第56話 笑い声の残響
壊れた窓から差し込む一筋の陽光が、
ボロボロになった影目の姿を
不気味に浮かび上がらせていた。
宙に舞う青と黒の粒子が、
そのスポットライトの中で妖しくきらめく。
あまりにも濃密な静寂が、
工場のホールを支配していた。
「想像以上でしたよ……ミス光!
そして、その騎士殿!」
ボロボロに引き裂かれたコートを翻し、
影目は狂気的な笑みを浮かべたまま
二人を見下ろした。
「本当はもっと遊んでいたいのですが……
残念ながら、もう時間切れのようです。
私の鎌は、
貴方たちの心技に砕かれてしまいました。
――今回は、私の負けです」
一礼するような優雅な仕草。
けれど、その瞳の奥の執着は消えていない。
「それでは、
また必ずお会いしましょう。
……ミス光」
言い残すと同時に、
影目の背後から這い出た爪のような妖肢が、
地面のコンクリートを鋭く抉った。
蜘蛛を思わせる異様な速度と身のこなしで、
彼は天井の闇へと、瞬く間に消え去っていく。
「ハァ……ハァ、ハァ……っ」
二人は肩で息をしながら、
ただ逃走する影目を見つめていた。
追撃する体力なんて、
もう一歩分すら残されていない。
影目の気配が完全に消え、
光は緊張の糸が切れたように、
その場へぺたんと
アヒル座りの形でへたり込んだ。
両膝を内側へ寄せ、
足を身体の左右へ投げ出した
無防備な姿勢のまま、
激しく荒い呼吸を繰り返す。
背中の翼は、静かな光の粒子となって、
名残惜しそうに光の背中へと吸い込まれ、
消えていった。
蓮司も限界だったようで、
持っていた刀を床に突き立て、
片膝をついて崩れ落ちる。
「ハァ……ハァ……」
「ハァ……っ、ハァ……」
静まり返った廃工場に、
二人の重い呼吸だけが響く。
不意に視線が交差した。
お互い、服は破れ、煤と血にまみれた
見事なボロボロの姿。
それを見合っているうちに、
なんだかおかしくなってきて、
二人はどちらからともなく
笑い声を漏らしてしまった。
蓮司はその場に仰向けにごろりと寝転がり、
天井を見上げながら呆れたように呟く。
「光ちゃーん……
ハァ、ハァ……無茶しすぎだぜぇ……」
「ハァ……ハァ、
蓮司さんこそ……。
私たちを逃がそうとして、
無茶しすぎです……っ!」
「ハァーーーーー!
疲れたーーーーーっ!!」
大げさに天を仰いで叫ぶ、
いつもの軽い調子の蓮司。
それを見て、光の胸の奥から
クスクスと笑いが込み上げて
止まらなくなった。
ボロボロになった二人は、
ただ笑い続けた。
その笑い声だけが、
静まり返った工場にいつまでも響いていた。
一方――。
神崎と美咲は、
辰巳の工場に到着するや否や、
急ブレーキの煙を上げる車から
飛び出していた。
警察の規制線を強引に飛び越え、
必死の形相で暗い通路を駆け抜ける。
美咲は苦しそうに胸を押さえながら、
心の中で何度も、何度も祈り続けていた。
(お願い……無事でいて!
光、蓮司……っ!)
前を行く神崎の表情は硬く、
その足取りは焦燥に満ちている。
「……ん?
妖気が、ほとんど感じられない。
――まさか、二人とも……!」
最悪の結末が脳裏をよぎり、
美咲は青ざめた顔で、
喉を押し裂くように声を振り絞った。
「光!! 蓮司!!
返事をして!! お願い……っ!!」
工場の最奥――
あの広大なホールに差し掛かった、
まさにその時だった。
『あはは……っ』
『おいおい、笑いごとじゃねーって……』
遮るもののない空間に、
不意に、緊張感の欠片もない
呑気な笑い声が響いてきた。
「……ん?」
「……え?」
神崎と美咲が、同時に足を止める。
壊れた窓から差し込む、
一筋の清らかな光。
そのスポットライトのような輝きの中で、
服をボロボロにした光と蓮司が、
楽しそうに笑い合っていた。
そのあまりにも予想外で、
けれど温かい光景を前に、
駆けつけた二人は完全に言葉を失い、
呆然と顔を見合わせた。
「……嘘。
……笑ってる……?」
美咲が脱力したように呟く横で、
神崎は大剣の柄から手を離し、
額を押さえて深いため息をついた。
「……ったく、こいつら……」
だが、その口元はどこか優しく綻んでいた。
(……なぁ……
俺たちも、あんな風に笑ってたっけな)
胸の奥に去来する
切ない記憶を振り払うように、
神崎はゆっくりと窓を見上げる。
壊れた窓の向こうから、
柔らかな陽光が差し込んでいた。
一筋の清らかな光は、
戦いを生き抜いた二人の若き背中を、
どこまでも温かく照らし続けていた。




