第40話 紫の夢
ーーー夢の中。
そこは、世界の終わりのように
無限に広がる、紫色の世界だった。
すべてが、煮えたぎるような
怒りの残滓で出来ている。
濃い紫の光が満ちた空間そのものが、
まるで一つの生き物のように、
ドク、ドク、と激しく脈動していた。
空気はひどく重い。
どこか懐かしい、
甘い花の香りと、
胸を突くような誰かの激情。
それらが不気味に混ざり合い、
静謐な境界線の向こう側で、
不穏な違和感を漂わせている。
その紫の底で、
幼い光が、
ゆっくりと目を覚ました。
「お母さん……?」
小さな声を絞り出す。
その視線の先。
希は娘に背を向けたまま、
荒い息を吐いていた。
ーーーフーッ……フーッ……!
肩が激しく上下している。
剥き出しの感情の代わりに、
紫黒の妖気がその全身から、
噴き上がるように漏れ出ていた。
喉の奥から漏れるのは、
獣のような低い唸り声。
それは人間であることを
やめてしまいそうなほどに、深く、昏い。
光は心配そうに小さな眉をひそめ、
母の背中を見上げた。
「お母さん……どうしたの?」
希は振り向きもせず、
ただ牙を剥くように、
世界のすべてを呪う声を吐き出した。
「よくも……よくも光を……!
薄刃……あの男……!
絶対に……許さない……殺してやる……!!」
その言葉に呼応するように、
世界が激しく震えた。
紫の光が明滅し、
空間全体が
彼女の怒りに染まって荒れ狂う。
このまま全てを
噛み砕いてしまいそうなほどの暴風。
紫の世界が、
ガラガラと音を立てて崩れ始めた。
空が裂ける。
大地が砕ける。
怒りだけが、
世界そのものを書き換えていく。
幼い光は、
吹き飛ばされそうになりながら、
それでも必死に母へ手を伸ばした。
「お母さん!」
裸足のまま
崩れゆく床を駆け抜けて、
光は母の背中にそっと抱きついた。
「落ち着いて……!
お母さん……
いつものお母さんじゃないみたい……
怖いよ……」
希は拳を血が滲むほど強く握りしめ、
その声を震わせた。
「光を…………
傷つけた……!
許せない……絶対に……!」
希の声は、
世界を焼き尽くすほどの
怒りに震えていた。
ーーーだが、その奥。
光がぎゅっと触れた背中からは、
今にもパリンと壊れてしまいそうな、
ひどく幼い怯えが滲んでいた。
それは、大切なものを
奪われることを恐れる、
迷子の子供のような震え。
光は、母の細い腰を
さらにぎゅっと抱きしめた。
小さな掌に、
ありったけの力をこめる。
ここにいるよ、と伝えるように。
「……お母さん……」
その温もりが伝わったのか、
希の荒い呼吸が、少しずつ凪いでいく。
遠くで狂ったように
脈打っていた紫の鼓動が、
ゆっくりと、
その速度を落とし始めた。
光は母の背中に、
そっと冷たい頬を寄せた。
「お母さん……そんな顔しないで……」
希の肩が、わずかに震えた。
「怒らないで……」
希は答えない。
紫黒の妖気だけが、
なおも未練がましく、
足元で荒々しく脈打っている。
「私……お母さんが怒ってると……悲しい……」
それは、
嵐にかき消されてしまいそうなほど、
小さな声だった。
けれど、
その純粋な言葉だけは、
遮るもののない紫の世界の隅々まで、
静かに、優しく響き渡っていった。
希の肩が、ぴくりと跳ねる。
「……笑ってるお母さんが好き……」
長い、長い沈黙が流れた。
二人の影だけが、
境界線の上にぽつんと取り残されている。
やがてーーー。
希の肩から、
ゆっくりと、
張り詰めていた力が抜けていった。
荒れ狂っていた紫の光が、
自らの重みに耐えかねた涙のように、
さらさらと静かに崩れていく。
濃く禍々しかった紫は、
まるで春の夕暮れが訪れたかのように、
淡く、穏やかな
ラベンダー色へと、
優しくその表情を移り変えていった。
刃のようだった妖気は、
いつしか柔らかい光の粒子となり、
静かな雪のように空間を舞い始める。
希は、ゆっくりと振り返った。
その瞳には、もう怪物の影はない。
ただ一人の母親の目をしていた。
希は光の小さな身体を、
壊れてしまわないように、
息を潜めるほど優しく抱きしめた。
「……光……ごめんね……」
耳元で、母の優しい声が鼓膜を震わせる。
「お母さん……
怖かったんだ……
また、光を失うかと思って……」
失うくらいなら、
世界を壊してしまいたかった。
そんな不器用な愛の形。
光は母の温かい胸に顔を埋め、
すべてを包み込むように、
穏やかに微笑んだ。
「うん……大丈夫だよ。
お母さん……大好きだよ。
いつも守ってくれて、ありがとう……」
紫の世界にはもう、
誰も拒絶するような
怒りの鼓動はなかった。
ただ、
どこまでも温かく、
柔らかな黄昏の光だけが、
母と娘の小さな輪郭を、
静かに包み込んでいた。
ゆっくりと、ゆっくりと
融けていく紫の世界。
母と娘だけの、
誰にも壊せない温もりを、
静かに見守り続けていた。




