第48話 深夜の約束
リビングに置かれた時計の針は、
深夜の一時を回ろうとしていた。
世界が完全に眠りについた深い静寂のなか、
美咲は薄暗いリビングのソファに
深く身体を預け、
ただ手元のグラスを静かに傾けていた。
ゆらゆらと、
波紋を立てて揺れる、
血のように深い赤ワイン。
その水面には、
彼女の行き場のない感情が
そのまま映り込んでいるようだった。
カーテンを開け放った
大きな窓の向こう側には、
南砂の夜景がぼんやりと広がっている。
遠くのビル群が放つ柔らかな光の粒が、
照明を完全に落とした部屋を
淡く、優しく照らし出している。
深く澄んだ夜空には、
星々が静かに瞬いていた。
それは、世界のすべてが
美咲一人を置いてきぼりにして、
ただ穏やかに息づいているかのような、
どこか哀しいほどに綺麗な景色だった。
昼間、病院で悠真にすべてを打ち明け、
ほんの少しだけ胸が軽くなったはずだった。
悠真の前で涙を流し、
私には私の戦い方があるのだと、
確かに一度はそう静かに
前を向けたはずだったのだ。
それでもーーー
自らの心の奥深くにまで
刺さってしまった棘は、
そう簡単には抜けてはくれなかった。
(……私は、
明日から、どんな顔をして
光の前に立てばいいんだろう……)
グラスのなかの揺れる赤を見つめながら、
美咲は心の中で、何度も何度も
自分自身に問いかける。
悠真のくれた
「光と比べる必要はない」という優しい言葉を、
心の底から信じたいと思っている。
光は今でも、自分にとって
世界で一番大切な後輩なのだ。
強くなってくれたのなら、
先輩として手放しで頭を撫でて、
笑顔でおめでとうと
祝福してあげるべきなのだ。
けれど、いざ明日、
あの子のあの純白に輝く眩しい翼を、
その圧倒的な力を目の当たりにしたときーー
私は本当に、
心からの歪みのない笑顔を
返せるだろうか。
そんな己の不甲斐なさへの焦燥が、
胸の奥をじりじりと灼き焦がしていく。
それに加えて、
いまだ手のひらに不快な重みを残し続ける、
あの特式妖魔刀の異常。
言うことを聞いてくれない武器への、
戦線から置いていかれるかもしれないという
恐怖。
(……最低だな、私は。
あの子は何も悪くないのに……)
悠真の優しさに一度救われたからこそ、
未だにその呪縛から
完全に抜け出せずにいる自分への、
新たな自己嫌悪。
そんな張り詰めた感情の重さに
耐えかねるように、
硝子のグラスを握りしめる
美咲の細い指先は、小刻みに、
哀しいほど震え続けていた。
その時だった。
ーーーカタ……。
冷え切った廊下の奥から、
静寂を優しく踏み鳴らす、
小さな足音が聞こえてきた。
美咲がハッとしてグラスを止め、
暗闇のなかで視線を巡らせる。
部屋着姿で、
まだ眠そうな目を
細い指先でこすりながら、
光がゆっくりとリビングに入ってきた。
「……美咲先輩?
まだ起きてたんですか……?」
薄暗がりのなかから降ってきた
その小さな声に、美咲は慌てて
心の中の葛藤を隠し、
いつもの優しい笑顔を作ろうとした。
けれど、強張った口元は
歪な形を作るだけで、
うまく微笑むことすらできなかった。
「大丈夫よ。
光こそ、身体はもう大丈夫?
もう夜中の1時よ。
こんな時間に起きてくるなんて、
あなたにしては珍しいじゃない?」
光は少しだけ躊躇うように
視線を泳がせた後、
おずおずとした足取りで
美咲の座るソファの隣へと歩み寄り、
そこにそっと、壊れ物を扱うように腰掛けた。
「……あの……
美咲先輩。
最近、討伐任務中に
美咲先輩が、
その、調子悪そうなの……。
私、すごく心配で……」
美咲はグラスのなかの赤を見つめ、
自嘲気味に自らの細い肩をすくめてみせた。
「……そうね。
ごめんね。
光にまで、そんな余計な
心配をさせちゃってるね。
明日からもっと、
しっかりしなきゃダメね……」
「いえ……そうじゃなくて……!」
光は小さく、
しかし明確に首を横に振った。
そして、自分の小さな膝の上で
拳を握りしめ、震える声を絞り出した。
「私は、美咲先輩に頼られたいんです。
今まで私は、
ずっと美咲先輩に甘えてばかりで……
守ってもらってばかりで……。
だから、美咲先輩の調子が元に戻るまで、
今度は私が、美咲先輩を
支えていきたいんです。
まだ……
私なんて全然、
何もできないんですけど……。
それでも、
美咲先輩の、力になりたい……!」
光の小さな掌が、
極限の緊張のせいで、
小刻みに震えていた。
美咲は驚いて、
隣に座る少女の貌を
まじまじと見つめた。
(……あの頃の、光……)
初めて会った頃は、
妖魔を見るだけで、
今にも泣きそうな顔をして
私の後ろに隠れていたのに。
あんなに震えていた子が、
本当は誰よりも怖いはずなのに、
それでも私のために、
私を支えようとしてくれている。
(……それなのに、
私は明日あの子の前に立つことすら
怯えていたなんて……)
この純粋な少女が向けてくれる、
真っ直ぐな想いの温かさに、
美咲の目が、じわりと
熱い涙で潤んでいった。
「……ありがとう……光……。
ありがとう……」
美咲の声は、もう完全に震えていた。
悠真以外には絶対に言えなかった、
自らの内側に抱える『恐怖』と『真実』が、
堰を切ったように
彼女の唇から溢れ出していく。
「最近ね……
妖魔刀が、凄く重いの。
私の言うことを、
何も聞いてくれないの……」
美咲は一瞬だけ沈黙し、
自身の震える指先を見つめた。
「……怖いのよ。
きっと私……
あの日の廃倉庫で
薄刃と戦った後から、
妖魔が、戦うことが
怖くなっちゃったんだと思う。
……情けないよね、先輩のくせに……。
こんな状態で、
明日からどうやって
あなたを引っ張っていけばいいのか、
本当に分からなくなっちゃって……」
本当のことだけは、言えなかった。
自分が光の翼に嫉妬しているなど、
この子にだけは、
絶対に知られたくなかった。
それを知れば、
光はきっと、自分の翼を広げることさえ
申し訳なく思ってしまうから。
その震える肩を見て、
光は静かに距離を詰め、
その華奢な身体を、
両手で優しく包み込むように抱きしめた。
「あのとき……
美咲先輩が
身を挺して戦ってくれなければ、
私は助かりませんでした。
今はまだ、私なんて
難しいことは何もできませんけど……
私は、大好きな人を
守れる存在になりたいです。
美咲先輩と一緒に、
強くなりたいです」
耳元で響く、光の温かい呼吸。
美咲はその純粋な光に
導かれるようにして、
光の小さな背中に細い腕を回し、
壊れそうなほど強く強く抱きしめ返した。
大粒の涙が、光の部屋着の肩へと
静かに落ちて、黒い染みを作っていく。
「……そうだね……。
一緒に、強くなろうね、光……!」
「はい……」
光は美咲の胸のなかで、
優しく首を縦に振った。
肩から伝わってくる、
美咲先輩の涙の圧倒的な温かさ。
それが、光の衣服を通り抜け、
胸の奥深くにまでじわじわと、
静かに染み込んでいくのを確かに感じていた。
(……美咲先輩も……
怖いことがあるんだ……。
私と同じように、泣くんだな……)
(それでも……
ずっと私の前では、
そんな弱さを一ミリも見せないで、
お姉ちゃんみたいに、
ずっと笑っていてくれてたんだ……)
光の胸の奥で、
美咲への愛おしさと、
本当の意味での『守りたい』という覚悟が、
静かに、けれど何よりも
強固にカタチ作られていく。
リビングの入り口の薄暗闇のなか。
そこで、彩花がそっと息を潜め、
二人の温かい抱擁の様子を
静かに見守っていた。
見えない世界の戦いは分からない。
それでも、親友たちが
こうして心を寄せ合い、
新しい一歩を踏み出そうとしている。
彩花は二人の絆の在り方に
静かに微笑みを浮かべると、
二人の静かな時間を
邪魔しないように、
誰にも気づかれない足取りで、
そっと寝室のベッドへと戻っていった。
開け放たれた大きな窓の外では、
南砂の夜景が、ただ変わらぬ優しさで
静かに輝き続けていた。
遠くのビル群が放つ無数の灯りと、
深く澄んだ夜空の星々が、
まるで世界を祝福するように
優しく瞬く、その下ーーー。
一羽の真っ白な鳥が、
静かな夜空の境界線を、
ゆっくりと、音もなく
横切って飛び去っていった。
光を吸い込むようにして、
白い鳥が向かった先。
どこまでも深く、
昏い夜の深淵に満ちた、
とある廃ビルの屋上。
錆びついたフェンスに
その細い身体を預け、
冷え切った天蓋に浮かぶ蒼い月を、
ただ一人で眺めている男がいた。
影目は、月明かりを
その双眸に受け止めながら、
ただ世界の秒針の音を聞いている。
その、静まり返った虚空を
切り裂くようにして、
一羽の真っ白な鳥が、
月の輪郭を横切って飛び去っていった。
それはまるで、夜の均衡に
一本のひび割れを入れるかのような、
あまりにも鮮やかな一線の軌跡。
影目はその去りゆく白の残光を、
硝子のような瞳でじっと見つめたまま、
コートの懐へと
そっと、愛おしそうに手を伸ばした。
指先が、闇のなかで何かの輪郭に触れる。
影目は、夜風に消えていく鳥の背中に
優しく語りかけるように、
底の見えない深淵の声で、
ぽつりと、静かに言葉を呟いた。
「ミス希……。
貴女に、あの約束をお返しする日が、
いよいよ近づいて来たのかもしれませんね……」
男の不敵な呟きを置き去りにして、
一陣の冷たい夜風が吹き抜けていく。
白い鳥は、夜の彼方へと消えていった。




