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白翼の光  作者: 月凪
第三巻 宿命は光と影になって

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第44話 それぞれの明日へ


ーーー深川中央病院。


窓から差し込む

午後の柔らかな光の中で、

初夏の風に揺れる木々の青葉が、

白く無機質な病室の壁に

優しい影絵を静かに描いていた。


耳を澄ませば、

外の世界を流れる穏やかな日常の音が、

まるで遠い異郷の出来事のように

かすかに聞こえてくる。


薄刃とのあの悍ましい死闘の後、

検査のために丸一日だけ入院していた光は、

ベッドの上で静かに退院の準備を進めていた。


自分の身体の中に眠る、

あの巨大な異形の翼の感覚。


その戸惑いを

胸の奥にしまい込むようにして、

衣服を整えていく。


ーーーコツ……、コツ……。


不意に、静まり返った廊下から、

女性がハイヒールで

コンクリートを踏み鳴らす

規則正しい足音が近づいてきた。


迷いのない、

冷徹なまでに正確な足音。


それが病室の前で止まったかと思った瞬間、

ノックの合図すらなく、

扉がカラカラと無造作に開け放たれた。


光は手を止め、

驚いてその双眸を丸くした。


そこに立っていたのは、

光がこれまでの人生で一度も見たことのない、

左袖を不自然に遊ばせた隻腕の女性だった。


黒髪のシャープに切り揃えられた

ショートヘア。


どこか他者を寄せ付けない

知性を感じさせる、切れ長の冷たい三白眼。


抜群のスタイルを包む

黒のタイトなパンツスーツ。


その胸元には、

傾きかけた陽光を浴びて、

討魔局の厳格なエンブレムが

静かに鈍い銀光を放っていた。


「……どなたですか……?」


光の小さな問いかけに、

女性は表情の筋肉を一つも動かさず、

ただ深海のように静かな声で答えた。


「篠宮(しのみや) 冬華(ふゆか)」


光は一瞬、その圧倒的なプレッシャーに

息を呑み、言葉を詰まらせた。


「え……?」


冬華は部屋に入ろうともせず、

ただ敷居の境界線の上に佇んだまま、

淡々とした声音で言葉を重ねた。


「神崎の同期だ」


数秒の、

ひどく張り詰めた沈黙が病室に落ちた。


窓から差し込む西日が、

二人の輪郭を鮮明に切り取っていく。


冬華は光の幼い顔を真っ直ぐに、

その瞳の奥の魂まで見透かすように見つめ、

短く、明確な意志を込めて言い放った。


「……死ぬなよ」


それだけだった。


用件はすべて済んだとばかりに、

彼女はすぐに背を向けた。


ーーーガチャ。


無機質な音を立てて、

再び扉が閉まる。


廊下を遠ざかっていく、

あの硬質なハイヒールの足音。


光は誰もいなくなった病室の真ん中で、

ぽつんと立ち尽くして、

その閉じられた扉を見つめた。


彼女は自分の胸元にそっと手を当て、

ようやく、小さく音にならない声を呟いた。


「……えっ……?」


ドクン、と。


彼女の心臓が、静かに、優しく跳ねた。


(……一度も会ったことのない、

知らない人なのに……)


(どうしてあんなにも、

すべてを慈しむような、

哀しい目をしていただろう……)


あの大人の女性の、

ぶっきらぼうな言葉の裏に隠された、

祈るような温もり。


光はその余韻を噛み締めるように、

再び窓の外の、青々と茂る木々へと

視線を巡らせた。



夕陽に染まるオレンジ色の空が、

街路樹の影を長く、

そして優しく街へと伸ばしていた。


昼と夜の境界線が曖昧になるその時間、

美咲の足は、吸い込まれるようにして

病院へと向かっていた。


その手には、小さな白い花束が

大切そうに握られている。


静かに病室の扉を開けると、

ベッドの上でただじっと

夕陽を眺めていた悠真が、

こちらを振り返り、静かに微笑みかけた。


「美咲……


怪我はもう大丈夫なのか?」


美咲は悠真のベッドへと

ゆっくり近づきながら、

自らの痛みを隠すように

小さく笑って答えた。


「うん。


私はもう大丈夫。


悠真こそ……


まだ傷口が傷むでしょ? 


無理をしないで、ゆっくり休んで」


悠真は、どこかほっとしたような目で

美咲を見つめた。


「俺は大丈夫だ。


……任務に戻るまでは、

少しかかるかもしれないけどな」


美咲は手元に持っていたバッグから、

小ぶりな硝子の花瓶を取り出し、

洗面所で静かに水を満たした。


コポコポと響く水の音が、

夕暮れの静寂に心地よく溶けていく。


「無理……しないでね」


水を満たした花瓶を

ベッドサイドの台へと置き、

美咲は花束の茎を丁寧に整えていく。


悠真は、斜めから差し込む夕日に照らされた

美咲の横顔を、ただ静かに見つめていた。


「ありがとう。


……その花、綺麗だな」


美咲はどこか遠い記憶を

愛おしむように目を細め、

花瓶に花束を一本ずつ、

丁寧に生けていった。


「この白い花……


アストランティアって言うの。


昔、私の父が……

大好きだった花なの」


輝く星のような、繊細な白。


その花びらが、

西日に透けて儚く揺れていた。


ーーートントン。


不意に、遠慮がちなノックの音が

静寂を叩いた。


病室の扉がカラカラと、

躊躇いがちにゆっくりと開く。


そのわずかな隙間から、

心配そうな、どこか迷子のような表情で

光がひょこっと顔を出した。


「……あの……


入っても、いいですか?」


美咲の顔が、

一瞬で柔らかな表情へと戻る。


「ええ、勿論! 


こっちに来て」


光は申し訳なさそうな表情を浮かべたまま、

すり足でドアの隙間から部屋へと入ってきた。


その手には、

洋菓子店のものとおぼしき

小さな白い紙箱が、

大事そうに抱えられている。


「美咲先輩、

お疲れさまです。


……悠真さん」


光はベッドの横で立ち止まり、

深く頭を下げた。


「私のせいで、

こんな大きな怪我までさせてしまって

……本当に、すみませんでした」


悠真は光の小さな頭頂部を見つめ、

その口元を優しく緩めた。


「俺のことは気にするな。


お前のせいじゃない、

ただの俺の油断だ。


それより光……


お前が無事で良かった」


悠真のその言葉を聞いた瞬間、

光の表情に、張り詰めていた霧が晴れるように

明るい笑顔が戻ってきた。


「はい! 


悠真さんと、美咲先輩のおかげです。


本当に……

ありがとうございました。


……これ、プリンなんですけど、

3人分買ってきたんです。


良かったら、一緒に食べませんか?」


光が嬉しそうに差し出した箱を見て、

美咲の目が少しだけ厳しく、

大人の色を帯びた。


「ありがとう、光。


……だけど、これって一人で外出したの? 


いまのあなたはまだ危険なんだから、

私か誰かが一緒じゃなきゃ

ダメって言ったでしょ?」


光は「あっ……」という表情をして、

慌てて両手で自分の口元を覆った。


「そうでした……ごめんなさい。


悠真さんに、どうしても

このプリンを食べて欲しくて……


つい……」


美咲はため息を一つついて、

少しだけ声のトーンを落としたが、

すぐにその厳しさを包み隠すような、

柔らかい声音へと戻した。


「もう……


次からは本当に気をつけてね? 


基本的に一人では外出しないこと。

どうしても必要な時は、必ず私に連絡して。


約束よ?」


悠真はそのやり取りを傍らで見守りながら、

フッと低く笑みを漏らした。


「まるで、過保護な姉のようだな」


美咲は少しだけ困ったように頬を膨らませ、

悠真を軽く睨み返した。


「もう……


笑いごとじゃないのよ?」


張り詰めていた戦場の空気は

もうどこにもなく、

3人は光が買ってきてくれたプリンを

並んで食べ始めた。


身体の自由が利きにくい悠真のために、

美咲が小さめのスプーンでプリンを掬い、

そっと彼の口元へと運んで食べさせている。


病室の大きな窓から、

オレンジ色に差し込む、

一日を惜しむような夕陽。


それに優しく照らされながら、

互いの無事を喜び合う二人の姿を見て、

光の胸の奥が、じんわりと、

言葉にならない温かさで満たされていった。


(いつか……)


光の小さな掌に、

ぎゅっと力がこもる。


(いつか、この大好きな二人を、

私の力で守れるほどに強くなりたい)


(いまはまだ、

無理かもしれないけれど……


いつか、必ず)


それは、自身の背中に宿る

あの異形に怯えるのではなく、

誰かを愛するために力を使いたいという、

小さな、しかし確固たる

『願い』の芽生えだった。


ふと、光が病室の窓から

外の景色へと視線を巡らせると、

夕焼けに燃えるグラデーションの空を、

真っ白な一羽の鳥が、

まるで彼女の決意を祝福し、

励ますように、大きく円を描いて

悠々と飛び去っていった。


空の境界線が

鮮やかなオレンジ色から、

静寂を孕んだ深い藍色へと

その色彩を変える頃、

光は美咲に付き添われるようにして、

住み慣れたマンションの部屋へと戻ってきた。


玄関の重い扉を開け、

光が「ただいまー!」と小さな声を響かせる。


その声を待ち侘びていたかのように、

奥の部屋から「おかえり! 光! 

本当に心配したんだよ……!」と、

彩花が勢いよく飛び出してきた。


彩花は光が無事であるのを確かめると、

その細い身体を壊れ物を扱うように、

けれど力一杯にぎゅっと抱きしめた。


その親友の温もりに、

光の強張っていた心が

ゆっくりと融けていく。


「心配かけてごめんね……あやか。


でも、もう大丈夫だよ」


夕食のテーブルには、

彩花が光の帰りを願って作った、

湯気の立ち上る特製の温かい手料理が

綺麗に並べられていた。


光がそれを一口、

愛おしそうに口へと運ぶと、

張り詰めていた肩の力が、

すとんと自然に抜けていくのが分かった。


「……美味しい……。


なんだか、

本当に帰ってこられたんだなって、

実感がします……」


日常という名の、一番温かい居場所。


光はそっと自らの左の背中――


あの禍々しくも美しい異形が眠る場所に、

小さな手を当てて静かに目を閉じた。


(ありがとう……お母さん)


淡い白い光の粒子が、窓から差し込む

優しい月明かりに溶けるようにして、

さらさらと静かに揺れていた。


それはもう世界を拒絶する怒りではなく、

ただ愛する者を守るための、

穏やかな祈りの光。


ふと目を開けて

窓の向こう側に視線を巡らせると、

そこには雲ひとつない澄み切った夜空と、

まるで星屑を散りばめたようにきらめく、

ビル群の夜景が果てしなく広がっていた。


しんと静まり返ったリビングの静寂を、

ふっと優しく笑い飛ばすように、

どこか気まぐれな夜風が

窓の隙間から滑り込み、

薄手のカーテンを柔らかく揺らした。


冷たかったはずの夜の底で、

不思議と、軽やかで優しい予感が、

光の胸を小さく、トントンと叩いていた。


張り詰めていた運命の秒針が、

いま、心地よい不協和音を奏でながら、

新たな未来へと向かって

静かに回り出そうとしている。


どこまでも澄み切った

深い夜の闇だけが、

静かに、温かく見つめ続けていた。


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