第35話 鳥籠の中
古い廃倉庫の内部は、
じわじわと侵食してくる。
夕闇のせいで不気味なほど薄暗く、
湿ったカビと錆びついた鉄の
混ざり合った臭い。
それはまるで、死そのものの
体臭とでも言うように、
肺の最深部にじっとりと
まとわりつき淀んでいた。
美咲が前衛として
妖魔刀を構えて路を切り開き、
光がその後方支援に就く
フォーメーションを維持したまま、
二人は慎重に倉庫の奥へ、
暗闇の深淵へと足を進めていた。
「……何も、妖気は感じないわね」
美咲の声が、遮蔽物の多い空間に低く、
吸い込まれるように響く。
光もまた、自身の神経系を研ぎ澄まして
必死に妖気の波長を探りながら、
声を潜めて美咲の背中に言葉を返した。
「本当に、何もいないですね……。
でも美咲先輩、
なんでこんな人気の途絶えた廃倉庫に、
妖魔が出没したって分かったんでしょうか?
指令本部は、一般からの
目撃通報だって言っていましたよね……。
こんな不気味な場所に、
誰がわざわざ足を踏み入れたのかな……?」
その、光が何気なく口にした
「通報の不自然さ」というノイズ。
その意味を理解した刹那、美咲の背筋に、
氷の刃を突き立てられたかのような
強烈な悪寒が走り、
美しい眉がわずかに歪んだ。
(――しまった。
一般通報なわけがない!
これは、最初から――)
「光……っ!
私も嫌な予感がするわ!
今すぐここから――」
美咲が叫び、撤退を選択しようとした、
まさにその瞬間だった。
ぬるりとした、
墓穴の底から這い出したような
悍ましい気配が、
光の無防備な背後から、
音もなく迫っていた。
「――っ、あっ……!?」
光が、接近を感知した瞬間、
思考が真っ白に停止した。
ドクン、と心臓が破裂せんばかりに
激しく脈打ち、酸素が喉の奥で完全に詰まる。
圧倒的なプレッシャーの前に
視界が極端に狭窄し、
刀を握る指先が急速に
痺れて感覚を失っていく。
何も考えられない。
身体のコントロールが奪われたかのように、
一歩も動けない。
ただ、生物としての純粋な『恐怖』だけが、
光の全身を冷酷に支配していた。
(すぐ……すぐ後ろに……誰かが……っ!
近い……っ!)
身体の細胞が発する悲鳴に突き動かされ、
錆びついた歯車を回すようにゆっくりと
光が後ろを振り向いた、その刹那。
眼鏡の奥に一切の感情を排した男――
薄刃恒一が、すぐそこに立っていた。
光の背中に衣服越しに
皮膚が触れ合うほどの、
異常なまでの零距離。
薄刃は音も、息も、
妖気すらも無に還したまま、
暗闇のなかで無表情に、
ただ冷たく薄く笑っていた。
「光!
下がって――っ!!」
美咲の鋭い制止の声が
廃倉庫の静寂を切り裂いた。
彼女は自身の反射神経の限界を統御し、
光の華奢な腕を掴むと、
己の背後へと力任せに強く引き寄せた。
しかし、光は恐怖のあまり足がもつれ、
後ずさりしながら、
アスファルトの冷たい床へと
派手に尻餅をついた。
その眼鏡の奥にある、
一切の有機的体温を欠いた貌。
それを網膜に焼き付けた刹那、
光の脳内に、以前見たアーカイブの文字列が、
凶暴なフラッシュバックとなって蘇る。
(この人が……。
お母さんを……殺した、妖魔……)
因果が反転したかのように、
身体の全細胞が完全に硬直し、
喉の奥が砂漠のように
カラカラに乾き果てていく。
息を吸い込むことすら怖い。
美咲は尻餅をついた
光の前に立ちはだかり、
盾となるように彼女を背後に庇いながら、
妖魔刀を上段へと構えた。
その美しい横顔には、
想定を遥かに超越した事態に対する苛立ちと、
隠しきれない焦燥が歪に浮かんでいる。
「光! 私があいつを引きつけるから――
その隙に、全力でここから逃げて!」
光は恐怖のあまり顎がガチガチと震え、
声の一片すら喉から出すことができなかった。
ただ、小刻みに震えることしかできない。
視界の端からは、生理的な恐怖の涙が
じわりと溢れ、頬を伝い始めていた。
「光――っ!!」
美咲の悲痛な叫び。
それに強制的に意識を引き戻された光が、
慌てて床に手をつき、立ち上がろうとした、
まさにその瞬間――。
スッ、と。
極めて滑らかな軌道で伸びてきた、
細く、異常に長い腕が、
光の身体をがっしりと抱きすくめていた。
「「――っ!?」」
二人の思考が同時に凍りつく。
制服越しに伝わってくるのは、
冷たく、まるで墓穴から掘り起こされた
死体そのもののような、
一切の生命活動を感じさせない
体温のない感触。
それが、蜘蛛の糸のように
じっとりと光の肉体にまとわりついていた。
「くっ――!!」
美咲は奥歯が砕けんばかりに
歯を食いしばり、
即座に妖魔刀を振り上げた。
(……速すぎる……っ!)
焦りと怒りが混濁した、
空間そのものを両断せんとする
美咲の鋭い一撃。
しかし、薄刃はその刃が
自身の上着の繊維に触れる寸前、
軽やかに後方へと跳躍し、
その斬撃の軌道から
自身の存在を完全に消失させた。
光の身体は薄刃の手から
引き離される形で、床へと転がった。
美咲は自身の荒い呼吸を立て直そうと、
視線は薄刃に固定したまま、素早く言った。
「あいつは、
Sクラス指定妖魔、薄刃恒一……。
光、あなたのお母さんを――」
床に手をついた光が、
恐怖で引き裂かれそうな声を震わせ、
美咲の言葉を遮るようにして重ねた。
「……お母さんを、殺した妖魔……
ですよねっ……」
「……そうよ!」
美咲の肯定の言葉を聞きながら、
薄刃は眼鏡のブリッジを
指先で静かに押し上げ、
その気味の悪い微笑みを
さらに深く歪めてみせた。
まるで、すべてが
スケジュール通りに進んでいると、
余裕たっぷりに誇示するように、
ゆっくりと、不快な聲音を紡いでいく。
「ククッ……
そんなに身構えるな、一ノ瀬美咲。」
薄刃の、鼓膜を不快に震わせる声。
光の喉は乾ききり、
涙が勝手に瞳から溢れて視界を歪ませる。
声すら、もう出すことができなかった。
(お母さんは……こんな人に……。
動けない……身体が……。
言うことを、
聞いてくれない……っ!)
そんな光の、絶望に支配された
精神のひび割れを見透かすように。
薄刃の声が、廃倉庫の淀んだ大気の中に、
冷たく、そして静かに響き渡った。
「こんにちは……希の娘」
薄刃の声音には、
感情の起伏がほとんど存在しなかった。
ただ、世界の底を這うような、
冷酷な絶対零度の響きだけが
廃墟に沈殿していく。
「ようやく会えた」
光はガチガチと鳴る
震える唇を必死に動かそうとしたが、
言葉は意味を成さず、
ただの掠れた呼気となって消える。
理由のない恐怖の涙だけが、
堰を切ったように止まらなかった。
薄刃はゆっくりと首を傾げ、
蛇が獲物を値踏みするように、
床に伏せる光をじっと見下ろした。
「私が用があるのは、お前だけだ。
大人しく私に従え。
そうすれば――
一ノ瀬美咲は殺さない」
その冷徹な宣告に呼応するように、
光の『左の背中』が、突如として
焼けるような激痛を帯びた。
不完全な翼の粒子が、
狂暴な生命力で暴れるように疼き出し、
光の混乱をさらに加速させていく。
(早く……私の、翼……。
翼を出して、戦わなきゃ……
お母さんの、敵を……っ!)
薄刃が無機質な足取りで、
さらに一歩、光へと近づいた。
そして、世界の終わりを決定づけるような、
圧倒的な余裕と確信に満ちた聲音で告げた。
「……無駄だ。
言っておくが、
お前がその翼を使ったところで、
お前たち二人では、
私を倒すことはできない」
その絶対的な敗北の予言に、
光は血の気が引いた青ざめた顔で目を見開き、
前衛に立つ美咲の表情が驚愕と焦燥に歪んだ。
「どうして?……
翼のことまで……!? 」
美咲は自身の精神を
侵食しようとする恐怖を必死に振り払い、
焦燥を隠しきれずに絶叫した。
「ダメよ、光!
妖魔の取引になんか、
絶対に耳を貸さないで!
今すぐそこから逃げて――っ!!」
美咲が叫んだ、
まさにその瞬間だった。
ドクン――。ドクン――。ドクン――。
廃倉庫を満たしていた
空気の振動が変わった。
建造物全体が、まるで巨大な怪物の
『心臓』そのものであるかのように
不気味に脈打ち始めた。
「……ひっ!?」
光の顔から、
完全に血の気が失われていく。
赤黒く錆びついた壁や天井、
コンクリートの床の隙間から、
ドロドロとした黒い粒子が噴き出し、
まるで内臓の肉壁のように蠢きながら、
二人の退路を冷酷に塞いでいく。
薄刃は眼鏡の奥の瞳を細め、
静かに、しかし深淵の底から響くような
深い笑みを漏らした。
「準備は整った。
希の娘、お前はもう……
ここから逃げ出すことはできない」
光は暗赤色に脈打つ天井を見上げた。
左の背中は、
すでに激痛を伴うほどの
異常な熱量を帯び、
息を吸うことすら満足に許されない。
頭の中は、完全に真っ白だった。
(……お、母……さん……っ……)
ドクンドクンと、
不吉な生体音を立てて
波打つ倉庫の内部。
それはまるで、
巨大な生き物の臓器の中に
閉じ込められたかのような、
五感のすべてが吐き気を催す、
異様な閉鎖空間へと成り果てていた。
薄刃はその狂気の情景を前に、
一切の体温を排した
恍惚とした笑みを浮かべ、
光の顔をじっくりと、
その恐怖の質を味わうように見つめていた。
「良い表情だ……希の娘。
その恐怖で歪みきった貌……実に美しい」
光の思考は、
まだ真っ白なノイズに支配されていた。
心臓が激しく軋んで悲鳴を上げ、
息が完全に詰まる。
冷たい脂汗が止まらず、
膝がガクガクと震えて、
指先の感覚の麻痺は限界を超え、
妖魔刀の柄すら
満足に握りしめることができない。
(怖い……怖い、動けない……。
この人が、
お母さんを……殺したんだ……っ!)
薄刃は、まるで
出来のいい玩具を検分するように、
愉しげにその喉を鳴らした。
「ククッ……。
あれと同じ顔で
その表情をされると……
久我が、お前に異常なほど
執着している気持ちが、
少しは理解できるな」
(――久我っ!?)
母を陥れた仇の口から、
かつて自分を死の淵まで追い詰めた
狂気の妖魔の名が出た瞬間、
光の身体は生理的な拒絶反応で
小気味よく震え始めた。
噛み合わない歯が、
カチカチと乾いた音を立てる。
前衛に立つ美咲は、
自身の内側から競り上がってくる
恐怖のノイズを必死に圧殺し、
ひび割れそうな声を
振り絞って問い詰めた。
「久我と知り合いなの!?
この気味の悪い肉壁は何!?
光を連れていって、何をする気!?」
薄刃は眼鏡の位置を直しながら、
美咲の焦燥を冷ややかに見据え、
底冷えのする聲音で答えた。
「質問が多いな、一ノ瀬美咲。
……その口調は――
お前の父親にそっくりだ」
ピキリ、と
美咲の思考が凍りついた。
その美しい瞳が、
驚愕に見開かれる。
「父を……
知っているの……?」
薄刃はゆっくりと、
どこまでも残酷な微笑みを深めながら
言葉を重ねていく。
「今はあの男の欲望を
利用させてもらっている。
そしてこの能力、
俺は『檻』……と、呼んでいる。
これは、気配も、妖気も、叫び声も、
全てを外に漏らさない完全な牢獄だ。
……どれだけ無様に泣き叫ぼうと、
お前たちの神崎も、黒崎も、
ここに気づくことはない」
その絶対的な孤立の宣告に、
光は恐怖のあまり
その場に力なくしゃがみ込み、
両手で自身の華奢な身体を
抱きしめるようにして、
小さく縮こまることしかできなかった。
美咲が視線は薄刃に固定したまま、
小声で、けれど必死の熱量で
背後の光に呼びかける。
「光……っ!
しっかりして!
落ち着きなさい、
私がここにいるわ!
……どう!?
『翼』は……展開できそう!?」
「あ……」
先輩の声にハッとした光が、
痛む背中へ、意識を集中させようとした、
まさにその瞬間だった。
「熱っ……、あ、熱いっ……!!」
言葉にならない悲鳴。
雷撃のような激痛が
光の左の肩甲骨を容赦なく貫き、
目の前がぐらりと激しく揺れた。
薄刃はそんな二人の不毛なやり取りを、
薄笑いを浮かべながら、
実につまらなそうに観察していた。
「希の娘を回収する理由は……
妖魔を存続させるためだ。
家畜にその詳細を教える必要はない」
美咲がそれを遮るように、
鋭く問い詰めた。
「妖魔の存続……!?
光と、それが
何の関係があるっていうの!?」
「さあな」
薄刃は細い目をさらに細め、
漆黒の闇よりも昏い笑みを浮かべた。
「ああ、それと、
お前の父親についてだったな……。
一ノ瀬美咲。
君の父親が、死んだあの夜……
俺も同じ場所にいた」
ドクン、と美咲の心臓が
歪に跳ね上がった。
全身の血の気が一瞬で引いていく。
「……なかなか見応えのある、
無価値で、無様な死に様だった」
「お前が……っ、お前が、お父さんを……!!」
美咲の視界が、
長年の憎悪の色で真っ赤に染まる。
薄刃はその絶望の表情を、
まるで音楽でも聴くかのように
楽しそうに笑い飛ばした。
「俺が直接手を下したわけではないが……な。
さて――」
薄刃の声から、
一瞬にして一切の娯楽のニュアンスが消え、
急に低く冷徹なものへと反転した。
「そろそろ、おしゃべりは終わりだ。
俺のスケジュールが狂う。
早くそのサンプルを渡せ。」
恐怖に震えながら、
光は美咲の背中を見つめた。
いつも凛としていて、
誰よりも優しかった大好きな先輩の顔が。
今は、怒りに満ちた別人の貌へと
変貌していた。
美咲は、指の骨が軋むほどの
圧倒的な力で妖魔刀の柄を握りしめ、
喉を引き裂くような怒声で絶叫した。
「光が……サンプル……!?
お前……ふざけるな!!」
美咲の意志の暴走に呼応するように、
彼女の持つ妖魔刀から、
青白い光が濁流となって噴き出した。
刀身を完全に包み込んだ光は、
鮮やかな深淵の青へと輝き、
その切っ先から、膨大な青白い粒子が
廃墟の空間へと溢れ出していく。
暗赤色の臓器のように脈打つ
薄暗い倉庫の内部。
そこへ、一ノ瀬美咲の怒りと覚悟が紡ぎ出した
青白い光の粒子が溢れ出し――
悍ましくも、
どこか幻想的な色彩で
廃墟を染め上げていった。




