第4話 母の名残り
「……忘れちゃったのか……?
……希……?」
狂おしい響きを孕んだ声とともに、
男はそっと光に向かって手を伸ばす。
「……え?」
光のすべてを汚そうと伸ばされたその掌。
触れそうになった刹那、
光の肌を刺したのは、
ゾッとするほどの絶対的な空虚だった。
――驚くほど冷たくて、驚くほど空っぽな……
そんな気がした。
(この人……
私とお母さんを、
重ねているの……?)
その瞬間。
まるで、その伸ばされた手を
拒絶するように、威嚇するように、
背中の翼が大きく広がった。
純白の奔流が部屋中を
荒々しく包み込み、
凄まじい風圧となって
光の身体を後方へと強く押しやる。
ドスン、と激しい音を立てて、
光は壁に背中を叩きつけられた。
「いたっ……!」
幻想的な白い粒子が
雪のように舞い続ける中、
男の笑みが、さらに深く、
禍々しく歪んでいく。
「希……ずっと待ってたんだよ。
あのときの続きをしよう……」
男は蛇のように舌なめずりしながら、
低くねっとりとした呪いのように囁いた。
「……お願い……やめて……」
恐怖が光の心を縛ると同時に、
背中の翼の輝きが急速に弱まり、
小さく縮み始めた。
まだ起きたばかりの翼は、
まるで眠り足りないと言っているように
白い粒子を零しながら
静かに小さく萎んでいく。
その時、遠くから
闇を切り裂くサイレンの音が近づいてきた。
男はチッと舌打ちし、
薄い笑みを浮かべながら、
一歩、影の奥へと退いた。
「……ふふっ……
また明日ね、光ちゃん。
今度はその可愛い翼を、
根元から食べてあげるから……」
ふと、男は笑みを止め、鼻を微かに蠢かせた。
「……それにしても……
その匂い……懐かしいなぁ……」
電車の男はそう言い残し、
破れた窓を潜り抜け
部屋のベランダから飛び降り
夜の闇に溶けるように、去っていった。
まるで最初から
存在しなかったかのように。
翼は、白い鳥が巣へ帰るように、
光の左背中へ静かに吸い込まれていった。
その瞬間――。
部屋の中に、
耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
室内はただの暗い、損壊した箱へと戻る。
破れた窓から冷たい夜風が吹き込み、
雨上がりの湿った空気が流れ込んでくる。
遠くの街灯がぼんやりと部屋を照らし、
床に散らばったガラスの破片が、
冷たくチカチカと弱く光を反射していた。
光は床に膝をついた。
『ドクン……ドクン……』
息がやけに荒い。
左の肩甲骨の奥が、
火傷の後遺症のように熱く疼いていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……。」
(……何だったの……あれ……。
翼……?
私に……こんなものが……)
残ったわずかな純白の粒子が、
夜風に乗って窓の外へと流れ出していく。
その直後――。
インターホンが、
心臓を直接叩かれるような
激しさで鳴り響いた。
「大丈夫ですか!?
物音が凄くて……
警察呼びましたよ!」
廊下から響く、近所の住人の心配そうな声。
遠くからは、
パトカーのサイレンが
急速に近づいてくるのが分かった。
光は床に膝をついたまま、息が止まった。
指先が冷たく痺れ、
視界の端が白く霞んでいく。
頭の中で、
防衛本能の警報が鳴り続けている。
部屋の惨状、
割れた窓、散らばるガラス……
(どう説明すればいいの?
翼のことなんて、
誰が信じてくれるの……?)
震える手が無意識に
スマートフォンを握りしめ、
唯一の救いである『美咲』の名前を
タップしていた。
「……美咲先輩……ごめんなさい……!
今……家に電車の男が来て……
窓が割られて……触手で襲われて……
私、翼が出て……
どうしたらいいかわからなくて……!」
『光!? 大丈夫!?
今すぐ行くわ!
絶対に動かないで!』
スピーカーから響く美咲の鋭い声。
光はスマホを握りしめたまま、
糸が切れたように床に崩れ落ちた。
部屋にはまだ、
あの男の甘ったるく
腐った香水の残り香が漂っていた。
夜風にカーテンが大きく揺れるたび、
床に散らばるガラスの破片が
月明かりにチカチカと反射し、
グチャグチャになった部屋を
不気味に照らし出す。
ふと見ると、
倒れた本棚の近く――
割れた硝子の隙間で、
写真立ての中の母、
『美雲 希』が、いつもと変わらず、
優しい微笑みを浮かべていた。
光は床に崩れ落ちたまま、
小刻みに震え続けた。
頬には涙の跡が白く乾き、
まるで世界が自分を
置き去りにしたかのように、
静寂の中、時間だけが過ぎていった。
ふいに――。
インターホンが再び激しく鳴り響き、
重いドアを叩く音がした。
「光! 私よ! 開けて!」
美咲の、凛とした声。
光はハッと我に返った。
震える足になんとか力を込め、
玄関まで歩いて鍵を開ける。
ドアが開いた瞬間、
美咲は部屋の惨状に目を見開いた。
割れた窓、
飛び散ったガラス、
倒れた家具――
そして、今にも消えてしまいそうな
放心状態の光。
「光……!」
美咲はすぐに光を
その細い両腕で抱き寄せた。
きつく、強く、
壊れ物を保護するように力を込める。
「大丈夫……もう大丈夫よ。
私がここにいるから……」
美咲の体温と、
嗅ぎ慣れたシトラスの香りが、
光の鼻腔を満たす。
その温もりだけで、
張り詰めていた光の涙腺が、
再び熱く緩んだ。
その直後、
警察官二名が
部屋へと踏み込んできた。
美咲は光をその胸に抱いたまま、
迷いのない素早い動作で
ポケットから討魔局の黒い身分証を提示した。
「討魔局・討伐課の一ノ瀬美咲です。
これは当局が管轄する『特殊事案』です。
迅速なご対応、感謝します」
間もなく討魔局の事後調査チームも到着し、
近隣住民への情報統制と
現場の隠蔽を引き継いでいった。
美咲は光の華奢な肩を
しっかりと抱き寄せたまま、
耳元でそっと囁いた。
「もう大丈夫……。
私のマンションに行こう。
今夜は絶対に、一人にさせないから」
光はぼんやりとした視線を、
倒れた本棚の近くへと向けた。
ガラスの破片の隙間で、
母の写真立てが静かに微笑んでいる。
光は震える手でそれを大切に拾い上げ、
埃を優しく払うと、
自分の小さなバッグの奥へと仕舞い込んだ。
「……行こう」
美咲が優しく頷き、
光の背中を支えながら、
異界と化した部屋を後にした。
◇
雨上がりの夜道を、
二人はゆっくりと歩いていた。
街灯の橙色の光が、
路面にできた水溜まりを
キラキラと反射させている。
まだ湿ったアスファルトの独特な匂いが、
冷たい夜風に乗ってふわりと鼻をくすぐった。
光は放心状態のまま、
足をほとんど無意識に動かしていた。
時折、左の肩甲骨の奥がズキンと熱く疼き、
そのたびに身体が小さく震える。
美咲は光の肩にずっと腕を回し、
自分の体温を分け与えるように
寄り添って歩いていた。
時々、優しく
その小さな背中をさすりながら
「もう少しで着くからね……」と、
何度も繰り返す。
遠くで、パトカーのサイレンが
微かに聞こえていたが、二人の周囲だけは、
まるで外界の悪意から隔絶された
静かな泡の中にいるように、
穏やかで静謐だった。
途中で、小さなコンビニの
白い明かりが見えてきた。
美咲は光を外のベンチにそっと座らせた。
「ちょっと待っててね。
温かい飲み物を買ってくるから」
そう言って、美咲は店内へと入っていった。
一人残された光は、ふと夜空を見上げた。
月はまだ赤く怪しく輝き、
雨上がりの雲間から、
光を嘲笑うように見下ろしていた。
ゆっくりと流れる灰色の雲。
光は自分の左の背中にそっと手を当て、
その消えない疼きを抑えようとしたが、
指先はまだ、小刻みに震えたままだった。
「……お母さん……」
小さな、迷子のような声が、
冷たい夜風に溶けるように消えていった。




