第34話 夕闇の誘い
数日後の朝、
美咲のマンションは、
穏やかで柔らかな陽光に包まれていた。
キッチンでは、
美咲がエプロンを身に纏い、
コンロの火を弱めて
味噌汁を静かに温めている。
沸き立つ出汁の芳醇な香りが、
まだ眠気の残る部屋の空気を
優しく満たしていく。
トントン、と
廊下を歩く軽い足音が響き、
彩花が寝癖のついた長い髪を
ぺたぺたと手で直しながら、
リビングへ姿を現した。
彼女はキッチンで
立ち働く美咲の背中に、
弾んだ声をかける。
「美咲さん、
おはようございます!
今日も朝食作りの準備、
私もお手伝いします!」
美咲は振り返り、
その瞳を細めて優しく微笑んだ。
「おはよう、彩花ちゃん。
じゃあ、お茶碗を
並べてもらおうかしら。
……そういえば、
光はまだ起きてこないの?」
彩花は手際よく
棚から食器を取り出しながら、
少し困ったように苦笑を浮かべた。
「それが……
まだ部屋でぐっすり寝てるんです。
最近のひかり、
なんだか朝が本当に弱くなってきてて。
声をかけても、生返事だけで
また毛布に潜り込んじゃうんです」
その瞬間だった。
――ガタンッ!!
静かなマンションの廊下に、
光の自室の方から
何か大きな物体が倒れたような、
派手な衝撃音が響き渡った。
「っ――」
美咲の表情が一瞬で引き締まり、
フライパンを持つ手が止まる。
「光!?
大丈夫!?」
切迫した美咲の声に呼応するように、
ドタドタと慌ただしい足音が
廊下を駆けてくる。
次の瞬間、光が
リビングのキッチンへと
文字通り飛び込んできた。
その小さな両手で頭をしっかりと押さえ、
顔を耳の付け根まで真っ赤に染めている。
「……ううっ、痛たたたっ……。
ご、ごめんなさい!
私、また寝坊しちゃいました……!」
涙目でパニックになっている光の姿を見て、
美咲は張り詰めていた肩の力を抜き、
心配しつつも思わずくすっと
小さく笑ってしまった。
「もう……
そんなに慌てて
飛び出して来なくていいのに。
頭は大丈夫?
今の音、リビングまで
結構大きく響いたわよ?」
光はまだ痛む頭を両手で押さえたまま、
しょんぼりとした顔をして力なく答えた。
「アラームに気づいて、
慌ててベッドから飛び起きたら、
足が毛布に絡まって
そのまま床に転げ落ちちゃって……。
勢いあまって、
デスクに、思いっきり頭を
ぶつけちゃいました……」
「ふふ、本当にそそっかしいんだから」
美咲はコンロの火を止めると、
光の前に歩み寄り、
彼女の頭にそっと触れた。
そして、クシャクシャに絡まった
光の寝癖を、細い指先で一本ずつ
丁寧に直してあげる。
「はい、もう大丈夫。
朝食の準備は私と彩花ちゃんで
ほとんど終わらせてあるから、
光はまず洗面所で顔を洗って、
髪を綺麗に整えておいで?
すごい寝癖よ、可愛いけどね」
美咲に指摘され、
光は初めて自分の現在の装いに気づき、
ハッと息を呑んだ。
パジャマのボタンは不揃いにはだけ、
鎖骨が露出している。
髪は完全に鳥の巣のように
ぼさぼさのままで、
年頃の少女としては
あまりにも無防備な姿だった。
「あ……っ!
あ、ありがとうございます……!
すみません、すぐに着替えてきますっ!」
光は顔だけでなく
耳の裏まで真っ赤に染め上げると、
その場を取り繕うように、
慌てて洗面所の方へと
駆け出していった。
バタバタと遠ざかる足音を聞きながら、
美咲は彩花のほうを向き、
小さく、深い溜息を吐き出した。
その瞳からは、先ほどまでの
冗談めかした明るさが消えていた。
「……あの子、連日の訓練と、
あとは何より……『翼』を展開した反動で、
かなり疲れが溜まっているみたいね。
メンタルは前向きなんだけれど、
肉体的に無理をしているわ。
……私たちで、
しっかりフォローしてあげましょうね」
彩花もまた、
手元のお茶碗を見つめながら、
いつになく真剣で、
どこか悲痛な色を帯びた顔で頷いた。
「はい……。
実は、夜もあまり深く
眠れていないみたいなんです。
最近、お母さんの夢を
よく見ているみたいで。
夜中に、うなされるみたいに
『お母さん……』って、
小さく寝言を言っているんです。
私、それがちょっと心配で……」
ーー江東区・深川支部・討伐課執務室。
その日は、まるで世界が
一時的な停戦協定を結んだかのように、
穏やかに過ぎていた。
光はデスクワークを
淡々とこなしていく。
しかし。
午後三時を過ぎた、
まさにその瞬間だった。
静寂を引き裂くように、
神崎班長のスマートフォンから、
指令本部の緊急任務を告げる
特有の電子音がけたたましく鳴り響いた。
神崎は無言で端末をポケットから取り出し、
液晶画面を素早くスワイプして耳に当てる。
『――江東区大島地区に、
AAAランクの指定妖魔が発生しました。
至急、神崎班の出動を要請します!』
通信口から漏れる
緊迫した声に応じるように、
神崎の表情が、一瞬で百戦錬磨の
討魔官のそれへと変貌した。
「分かった。
詳細は移動中に確認する。
データを端末へ転送してくれ」
神崎は短く告げると同時に、
弾かれたように席を立ち上がった。
「緊急任務だ。
大島にAAAランクだ……行くぞ!」
「「「了解です!」」」
三人の声が重なる。
神崎班を乗せた
黒いワンボックスバンは、
独特の赤いサイレンを
鳴り響かせながら、
現場へと急行した。
久々に対峙することになる、
ハイクラスの怪異。
車内の狭い空間のなか、
光は緊張の面持ちで、
妖魔刀を胸に抱えるように
両手に固く握りしめていた。
硝子を流れる景色を見つめる
彼女の横顔は、強張っている。
美咲は、そんな光の様子に気づき、
隣からそっと優しい声で語りかけた。
「光……。
そんなに怖い顔をしなくても大丈夫よ。
今のあなたなら、
ハイクラスでも充分に戦えるわ。
……でもね、最近の光は
目に見えて疲れが溜まっている。
だから絶対に、
無理をして前に出ちゃダメよ。
いつもAランクと対峙するときと同じ。
私の後方から、
狙えるタイミングだけを
突いていけばいいわ。
『翼』を展開するのは、
班長から明確な出力指示が
あったときだけにして」
光の左翼にかかる過負荷を
見抜いているからこその、ブレーキ。
いつもは窓の外に視線を向けたまま、
無言で佇んでいる悠真が、
美咲の言葉を引き継ぐように、
呟くような声音で口を開いた。
「そうだな……。
最近のお前は、
前に出ることを意識した戦い方が多い。
一歩引いて、
仲間の戦いを観測することも、
重要な勉強だ」
不器用な、けれど確かな
二人の気遣いと温もりが、
光の張り詰めていた精神を薄めていく。
光は二人の顔を見つめ、
ニコッといつもの
曇りのない笑顔で微笑み返した。
「はい……。
ありがとうございます!」
やがて、現場付近の路上で
黒いバンが停止した。
指令エリアは、駅の近くに位置する、
広大な敷地を持つ公園の内部だった。
ガチャ、とスライドドアを開け、
四人が妖魔刀を携えて
アスファルトへと降り立った、
まさにその直後。
神崎の端末から、
再び最優先の緊急任務を告げる
着信音が鳴り響いた。
神崎は眉間に深い皺を刻み、
通話ボタンをスワイプする。
『神崎班長……っ!
江東区潮見地区の臨海廃倉庫に、
新たにAランク妖魔が発生したと
一般からの通報が入りました!
現在、他の別班も
それぞれAAランクの対応に追われており、
そちらに戦力を割くことができません……!
重複任務となりますが、
神崎班での同時対応は可能ですか!?』
最悪のタイミングでの、
戦力の分散要求。
(同じタイミングでAランク以上が
複数箇所で同時に出現だと……?
都心部なら、まだ分かるが江東区で……?)
神崎は鋭い視線で公園の奥を見据えながら、
コンマ数秒で冷徹な判断を下した。
「分かった。
こちらを二班に割り振って、
同時並行で対応する」
『ありがとうございます……!
幸い、大島の近くを巡回中の
捜査課のメンバーがいます。
そちらの現在地に車で迎えに行くよう、
すぐに要請を回します!』
神崎は通話を切ると同時に、
振り返って美咲と光に視線を走らせ、
的確な指示を出した。
「美咲、光。
潮見地区にAランクの
妖魔が出たらしい……。
悪いが、お前たち二人で
そちらへ急行してくれ。
俺と悠真が、ここで
このAAAを迅速に片付ける。
処理が終わり次第、
すぐにそちらへ合流する」
神崎は言葉を一度切り、
二人の少女の瞳を真っ向から見つめた。
「……万が一、
その潮見の妖魔に、
少しでも計算外の
『違和感』を感知したら、
無理に交戦するな。
付近の住民の避難を最優先し、
俺たちの到着を待て。
いいな?」
その不穏な予感を含んだ命令に、
美咲と光は同時に声を揃えた。
「「了解しました!」」
神崎班長の命令が下った直後、
美咲と光の二人は、
要請を受けて滑り込んできた
捜査課の黒いセダンへと
滑り込むように乗り込んだ。
車内には無機質な無線機の
ノイズだけが響いている。
セダンは人工的な静寂に包まれた
湾岸エリアの広い道路を駆け抜け、
目的地である潮見地区の臨海廃倉庫の
駐車場へと滑り込んだ。
バタン……
重いドアの閉鎖音が、
人気の途絶えた湾岸の空に虚しく響く。
二人が車を降りると、
視界の先には、海風に晒されて
赤黒く錆びついた巨大な建造物が、
まるで都市の巨大な棺のように
そびえ立っていた。
美咲と光は、
自らの妖魔刀の柄に手をかけ、
黄色い立ち入り禁止の規制線を
無言で潜り抜ける。
ひび割れたアスファルトの間から
容赦なく伸びる雑草を掻き分け、
錆びついた鉄製の巨大な扉を
静かに横へと押し開いた。
ガラガラ……。
重い金属音が、静寂の結界を破る。
倉庫の内部は、
天井の割れた硝子から、
斜めに差し込む夕暮れ間近の
赤い陽光を浴びて、
無数の埃が血の色の粒子のように
妖しく舞い踊っていた。
内部は不自然なほどに
静まり返っている。
時折、海から吹き抜ける風の音だけが、
複雑に入り組んだ鉄骨の隙間を抜けて、
低い口笛のような音を立てていくだけだった。
美咲は周囲の大気を満たす
目に見えない妖気を慎重に探りながら、
声を極限まで潜めて言った。
「変ね……。
感知出来る妖気が、
あまりにも弱すぎるわ」
美咲の瞳が、倉庫の奥の暗がりを
油断なく凝視する。
「まだ顕現したばかりの
不完全な個体なのかもしれない。
……けれど、油断しないで、
私と等間隔の距離を保ったまま、
中を一緒に探索しましょう」
光は自身の呼吸を整えながら、
鋭い金属音を響かせて
妖魔刀を完全に抜刀した。
初めてとなる、
悠真も神崎班長もいない、
美咲先輩と二人きりでの任務。
その重い緊張感に
全身の細胞を縛られながらも、
光は真剣な眼差しで、
強く頷いて美咲の背中に続いた。
「はい、美咲先輩!」
――しかし。
傾きかけた太陽が落とす長い影は、
すでに二人の少女を、
不可逆な戦場(檻)へと閉じ込めていた。
二人が歩を進める遥か頭上。
天井を支える高い鉄骨の、
光の届かない漆黒の影のなかに、
その『怪物』は座していた。
薄刃恒一。
彼は固有の妖気を
完全にゼロへと収束させ、
眼鏡の奥にある冷たい知性の瞳で、
無防備な二人の少女を俯瞰していた。
薄刃の視線は、
周囲を警戒する美雲光の身体、
特に、その制服の奥に隠された
『左の背中』――
片翼が展開する辺りへと、
執拗なまでに注がれていた。
(残り半分……
やっと回収出来る)
じわじわと廃墟を
侵食していく夕闇。
廃倉庫の濃密な死の香りのなかで、
冷徹な貌がゆっくりと、
歪な嘲笑の形へと変貌していった。
夕闇だけが、
静かに戦場を閉ざしていく。




