第39話 母なる怒り
黄線で切り取られた境界――
規制線の張られた入り口。
ひび割れたアスファルトを食い破るように、
行き場をなくした雑草が
異常なほど生い茂っている。
昼と夜の狭間、
世界が血の色の残光に染まる逢魔が時。
その死地と化した奥に、
それは鎮座していた。
すでに大半の陽の光を拒絶し、
影の中に沈みかけている赤黒い錆。
まるで誰かの死体を閉じ込めた、
巨大な棺を思わせるような廃倉庫。
吹き付ける突風が、
建物の軋みとなって鼓膜を叩く。
ギィィ……ギシ、ギシ……。
その音はまるで、
誰かの呻き声のように聞こえた。
その時、閉塞された空間が内側から爆ぜる。
大気を引き裂く暴風の咆哮が、
突如として轟いた。
直後、割れた窓の隙間から、
夕闇を汚染するような紫色の光が溢れ出す。
――建物の最深部。
そこはすでに、
日常の理が崩壊した空間だった。
白と青、そして赤。
原色の絵の具を狂気的に混ぜ合わせ、
ひしめき合わせた結果生まれた、
美しくも禍々しい異形の翼。
それは生物の臓物のように、
悍ましく脈動している。
翼が呼吸を繰り返すたび、
紫色の粒子が、
胞子のように撒き散らされた。
ねじ曲がる空間。
闇に溶けゆく壁を侵食していく、
無数の深い亀裂。
それは天使の翼などという
優しいものではなかった。
世界そのものを圧殺せんとする、
純粋で、狂った神罰のような怒り。
美咲は、その圧倒的な終末の光景に、
瞬きをすることさえ奪われていた。
肺に冷たい空気が張り付く。
「……うそ……光……?」
漏れ出た声は、
夜の帳が下りる寸前の狂った大気に、
あまりにも無力に溶けて消えた。
優しさも、純粋さも、
全てをねじ曲げて暴走させた――
忌まわしくも美しい災厄そのものだった。
薄刃が驚愕と興奮の入り混じった表情を
浮かべたその瞬間――
――ギィ、ギギギギギィィィィンッ!!!
空間を、そして金属を引き裂くような
不快極まりない不協和音が響き渡る。
それは、剥き出しの「怒りの声」
そのものだった。
明確な殺意を持った狂った轟音が、
鼓膜を容赦なく劈く。
脳を直接支配するような
その怒声を撒き散らしながら、
それは禍々しい紫色の残光だけを
網膜に焼き付け、一瞬で加速した。
薄刃の視界には映っていたが
それに反応する余地すら無かった。
――次の瞬間。
世界が割れるような音が、
廃倉庫の肺胞を満たした。
薄刃の腹部から、
肉を裂き、骨を砕いて、
禍々しい紫色の翼が突き出していた。
――ズドォォォォン!!!!
遅れてやってきた凄まじい衝撃波が、
倉庫全体を揺るがす。
コンクリートの壁に
放射状の巨大な亀裂が走り、
天井から塵埃が雨のように降り注ぐ。
爆散する紫の粒子は、
まるで意思を持つ炎のように、
薄刃の肉体を内側から
無慈悲に灼き焦がしていった。
引き裂かれた傷口から、
生命の残滓――
黒い粒子が
噴き上がるように溢れ出す。
「……ぐああああああっ!?」
悲鳴が空間を殴る。
それでも黒い粒子は
なおも腹部から溢れ続け、
夕闇の闇へと融けるように、
ただ静かに消えていく。
薄刃は、自らの五体を貫く紫の翼を、
信じられないものを見る目で
ゆっくりと見上げた。
「……違う……」
長い、酷く無機質な沈黙が落ちた。
シュゥゥウと、粒子が舞う音だけが、
世界の秒針となる。
「……希だけの力じゃない……」
薄刃は自分の腹部を深く、
容赦なく貫く巨大な異形を見つめ、
その双眸を限界まで見開いた。
「ぐ……はっ……!?」
口腔から、大量の黒い粒子が溢れ出す。
薄刃は重力に抗えず膝をつきながらも、
その視線だけは、自らを貫く翼を
凝視し続けていた。
「……これは……何だ……!?
希の力だけじゃない……
こんな……化け物が……!」
一方、壁に辛うじて寄りかかっていた美咲は、
その圧倒的な光景に、
震える声を漏らすことしかできなかった。
「光……!?
あの翼……光の翼なの……!?」
その問いに応えるように、
その翼は、ゆっくりと
薄刃の腹部から引き抜かれた。
次の瞬間、光の左肩甲骨から生えた
淡い紫の翼が、さらに巨大化し始めた。
――ズズズン……!!
翼は生き物のよう激しく脈動しながら、
急激にその領土を広げていく。
荒れ狂ったように
暴走する巨大な翼は
天井を容易く突き破り、
壁の亀裂をさらに深く、
修復不可能なまでに走らせる。
廃倉庫全体が、
激しい地震のように震えていた。
薄刃がこれまで張り巡らせていた
『檻』の構造が、次々と引き裂かれていく。
空気が歪み、
黒い粒子が嵐のように舞い散る。
それは周囲の「空間そのもの」を
強引にねじ曲げていく、
圧倒的な拒絶の証明だった。
光の華奢な肉体は、
自らの翼に引っ張られるようにして、
ふわりと虚空へ浮遊した。
意識を失ったまま。
彼女は穏やかに首を傾け、
長い髪が風もないのに静かに揺れている。
その表情は、これから始まる
破壊の嵐とは無縁であるかのように、
ただ深い眠りについているかのように、
どこまでも穏やかで、美しかった。
薄刃は口から黒い粒子を吐き散らしながら、
声が震えるほどに動揺していた。
「……馬鹿な……
俺の『檻』が……こんな簡単に……」
初めてだった。
薄刃恒一という男が、
己の理解を完全に超えた
『異常』を前にしたのは。
薄刃は砕けんばかりに歯を食いしばり、
残された妖肢のすべてを、
鋭利な針の形状へと変化させた。
その切っ先は、
絶対の殺意となって一斉に固定される。
「ならば……本体を狙う!」
――ッ!
無数の針状の妖肢が、
虚空に浮かぶ光の心臓目掛け、
一斉に突き出された。
しかしーー。
紫の翼が、閃光のような速度で動いた。
光の身体を庇うように、
空間を円形に回転する。
先刻まで荒れ狂っていた凶暴な翼は、
いまや主を慈しむように、
その身を内側へと翻していた。
外界のすべてを拒絶するように、
幾重にも折り重なる。
その小さく、壊れそうな身体を優しく、
そして頑なに包み隠した。
――バチバチッ!!
翼の表面から、
激しい妖気が火花となって弾け飛ぶ。
触れるもの、近づくもの、
そのすべてを塵に帰すような、
絶対的な威圧感が倉庫を満たした。
「くっ……!」
まるで、光を愛おしそうに
抱きかかえるように。
大切に包み込んだまま、
その紫の翼は、猛スピードで
薄刃に向かって突進した。
――ドゴォォッ!!!!
激しい衝撃音。
薄刃の身体は紙切れのように吹き飛ばされ、
背後のコンクリート壁へと
派手に叩きつけられた。
鈍く響く、アバラ骨が折れる音。
肺の空気をすべて
毟り取られるような激痛に、
薄刃の貌が醜く歪んだ。
「が……はっ……!」
薄刃は黒い粒子を吐きながらも、
這うようにして、
執念だけでその身体を起こした。
だが、その眼前に広がっていたのは、
絶望の景色。
バチバチと淡い紫の妖気を弾けさせながら、
明確な殺意を以て威嚇する、巨大な紫の翼。
その中心。
繭のような翼に抱きしめられるようにして、
光はただ、静かに眠り続けていた。
その時ーー。
鉄錆の匂いが充満する倉庫の入り口が、
暴力的な勢いで開き、
神崎が息を切らして駆け込んできた。
地を這うような疾走の果て。
神崎は眼前に広がる光景を
その網膜に焼き付けた瞬間、
完全に言葉を失った。
「……何だ、これは……!?
光……!?」
紫の翼は、なおも世界のすべてを
拒絶するように暴れ続けている。
その禍々しくも美しい異形を見つめたまま、
神崎の瞳が、激しく揺れた。
白でもない。
青でもない。
だがーー
その、魂の奥底を冷たく灼くような
妖気の揺らぎだけは、
忘れることなどできる筈がなかった。
「あ……」
神崎の喉が、小さく震える。
「……希……?」
暴走した翼の圧力に抗いながら、
無謀にも近寄ろうとする神崎を、
壁際の美咲が必死の声で引き止めた。
「班長! 危険です! 離れてください!」
だが、神崎の鼓膜には
美咲の呼び声すら届いていなかった。
彼の世界は、
すでに数年前の「あの日」へと
引き戻されている。
「やめろ!……希ッ!!」
神崎の叫びが、倉庫の壁を震わせる。
「……光が……壊れちまう!」
美咲はなおも、
自らの身体の痛みを無視して叫んだ。
「班長!!」
嵐のように紫色の粒子が吹き荒れ、
視界を塞ぐ。
その暴力的な奔流の中で、
神崎は美咲が無事であることを確認すると、
ゆっくりと顔を上げた。
神崎の視界が、
床に横たわる薄刃の姿を捉えた。
その瞬間。
神崎の双眸から、ふっと光が消えた。
数秒。
誰も息をしない、
完全な空白の時間が落ちる。
神崎は何も言わなかった。
眼前で狂い咲く、紫の翼。
その中心で、
人形のように気絶している光。
そして――
ビルの床一面に広がる、
どす黒い血だまり。
その凄惨な赤が、
一瞬、神崎の脳裏に
残像となって過る。
そして、
そのすべての先に、
薄刃がいた。
神崎は、その大剣――
妖魔刀の柄へと手を伸ばし、
ゆっくりと引き抜いた。
――ギィィ……
限界まで負荷のかかった柄が、
まるで悲鳴を上げるように軋む。
「光……」
その音は、静かに、
しかし確実に目の前の妖魔を
終わらせるための合図だった。
「今度は……光に……何しやがった……」
声音は、底の抜けた深淵のように低く、
冷たかった。
引き抜かれた刃の周囲に、
死を告げる赤い粒子が、
静かに、しかし悍ましい密度で集まっていく。
薄刃が初めて、
神崎から視線を逸らした。
常に他者を嘲笑っていたその顔から、
余裕の笑みが、完全に消え失せていた。
神崎が、一歩を踏み出す。
――ギシ……
重すぎる質量に耐えかねて、
コンクリートの床が微かに軋んだ。




