えた不気味な空き地へと離れていく。
「いや……。
そこで妖魔の目撃情報はあまり無い。
食堂と言っても、
利用する妖魔は少ないのだろう……。」
悠真の言葉は、
どこまでも理路整然としていて、
だからこそ余計に冷たく響いた。
「しかし、それ以来、
他の解体業者も手をつけられず、
建物はそのまま放置されている。
……だが、妖魔に遭遇する可能性はある。
念のため、美咲と光の分も
『妖魔刀』を準備してきた。」
悠真はシフトレバーを握る手を緩めず、
バックミラーの光へと冷徹な眼光を向ける。
「建物内では、十分に警戒しろ。」
光は喉の奥が
カラカラに渇いていくのを感じながら、
ゴクリと深く唾を飲み込んだ。
そして、自分の覚悟を確かめるようにして、
はっきりと返事をした。
「はい!」
キィ……と
小さなブレーキ音を立てて、
悠真は車を止めた。
「さぁ……着いたぞ」
悠真は静かに車のエンジンを切った。
世界から機械的な駆動音が消え去り、
耳が痛くなるほどの静寂が、
一瞬にして三人を包み込む。
三人は座席の下から、
妖魔刀を手に携えて
ゆっくりと、車から降りる。
――バタン。
無機質な閉扉音が、夕暮れの世界へと、
静かに、重く響き渡った。
車が止まったその場所は、
南砂の住宅街から少し離れた場所に位置する、
5階建てのビルだった。
濡れた土の匂いが、辺りに満ちている。
それは、人の気配を
完全に拒絶しているかのようだった。
湿った木々に深く囲まれ、
世界から忘れ去られたように、
ポツリと聳え立っている。
苔の生えた、無機質なコンクリートの建物。
窓に硝子は一枚もなく、
まるで、その場に囚われているかのように、
太く長い蔦が、不気味に建物内へと
張り巡らされていた。
燃えるようなオレンジ色の太陽に照らされ、
そこだけが、別の理で動いているような、
異様な雰囲気。
光は思わず、喉の奥で息を呑んだ。
美咲が、乾いた唇からポツリと呟いた。
「まるで……、朽ちた遺跡みたい……」
悠真は、至って冷静だった。
「光……中が見たいんだろ?
暗くなる前に行くぞ。」
光はハッとして、
弾かれたように返事をした。
「は……はい!」
三人は黄色い立ち入り禁止のロープを越え、
地獄の口を開けた建物内へと、
足を踏み入れていった。
中は想像以上に薄暗く、
濃密な死の気配が漂う、
不気味な空間だった。
悠真は周囲に視線を走らせ、
ポツリと呟いた。
「雰囲気はあるが……妖気は無いな。」
だが、建物内に入ったその瞬間から。
光の左の肩甲骨の奥が、
じわじわと高熱を帯びていく。
(お母さんは……
こんな所で、殺されたの??)
三人は手にした妖魔刀を抜刀し
警戒しながら、埃の積もった階段を上がり、
最上階である5階へと足を進めた。
「……!?」
5階のフロアに辿り着いた瞬間、
光の足が止まった。
床のコンクリートには、
ドス黒い、黒褐色のシミが
数箇所に渡って広がっていた。
それが何であるか、直感が告げていた。
あまりにも生々しい血の跡。
光は、生理的な恐怖から思わず後退りする。
しかし、意を決して、
もう一歩足を進めた途端――。
『――ドクン!』
左背中が大きく脈打ち、
熱が一気に強くなった。
「……っ!?」
美咲と悠真が、
何事かを察して心配そうに
光の顔を覗き込む。
「光……大丈夫?」
光は、額から止まらない冷や汗をそのままに、
震える足で少しずつ前へと進む。
「だ……大丈夫です。
ちょっと、
背中が熱くなっただけです……」
進まなければいけない。
魂の底から、
そんな強迫観念が突き上げていた。
しかし、足を一歩踏み出すたび、
背中の熱はどんどん、
暴力的なまでに熱くなっていく。
「ッ……く……。」
光は思わず、自分の左背中をきつく押さえた。
衣服越しでも、
そこが異様に発熱しているのが分かった。
光が目指すのは、その部屋の最奥――。
黒褐色のシミが、
一番大きく、濃く広がっている場所だった。
「ハァ、ハァ……お母さん……」
(ここだ……
きっと、お母さんは、
最後にここにいたんだ……)
光はその場に崩れ落ちるように跪いた。
そして、その過去の惨劇の記憶――
黒いシミに、そっと、
白く震える指先で触れた。
『――ドクン……ドクン!!』
その瞬間だった。
光の左背中に、
まるで錆びたナイフで
生身を抉られたような、
あまりにも強烈な熱と、
苛烈な痛みが一気に走り抜けた。
「ッ……あぁぁぁあ!!!」
光は左背中を強く押さえ、
その場に崩れるように、
前のめりに倒れ込んだ。
美咲と悠真が、
駆け寄ってくる。
「光!!」
「どうした!? 光!」
耳元で響く二人の声が、
どこか遠くの水底から
聞こえるように歪んでいく。
光は痛みを堪え、脂汗を流しながら、
何とか起きあがろうと床に手を突いた。
しかし、次の瞬間。
今度はまるで、
腹部を巨大で鋭利な「何か」に
深く貫かれたような、
凄まじい衝撃と激痛が光の肉体を襲った。
「カハッ……! ぁ……が……っ!」
喉の奥から、
過呼吸のような
引き攣った悲鳴が零れ落ちる。
光のその、
あまりにも突然で異常な変貌を見て、
美咲の表情から、血の気が引いた。
「ちょっと!……光!……ねぇ!」
心配そうに自分を見つめる、
大好きな先輩の顔が、
白く霞む視界に映る。
(違う……これは私の痛みじゃない……)
大丈夫だよと、
何とか微笑んでみせようとした、
その刹那――。
今度は、両足を
根元から切断されたかのような、
骨を断つ鋭い激痛が、
光の細い両足を容赦なく迸った。
「う、ぐ、ぅう……う、そ…………、……あ」
光はその場に力なく倒れ込み、
コンクリートの冷たさを頬に感じながら、
段々と、意識が薄くなっていく。
静寂。
その薄れゆく意識の深淵で、
まるで遠い昔から、かすれた音素が
零れ落ちてくるような感覚があった。
キィン、と空間を切り裂く、
妖魔刀の鋭い斬撃音。
肉を削ぐ音。
日常の裏側で行われる、
凄惨な戦いの声。
そして――。
『やめて! その人達は関係ない!』
凛とした、けれど悲痛に張り詰めた、
お母さんの声。
色んな人達の、絶望的な悲鳴が聞こえた。
それが――
段々と、潮が引くように
静まり返っていく……。
世界が、死の沈黙へと包まれていく。
その中で。
やけに聞き覚えのある、
男の絶叫が響いた。
『だからお前も生きろ!』
それは、血を吐くような慟哭だった。
やけに静かだ……。
もう、何も聞こえない……。
しかし、次の瞬間。
光の脳裏の、もっとも深い場所で、
やけに小さく、けれど奇妙なほど鮮明に、
その言葉が鼓膜に届いた。
『光……
ありがとう……
幸せだったよ……』
今でも鮮明に思い出せる。
鈴の音を転がしたような、
あの歌うような優しい声。
「……お母さん……。」
光の、完全に閉じかけた目から、
止めどなく大粒の涙が溢れ出した。
「光!!」
遠くから、美咲と悠真が、
自分を必死に呼ぶ声が聞こえた気がした。
しかし、光の意識は
母が遺した、ほんの欠片だけの
記憶を抱いたまま――。
深い、深い闇の淵へと
転がり落ちていった。




