第51話 光と影のプレリュード
一歩奥へ進むごとに、
工場の空気はねっとりと
肌にまとわりつくように重くなっていった。
ひび割れたコンクリートの床を
踏み締める光たちの足音だけが、
やけに大きく響く。
鉄骨の死角から聞こえる
『カチカチ』という不快な咀嚼音が、
背筋を凍らせた。
だが、その張り詰めた恐怖を
切り裂いたのは、
やはり蓮司の銀閃だった。
『ザンッ!』
暗闇から襲いかかってきた
ネズミ型の小型妖魔を、
蓮司は表情一つ変えずに
右手一本で片付けていく。
黒い粒子となって消えていく
妖魔を見下ろし、
退屈そうに呟いた。
「つまんねぇな……。
もっとデカいの出てこいよ」
その背中を見つめながら、
光は内心でホッと息をついていた。
普段はあんなに
チャラチャラして軽薄なのに、
戦っている姿は、
まるで別人のように洗練されている。
やっぱり、この人は本物のプロなんだ。
光たちは蓮司の圧倒的な武力のおかげで、
順調に突き進んでいった。
そうして辿り着いたのは、
工場の最奥――
広大な薄暗いホールに、
天窓からこぼれ落ちる
針のように細い陽光だけが、
打ち捨てられた巨獣のような廃機械たちを
不気味に浮かび上がらせていた。
陽光の届かない死角は
すべて底なしの闇となり、
光たちの五感を侵食していく。
「……一番反応が強いのはここですね」
佐藤が青白いタブレットの光に
顔を照らされながら、険しい顔で呟く。
「原因の調査に入ります。
申し訳ありませんが討伐課のお二方は、
周囲に潜む妖魔の警戒と
討伐をお願いできますか?」
「あいよ!」
蓮司は軽く首を鳴らすと、
いつもの不敵な笑みを浮かべて
光の頭をぽん、と叩いた。
「じゃあ、俺は先に奥に行って
ザックリ間引いてくるぜ。
光ちゃんは、ここで
調査課の人たちの護衛をよろしくね!」
「――えっ!?
あ、はいっ!」
突然任された「護衛」という大役に
心臓が跳ね上がる。
けれど、蓮司はすでに、
静まり返るホールの闇へと
躊躇なく歩みを進めていた。
蓮司がさらに部屋の奥へと足を進めた後、
光は部屋の中央で妖魔刀を構え、
周囲を警戒した。
後ろでは佐藤がタブレットを操作し、
鈴木と遥香がその画面を覗き込んでいる。
「うーん……おかしいですね……
反応が強すぎる。
何だこの反応は……?」
佐藤がそう呟いた、その瞬間だった。
『ドォンッ!!』
重い鉄の音が廃工場に響き渡り、
部屋の入り口にある
巨大な扉が乱暴に閉まった。
一瞬にして暗闇が深くなり、
ねっとりとした空気が部屋に淀む。
「光ちゃん! 罠だ!
Sクラス以上の妖魔が近くにいるぞ!」
奥から響いた蓮司の緊迫した叫びに、
光はハッとして周囲の妖気を感じ取った。
――濃密で、氷のように冷たい妖気が、
肌を刺すように迫ってくる。
じわりと頬を伝う冷や汗。
光は妖魔刀を握る手にぐっと力を込めた。
『パチパチ……パチ……』
静寂を切り裂き、
ゆっくりと拍手をするような音が
暗闇の奥から響く。
コンテナの物陰から、
一人の男が悠然と姿を現した。
暗闇の中で不気味に輝く銀灰色の長髪。
その鋭い目つきが、
光を射抜くように見つめている。
黒いコートを羽織ったその長身の男
――影目零次は、
優雅に唇を歪めた。
「なるほど……
妖気を放った瞬間に察知しますか。
失礼、名乗りがまだでしたね。
お初にお目にかかります。
私の名前は『影目 零次』……
以後お見知り置きを」
異様なほど落ち着いた、
上品な紳士を思わせる声。
けれどその声を聞いた瞬間、
光の心臓は『ドクン……ドクン……』と
激しく高鳴り始めた。
本能が、目の前の存在に恐怖している。
その時、蓮司が風のように
光の前に割り込み、双刀を構え直した。
「光、後ろに下がれ。
俺の援護はいい。
それより調査課の三人を護衛しろ」
蓮司には、
いつものチャラついた空気は微塵もない。
ピリピリと
肌を刺すような闘気を纏う背中に
光は息を呑む。
「――はい!」
光は素早く後退し、
怯える調査課の三人の前に立って
防壁となった。
蓮司は光たちが下がったのを確認しながら、
影目の顔を鋭く見据える。
「知ってるぜ……
お前の顔、影目零次。
――『龍』の側近だろ?」
「よくご存知ですね、
ミスター鳴海。
貴方とお会い出来るとは光栄です」
影目がニヤリと笑う。
背後でそれを聞いた光は、
思わず妖魔刀を握る手が震えた。
(龍……!
前に美咲先輩に教えてもらった、
最強の妖魔。
その、側近――!?)
影目はゆっくりと光に視線を移すと、
穏やかな声で続けた。
「……ですが、
今日は貴方に用事があって
来たのではありません」
冷徹な視線が、
光の瞳の奥をじっと捉える。
「私が用があるのは、ミス光――貴方です」
その圧倒的な威圧感に気圧され、
光の背中で何かが疼いた。
(……お母さん!)
本能的に翼を展開しようとした、その時。
「光! 翼は今使うな!」
蓮司の鋭い一喝が飛ぶ。
彼は影目の視線が、光の背中へと
向けられていることを見抜いていた。
「俺にもしもの時があったときだけ、
翼を使って三人を連れて逃げろ!」
「ミスター鳴海……
やはり貴方はやりづらいですね。
早くミス光の翼を
拝見したかったのですが……」
影目はフーッと小さくため息をつくと、
その背後から大鎌のような黒い妖肢を二本、
ゆっくりと展開させた。
「仕方ない……
貴方を先に始末しましょう」
蓮司は無言のまま、
ただ圧倒的な闘気を放って
双刀を構え直す。
空気そのものを重くねじ曲げるような、
影目の冷たい視線。
その場にいた全員が、本能的に理解していた。
——この妖魔は危険すぎると。




