第59話 守るという一歩
あの影目との死闘から、
二日が経った午後。
江東区にある深川中央病院の
待合ロビーには、大きな窓から
午後の柔らかな日差しが差し込み、
白い壁を優しく、
どこか温かく照らし出していた。
光はまだ背中や腕に包帯を巻いた
痛々しい姿のまま、
ロビーの長椅子に腰掛けて静かに待っていた。
身体を動かすたびに
背中がうっすらと疼く。
それでも今日は、
なぜだか胸の奥が
少しだけ温かかった。
「光ちゃん――っ!!」
静かなロビーに、
息を切らした高い声が響く。
顔を上げると、
調査課の遥香が必死の形相で
こちらへ駆け込んでくるところだった。
光の前に来ると同時に肩で息をしながら、
遥香はポケットから
一本の小さな刃を引き抜き、
両手で真っ直ぐに差し出してきた。
「……これ、ちゃんと返しに来たよ」
きらりと日差しを反射したのは、
あの廃工場で光の太腿から
彼女の手へと託した『妖小刃』。
光はゆっくりと立ち上がり、
遥香の姿を見つめた。
手渡された冷たい鉄の感触が、
あの暗いホールの記憶を呼び起こす。
狂暴な黒い妖肢。
闇を照らした純白の翼。
死と隣り合わせだった、あの戦い。
「……遥香さん、無事で本当によかった」
光の言葉を聞いた瞬間、
遥香の大きな瞳が
みるみるうちに大粒の涙で潤んでいった。
「光ちゃんこそ……っ!
あの時、私たちを逃がすために
一人で残ってくれて……
本当に、本当にありがとう……っ。
光ちゃんが戦ってくれなかったら、
私たち、絶対にあの場所から
逃げられなかったよ……!」
遥香は妖小刃を両手で強く握りしめ、
胸元で抱きしめるようにしながら、
声を震わせて言葉を紡ぐ。
「この小刃ね……
すっごく心強かったの。
暗い通路を走って逃げる時も、
怖くて死にそうな時も、
これをずっとギュって握ってた。
あ、光ちゃんが私たちを
守ってくれてるんだ、って。そう思ったら、
最後まで諦めずに頑張れたんだよ……」
遥香は溢れる涙を拭おうともせず、
光の目を真っ直ぐに見据えた。
「光ちゃんのおかげで、
私……生きてお母さんに会えたよ。
本当にありがとう……っ!」
「あ……」
遥香の口から出た
『お母さん』という言葉。
そして、彼女の手が包む
妖小刃を受け取りながら、
光の胸の奥が、
これまでにないほど熱く、
激しく震えた。
(……守れた)
かつて、母を失って
ただ泣くことしかできなかった、
あの無力だった子供の光は、
もうここにはいない。
(私、ちゃんと……自分の力で、
誰かの大切な命を守ることができたんだ……)
こんなに心が震えるほど嬉しくて、
誇らしい気持ちになったのは、
生まれて初めてかもしれない。
光の視界も、うっすらと涙で滲んでいく。
それでも、光は遥香を安心させるように、
いま自分にできる精一杯の、
最高の笑顔を作ってみせた。
「うん……
約束通り、返してもらえて嬉しい。
遥香さんが無事で……
本当に、本当に良かった」
診察を終えた光を、
美咲は病院内のカフェで待っていてくれた。
合流した2人は、
そのまま悠真の病室へとお見舞いに向かう。
ふと廊下から窓の外を見上げると、
世界は少しずつ夕方の色彩へと
移り変わっていた。
病室の白い扉をゆっくりと開き、
美咲が優しい声をかけた。
「悠真……入るね。
調子はどう?」
窓際に立って外を眺めていた悠真が、
いつもの物静かな微笑みを浮かべて振り返る。
「ああ……悪くない。
予定通り、明日には退院できそうだ」
美咲の背中からひょこっと顔を出して、
光も病室へと足を踏み入れた。
「悠真さん……!
元気になって、本当に良かったです……っ。
あの、これ、プリン……買ってきたので、
よかったら食べてください」
差し出されたコンビニの袋を見て、
悠真は少し困惑したように眉を寄せた。
「ありがとう、光。
……ところで、俺がプリン好きだと、
一体誰から聞いたんだ?」
「前に悠真さんが、
お昼休みに美味しそうに
プリンを食べてるのを見たので……!」
悠真は少し考え込み、
真顔で答えた。
「……あれは茶碗蒸しだ」
「――っぇ!?」
みるみるうちに光の顔が
沸騰したように真っ赤に染まっていく。
光は慌てて下を向き、
プリンの袋を胸元にぎゅっと抱きしめた。
そのあまりに綺麗なコントラストに、
横にいた美咲先輩が
「プッ」と耐えきれずに吹き出す。
「ふふっ、光、顔真っ赤よ。可愛い」
光の大慌てな反応を見て、
普段は滅多に表情を崩さない悠真が、
珍しく小さく声を立てて笑った。
「光……気にするな。
俺はプリンも好きだ。
みんなで食べよう」
「あ……はいっ!」
悠真の優しいフォローに、
光の顔はすぐにいつもの笑顔へと元通りだ。
現金な自分に少し照れながらも、
嬉しくなって何度も頷く。
光がプリンを
ベッドサイドのテーブルに並べていると、
悠真がふいに、いつもの低く落ち着いた声で
光に話しかけてきた。
「光。
……神崎班長から聞いた。
辰巳の工場で、影目と戦ったらしいな」
「っ……」
その名を聞いた瞬間、
工場のあのねっとりとした闇と、
圧倒的な死の恐怖が脳裏をかすめ、
光は少しだけ俯いた。
「はい……。
でも、あれは
全部蓮司さんのおかげで、
何とかなっただけで……。
私なんて、全然……」
卑下する光を見つめ、
悠真は一歩、こちらへ歩み寄った。
そして、静かで、
けれど芯のある温かい声を光に届ける。
「いや。あの日、
一番守ったのは、光――お前だ」
予想もしなかった言葉に、
光は驚いて顔を上げた。
「……え?」
悠真は真っ直ぐに光の目を射抜いたまま、
穏やかで、深い感情を込めて言葉を紡ぎ出す。
「俺や蓮司は、殲滅班の人間だ。
誰かの盾になるという覚悟は
殲滅班の訓練で、既に持っている。
だが、お前は違う。
調査課の人たちを守るため、
あえて蓮司と共に残るという、
重い選択を自分で選んだ。」
その言葉が胸の奥にストンと落ちて、
じわりと熱いものが込み上げてくる。
視界が急速に潤んでいく。
「お前のその決断があったからこそ、
調査課の三人は無事に生きて、
全員家に帰ることができたんだ」
光の目から、ポロポロと涙が溢れ落ちた。
「討伐課の本当の仕事は、
妖魔を倒すことじゃない。
その先にある『人を守ること』だ。
光……守ったのはお前だ。」
溢れる涙を、
袖口で何度も必死に拭いながら、
光は声を震わせて答えた。
「私……私、
ずっと……誰かに守られてばかりで、
生きてきました……っ。
でも、悠真さんにそう言ってもらえて……
やっと、私も、
誰かを守ることができたんだって……
本当に、思えました……っ」
悠真はそっと、光の頭に大きな手を置いた。
「よくやったな……光」
大きな手のひらから伝わってくる温かさに、
光はもう涙を止めることができなかった。
悠真に優しく頭を撫でられながら
泣きじゃくる光の姿を、
美咲は、まるで自分のことのように温かく、
優しい眼差しで見守っていた。
ひとしきり泣いて落ち着いた頃、
悠真が思い出したように訊ねてきた。
「蓮司には、ちゃんと礼を言ったか?」
「……はい!」
「そうか」
悠真は満足そうに頷き、
窓の外の夕陽へと視線を戻した。
「……蓮司も、お前が残ると決めたからこそ、
最後まで戦えたんだろうな」
赤く染まる病室の中で、
光たちは三人並んで、
少し甘くて、
ほんのり温かいプリンを、
ゆっくりと口に運んだ。
スプーンでプリンをすくいながら、
美咲が嬉しそうに目を細めて言った。
「蓮司も戻ってきたし、
明日からは悠真も復帰。
それに光もこんなに強くなったんだもん。
……私たちの班、
これからもっと強くなるね!」
「そうだな……」
悠真も静かに頷き、
夕陽に照らされた横顔を綻ばせる。
けれど、光は恐れ多くなって
思わず首を横に振ってしまった。
「そんな……
私なんて、まだまだです。
みんなに比べたら、全然……
足元にも及ばなくて……」
「あ……
またそうやって自分を低く言う!」
美咲先輩がわざとらしくジト目を向けて、
光の頬を指先でツンと突いた。
「悠真が認めたんだから、
光はもう立派に、
私たちの誇れる仲間なんだよ?
――もっと、ちゃんと自信持って!」
「はい……。
美咲先輩……
ありがとうございます」
美咲の真っ直ぐな言葉が嬉しくて、
光は気恥ずかしさを隠すように、
そっと自分の左肩に触れて目を閉じた。
制服の下にある、あの時現れた
『翼』へ思いを馳せるように。
(お母さん……。
私、やっと……)
光はそっと、自分の胸に手を当てた。
その瞬間――
今まで抱いたことのない
不思議な感情が芽生えた。
(……私……少しだけ、
自分を好きになれた気がする……)
その感情が少し照れくさくなって、
光は小さく首を振り、
そっと胸の奥にしまい込んだ。
でも――
それは、もう二度と消えない
確かな灯火となって、
光の胸を温め続けていた。
病室の大きな窓の外。
まるで光たちの未来を温かく祝福し、
見守ってくれているかのように、
どこまでも広がる空が、
茜色の美しい夕焼けに
優しく染まっていった。




