第36話 翼という厄災
祈りか、それとも呪いか。
美咲の「想い」に呼応するように、
妖魔刀が目覚める。
刃から溢れ出た、青白い光の粒子は、
呼吸を忘れるほどの濃度で膨れ上がっていく。
むき出しの鋭利な刀身を
冷酷に包み込むその光は、
まるで彼女の決意
そのもののようだった。
床にへたり込む光は、
その圧倒的な因果の輝きに、
一瞬だけ恐怖のノイズを忘れて
目を奪われていた。
(何……これ?
まるで、私の翼みたい……)
美咲の握る妖魔刀は、
限界以上の出力を余儀なくされた
機械のように、
刀身全体を激しく震わせ、
内側から抑えきれない
青い質量が猛烈に溢れ出している。
刹那、空間に舞っていた青白い粒子が、
引き潮のように凄まじい速度で
美咲の妖魔刀へと収束した。
次の瞬間――。
シュンッ!!
美咲の姿が光の視界から消え、
一気に薄刃の懐に潜り込んだ。
一閃、二閃、三閃——
常識を遥かに超えた
高速の連撃が薄刃に殺到した。
一撃一撃が急所を狙い、
黒い粒子が飛び散る。
「ククッ……これは面白い!」
薄刃は眼鏡の奥の瞳を怪しく輝かせ、
蛇のように身体を捻り、
致命的な一撃だけを
ミリ単位で回避し続けた。
そのまま滑るようなバックステップを刻み、
美咲との間合いを、強制的に開けようとする。
しかし、美咲の執念は、
その怪物の演算すらも事前に見越していた。
薄刃が地を蹴るのとほぼ同時に、
美咲もまた肉体の制動を無視した
鋭い一歩で距離を詰め、
ステップの加速を
そのまま刃の質量へと変換する。
距離を詰めながらも、
その攻撃の手を緩めることは決してない。
(なんなの……コイツは……っ!?)
袈裟斬り、左逆袈裟斬り、
そして最深部へと至る文字通りの『突き』。
美咲の放つ青い刃が
薄刃の肉体を明確に貫くたびに、
廃倉庫の闇に黒い粒子が
花火のように舞い上がる。
だが、手応えがない。
どれだけ刃を
肉の深層へ突き立てようとも、
手元に伝わってくるのは
粘つく妖気の抵抗だけで、
敵の運動機能が削がれる気配が
一切ないのだ。
(ダメージを、受けていないの……!?)
「クククッ……。
速いな、一ノ瀬美咲。
これほどの純度とは想定外だ」
薄刃は嘲るような笑みを
一片も崩さぬまま、
猛烈な斬撃の嵐のなかで、
一瞬だけ、後方で凍りついている
光へとその警戒の眼差しを向けた。
光は未だ生理的な恐怖に
全身を震わせながらも、
目を見開いて、眼前で繰り広げられる
次元の違う死闘の様子をただ凝視している。
その光の無防備なスタンスを
網膜に捉えた刹那。
薄刃は美咲の鋭利な斬撃を
その身に受けながら、
自身のジャケットの奥から、
ゆっくりと、『妖肢』を展開し始めた。
勝負を決する一撃。
美咲がコンクリートの床を
爆発的な脚力で蹴り上げ、
空中から薄刃の心臓部――
その最深部に隠された
生体核を狙って、
必殺の高速の突きを放つ。
(――捉えた……ッ!!)
美咲の脳内が、
完璧な勝利のラインを描いた、
まさにその瞬間だった。
スッ、と。
細長く、そして悍ましい棘に満ちた
一本の妖肢が、地面の影から
文字通りぬるりと這い出してきた。
それは、美咲が地を蹴り、
空中にその身を晒して
回避不能になった
一瞬の脆弱な死角を、
冷酷無比に狙い定めていた。
空中を切り裂く影。
次の瞬間、美咲の細い足首に、
その硬質な妖肢ががっしりと、
蛇のように巻き付いた。
「っ――!?」
バランスを完全に喪失した美咲の身体は、
空中での抵抗虚しく、
薄刃の妖肢によって、
後方の分厚いコンクリートの壁目掛けて
力任せに叩きつけられた。
ドンッ――!!
廃倉庫の構造全体を震わせるような、
凄惨な衝撃音が激しく響き渡る。
美咲の背骨と内臓に、
コンクリートの質量が
そのまま牙を剥いて襲いかかった。
「ぐっ……、あ、……っ……!」
肺の空気をすべて吐き出し、
美咲の視界が激しく明滅する。
それと同時に、
彼女が握りしめていた
青い妖魔刀がその指先から離れ、
カラン……カラン、と、
虚しく乾いた金属音を立てながら、
埃まみれの床へと転がっていった。
美咲はコンクリートの床へと力なく崩れ落ち、
背中を冷たい壁に預けたまま、
苦痛の呻きを漏らして
身動きが取れなくなった。
内臓への衝撃が、彼女の運動機能を
一時的に完全に停止させていた。
薄刃は役割を終えた
禍々しい妖肢をジャケットの奥へと
静かに消失させ、その冷徹な貌を、
ゆっくりと光のほうへと向き直した。
光は激しく痛む左の背中を
左腕で庇うように身体を縮めながら、
震える右手で自身の妖魔刀をどうにか構えた。
しかし、脳が発する恐怖のノイズは
既に限界を超えていた。
握る手が制御できないほど
激しく震え、刀身がカタカタと
小さく悲鳴のような金属音を
鳴らし続けている。
喉は乾ききり、
目からは大粒の涙が溢れて
視界を歪ませていた。
「こ……来ないで……っ!」
美咲は背骨をきしませる激痛を堪え、
喉の奥から血を吐くような
悲痛な叫びを上げた。
「光……っ!! 逃げて……!!」
薄刃は眼鏡の奥の目を細め、
目の前で怯え、涙を流す光の表情を
じっくりと、その絶望の純度を
味わうように見つめていた。
そして、存在そのものを
否定するような冷酷な言葉を突きつける。
「お前には、なにもない」
光は床に尻餅をついたまま、
震える手で刀を構え直すことしかできない。
その言葉の意味を理解できず、
ただ涙の隙間から声を漏らした。
「……え……?」
美咲は壁に爪を立て、
無理やりその身体を
立ち上がらせようとした。
だが、膝に力が入らない。
神経系が完全に拒絶している。
「な……んで……っ」
自分の肉体であるはずなのに、
思い通りにうまく動かない。
息が激しく上がり、
冷たくなった指先が小さく震えている。
それでも美咲は、光を守るために
床を這うようにして前へ進み、
消え入りそうな声を振り絞った。
「光……っ!
逃げなさい……っ!!」
薄刃は床に這いつくばる美咲の無様な姿を、
完璧な演算の勝利を確信したように
満足気に見つめた。
「クククッ……。
みっともないな。
まるで、駆除される間際の
ゴキブリのようだな。
……一ノ瀬美咲」
薄刃は美咲から
完全に興味を失ったように
光へと向き直り、
その薄い口の端を歪な形に歪めて、
甘く囁いた。
「……大人しく俺と一緒に来い。
それとも、母親のように、
ここで無駄な抵抗でも試してみるか?」
――母親。
その、薄刃の口から放たれた
決定的な単語が起爆剤となり、
光の精神の奥底で、
かつて南砂の廃墟で耳にした、
引き裂かれるような無数の悲鳴の記憶が
フラッシュバックとなって駆け巡る。
けれど。
あの日、地獄のようなノイズの最深部から、
もう一つの『確かな音』が光の魂へと届いた。
『光……
ありがとう……
幸せだったよ……』
廃墟のなかで最後に聞こえた、
どこまでも優しく、暖かかった、
お母さんの最期の声。
その残響が、
恐怖の呪縛に縛り付けられた
光の身体を奮い立たせた。
光は尻餅をついたまま、
右手で妖魔刀の柄を、
自らの骨が軋むほどの
精一杯の力で握り締めた。
(お母さん……。
私……
お母さんの分まで……生きる……っ!)
薄刃は光の内側の変化に気づかぬまま、
ゆっくりと距離を詰め、
長い右手をスッと伸ばした。
完璧な回収の瞬間。
次の刹那――。
光はその伸ばされた薄刃の右手目掛け、
自身の全生命力を乗せた
渾身の一閃を狂おしく振り払った。
――しかし。
光が全生命力を乗せて振り払った
渾身の一閃は、薄刃の右手によって、
あまりにも易々と、
吸い込まれるように受け止められた。
「!?」
その薄刃の右手は、
いつの間にか衣服を破り、
心臓の鼓動と同期するように
不気味な暗赤色に脈動する異形へと
変貌を遂げていた。
刃を受け止めた肉掌から、
ジュウ、と不快な生体音が響く。
「知っているか?
……希の娘。
妖魔刀は、『心』を映す
鏡のような武器だ――」
薄刃は床にへたり込んだままの光の前に
静かにしゃがみ込み、
異形化した右手の指先に、
ほんのわずかな質量を込めた。
パキン。
硝子細工が砕けるような、
あっけない、そして決定的な破壊音。
「ぁ……」
光の心の拠り所であった妖魔刀は
容易く真ん中から折れ、
その断面から青い粒子が霧散していく。
光の瞳の奥に、
言葉にならない深い絶望の色彩が
どこまでも広がっていった。
薄刃はゆっくりと光の手首を掴むと、
その麻痺した指先から
折れた妖魔刀の柄を無造作に奪い取り、
興味の失せたゴミのように
床へと投げ捨てた。
カラン、と虚しい音が響く。
「美雲 光——
お前は……無価値なただの器だ。
希の器……
そして、これからは妖魔の器だ」
薄刃は、脈動するその悍ましい右手を、
光の胸元――
衣服の布地に触れるか触れないかの
零距離でぴたりと止めた。
そして、逃げ場のない耳元まで
自身の貌を近づけ、
大気を震わせるように低く囁いた。
「ほら……。
今にも、お前の心臓に、
手が届きそうだ……」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、
光の背筋に、ゾクッと強烈な悪寒が
狂おしく走り抜けた。
生理的な恐怖の涙が、
堰を切ったように
目から次々と溢れ落ちる。
「やめろ……ッ!!
光に触るな、その汚い手を離せ……!!
このクズ――ッ!!」
壁際に崩れ落ちていた美咲の、
自身の肺腑を抉るような、
血を吐く叫びが廃倉庫の
臓器のような空間に虚しく響き渡る。
しかし、薄刃はその悲鳴すら
自身の愉悦のノイズに変えるかのように、
恍惚とした表情で光を見つめた。
そして、細く冷たい指先で
彼女の濡れた頬を、ゆっくりとなぞった。
「さあ……帰るぞ。
これ以上、
無駄な時間を使わせるな。
……何も無い、
無価値な女――美雲光」
薄刃が光の手を掴み、
その身体を無理やり立ち上がらせようとした、
まさにその瞬間だった。
「ぁ……っ!?」
光の喉から、
苦悶とも悲鳴ともつかない声が漏れる。
制服の奥、
左の背中が焼けるように熱い。
内側から肉を裂かれるような激痛が、
全身を貫いた。
許容量を超えた負荷に、
光の意識が急速に暗転し、
遠のいていく。
「あ……、ぁ……っ……」
(嫌だ……。
連れていかれる……。
私、もう……誰も、守れ、な……)
大切な日常の残照を
網膜の裏に残したまま、
光の意識は完全に途絶え――
彼女は暗闇へと気を失った。
ドクン――。ドクン――。ドクン――ッ!!
次の刹那。
気絶し、人形のように
倒れ込もうとする光の身体の背後から、
かつての白き光などではなく――
黒みを帯びた、
澱んだ淡い紫の悍ましい妖気が、
爆発的な質量となって空間へ噴き出した。
バリバリ、バチバチと、
周囲の因果を書き換えるような
雷鳴のごとき電撃の音が轟く。
噴出した紫の奔流は
渦巻く衝撃波となり、
空間を激しく歪ませながら、
廃倉庫全体の肉壁をビリビリと、
裂けんばかりに震わせた。
「――っ!?」
完璧な勝利を確信していた薄刃の身体が、
その想定外の爆発的な斥力によって、
後方のコンクリート壁へと
激しく叩きつけられた。
薄刃は眼鏡の奥の目を
限界まで大きく見開く。
「……これは……ッ!?」
光は気絶したまま、
力なく項垂れていた。
しかし――
『それ』は、現れた。
白を侵食する、
黒みを帯びた淡い紫の粒子。
巨大な異形の片翼が、
夕闇の廃墟に、
ゆっくりと、その姿を現した。
そこにあったのは、
光の翼ではなく――
厄災そのものだった。




