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白翼の光  作者: 月凪
第二巻 希望は時に厄災となって

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33/69

第33話 いつかあの空へ


昨日の豪雨が

まるで幻であったかのように、

南砂の空は澄み渡り、

光達の暮らす部屋を

柔らかな朝光が満たしていた。


じゅう、と小気味よい音を立てる

キッチンの目玉焼き。


黄金色の焼き目をまとった、

香ばしいトースト。


色鮮やかなサラダを

手際よく盛り付けていく、

かすかな器の触れ合う音。


三人のあいだを流れる空気は、

もうずいぶん前からそうであったかのように、

あまりにも自然で、

いつしかひとつの柔らかな旋律となり、

かけがえのない日常を刻んでいた。


美咲は手際よくフライパンを傾け、

焼き上がった目玉焼きを

滑らせるようにして皿へと移した。


トーストの香ばしい匂いが

鼻腔をくすぐるなか、

彼女はいつもの明るい声で

弾むように言った。


「彩花ちゃん、

今日は確かお休みだったよね?」


「はい!


待ちに待った、

久しぶりの完全オフです!」


ダイニングテーブルで

スプーンを手に持った彩花が、

元気よく声を弾ませる。


その隣で、まだ少し眠たそうに

目を細めていた光が、

どこか照れくさそうに、

しかし嬉しさを隠せない様子で微笑んだ。


「私も……


せっかくお天気も良くなったから、

彩花と一緒に外に出たいな……」


美咲はサラダのボウルを

テーブルに置きながら、

そんな二人の顔を見つめ、

にこっと破顔した。


「ふふ、

丁度いいタイミングね。


さっき神崎班長に

端末で確認を取ったの。


光の外出は、日中の、

それも短時間だけならOKだって」


その言葉が部屋に響いた瞬間、

光と彩花の顔が一瞬でパッと輝いた。


「やった……!」


「ほんとですか!?

美咲さん、ありがとうございます!」


二人の少女が

手を取り合わんばかりに喜ぶ姿を見て、

美咲は悪戯っぽく、その目を細めた。


「実はね、

今日は私もお仕事お休みなんだよね。


……それで、ねぇ。


悠真とこれから

デートの約束をしてるんだけど、

もし良かったら、

4人で一緒に水族館にでも行かない?」


彩花と光は、

示し合わせたかのように同時に声を揃え、

キラキラと網膜を輝かせた。


「水族館!?」


美咲は満足そうに微笑み、

コクンと小さく頷いてみせる。


「そうよ。


悠真がもうすぐ、

車で迎えに来てくれることになっているわ。


だから、まずはこの朝食を手早く食べて、

出かける準備をしましょう?」


「はい!」


三人はまるで

寄宿舎の少女たちのように、

賑やかに、しかし手際よく朝食を済ませた。


食器をシンクへ片付けると、

自室へと戻り、私服を選ぶ。


光はクローゼットを開け、

少しだけ迷ったあと、

ある衣服に手を伸ばした。


それは以前、彩花と一緒に

ショッピングモールへ行ったときに

購入したお気に入りの一着だった。


ベージュの、

肌触りの柔らかな

オーバーサイズのパーカー。


それに、歩くたびに

波打つ白いレースのロングスカート。


姿見の前に立ち、

討魔局の制服ではない

『私服』を着た自分を

鏡のなかに見つめる。


いつも世界の境界線で

戦っている自分とは違う、

ただの等身大の自分の姿が、

何だかとても新鮮で、

少しだけ気恥ずかしかった。


光は小さなショルダーバッグを手に持つと、

部屋のデスクの端へと歩み寄った。


そこには、

小さな写真立てに収まった、

母・希の写真がある。


写真のなかの母は、

いつでも光を全肯定してくれるような、

優しい笑顔を浮かべていた。


光はその写真を見つめ、

自身の口元を同じように柔らかく綻ばせる。


「お母さん……。


今日はなんだか、

とっても楽しい一日に

なりそうな予感がするの。


……行ってきます!」


声に出して告げると、

光は弾むような足取りで自室を出て、

木製の扉を静かに閉めた。


バタン……。


廊下に響いたその閉鎖音は、

これから始まる穏やかな時間への、

ささやかな幕開けの合図のようだった。


ーー墨田区の水族館。


薄暗いエントランスの

階段を上がりきると、


目の前に突然、

鮮烈な『緑』の世界が広がった。


壁一面を埋めるように

並んだ大きな水槽の中に

美しい水草の森が広がっている。


「うわぁ……!


水のなかに、森があるみたい……っ」


光は、ぽかんと口を開けたまま

水槽に吸い寄せられていった。


水草の葉の一枚一枚から、

光を浴びた小さな酸素の泡が、

まるで星の粒のように

キラキラと途切れなく立ち上っている。


「魚も、緑がいっぱいで

嬉しそうですね!


あ、あの子、葉っぱの陰で

かくれんぼしてる」


ネオンのように光る

小さな熱帯魚を見つめながら、

光がふんわりと微笑む。


その様子を、少し後ろから

見守っていた悠真が、

静かに口を開いた。


「……落ち着くな」


ぼそりと呟かれたその短い言葉に、

美咲が嬉しそうに振り返る。


「ふふ、そうね。


悠真、こういうの

好きそうだと思ってた」


「……ああ」


視線で会話するような二人の

大人びた雰囲気に、

彩花は「ごちそうさまでーす」と

小さく肩をすくめた。


「ほら、ひかり。


私たちは、あのネオンテトラが

何匹いるか数えにいこ」


「あ、待って、あやか!


1、2、3……


あ、あの子が動いちゃったから、

もう一回……!」


泡のきらめきに包まれながら、

4人の特別な一日の幕が

静かに上がっていった。


緑の森を抜けた先は、

一転して深い青の闇だった。


「わあ……、真っ暗……。


あ、足元が光ってる……!」


光の視線の先、

床に埋め込まれた巨大な水盤が、

ぼんやりと青白い光を放っている。


境界線のない水の器。


そこに数え切れないほどの

ミズクラゲたちが、ぽわん、ぽわんと

不規則に傘を広げて浮かんでいた。


「ひかり、足元見て。


ここ、床がガラス張りになってて

水槽の上に張り出してるんだよ」


彩花に促されて一歩進むと、

本当にクラゲの海の上を歩いているような、

不思議な感覚に包まれる。


「わぁ……!


落ちそう……。


クラゲ、踏んじゃわないかなぁ」


光は、まるで氷の上を歩くように

おそるおそる足を運び、

自分の靴の下を泳ぐクラゲを

心配そうに覗き込んだ。


「大丈夫よ、光。


ちゃんとガラスがあるからね」


美咲がクスッと笑って、

光の腕を優しく支える。


「でも、本当に綺麗……。


宇宙を歩いてるみたい」


美咲がうっとりと呟きながら隣を見ると、

悠真がじっとクラゲの拍動を見つめていた。


「……骨が、ないな」


ぽつりと溢れた悠真のシュールな感想に、

彩花が思わず吹き出した。


「悠真さん、そこですか!?


確かにそうですけど、

もうちょっとこう……

ロマンチックな

感想とかないんですか?」


「……いや。


楽そうだな」


悠真が少しきまり悪そうに目をそらすと、

美咲が「ふふ、悠真らしいね」と

嬉しそうに微笑む。


その様子を見ていた光が、

ほわほわとした声で言った。


「骨がないなら、クラゲはきっと、

毎日がずーっとお昼寝の時間なんだ……。


いいな……」


挿絵(By みてみん)


彩花は光の能天気な感想に

少し呆れ顔で微笑んだ。


「……でもまぁ、ひかりは今でも

十分クラゲっぽいよ。


ほら……


このクラゲなんて

ゆらゆら光ってて、すごく綺麗……


ひかりの翼を思い出すよ!」


光は少し照れくさそうに笑った。


「あやか……翼みたいって……」


しかし次の瞬間、

光はガラスに顔を近づけすぎて、

大きなクラゲが急に近づいてきたことに驚き、

小さく「ひゃっ!」と

声を上げて後ろに飛び退いた。


彩花が大笑いした。


「ひかり、今の可愛すぎ!


普段は妖魔と戦ってるのに、

クラゲにびっくりするなんて!」


光は顔を真っ赤にして抗議した。


「……あやか、からかわないで……


急に近づいてきたんだもん……」


青い光に照らされた4人の影が、

ゆったりと揺れるクラゲたちと一緒に、

静かな闇のなかに溶けていくようだった。


「わあ、見て見てあやか!


ニョロニョロがいっぱい……!」


6階の『チンアナゴ水槽』の前で、

光はガラスに両手を

ピタッとくっつけて目を輝かせた。


砂からにょっきりと顔を出し、

ゆらゆらと波に揺られている

無数のチンアナゴたちを、

おっとりした視線で追いかけている。


「ひかり、声大きい。


あとニョロニョロじゃなくて

チンアナゴね」


隣で彩花がすかさず、

慣れた様子で突っ込みを入れた。


「みんな同じ方向を向いて、

何見てるのかなぁ?


……あ、あの子、

砂の中に引っ込んじゃった。


家に忘れ物かな?」


「ただ流れてくるご飯を食べてるだけだし、

忘れ物じゃないから。


……もう、相変わらず

ファンタジーな世界観で生きてるね、

ひかりは」


彩花が呆れたように笑うと、

少し後ろから歩いてきた美咲が、

楽しそうに二人の肩に手を置いた。


「ふふ、光、癒やされるわぁ。


ねえ悠真、チンアナゴだって。

可愛いね」


美咲が隣の悠真を振り返ると、

悠真は少しだけ視線を水槽に落とし、


「……ん」


と、短く頷いた。

相変わらずクールな反応だけど、

その口元がわずかに緩んでいるのを、

彩花は見逃さずにニヤリとする。


4人の穏やかな空気が、

ゆらゆら揺れるチンアナゴたちと

シンクロしているようだった。


スロープを降りると、

視界が一気に開けて、

大きな『ペンギンプール』が

目の前に現れた。


岩場の上で

羽をパタパタさせる子や、

水の中を弾丸のように

泳ぐペンギンたちを見て、

光の胸が高鳴る。


「すごーい!


あ、あの2羽、

ずっと並んで歩いてます。


結婚してるのかな?」


光がトコトコと歩く

ペンギンのペアを指差すと、

美咲が「あ、本当だ」と目を細めた。


「ペンギンってね、一度ペアになると、

ずっと生涯同じ相手と過ごすらしいよ」


「へえー、一途なんだね。


……どっかの誰かさんたちみたいですね」


彩花がわざとらしく

美咲と悠真の顔を交互に見る。


美咲は「もう、彩花ちゃんったら」と

照れくさそうに笑い、

悠真はふいっと明後日の方向を向いて、

耳を少し赤くしていた。


「あ、ペンギンたち、

みんなおねむの時間かな……?」


光はアクリル壁の

すぐ前にしゃがみ込み、

岩場で身を寄せ合って

うとうとしているペンギンたちを

じっと見つめた。


美咲と彩花が

「可愛い、写真撮ろう!」と

少し離れた位置の

掲示板(ペンギンたちの複雑な相関図)を

見に歩いていく。


悠真だけがその場に残り、

光から少し離れた場所で、

静かにプールを見下ろしていた。


「……」


いつもクールで、

どこか一歩引いている悠真。


光は、しゃがんだまま

首をこてんと傾げて、

悠真の横顔を見上げた。


「悠真さん、

ペンギンは、寂しくないですよ」


「……え?」


突然かけられたおっとりした声に、

悠真が驚いたように視線を落とす。


「みんなでぎゅってくっついてるから、

寂しくないです。


だから……


悠真さんも、寂しくないです」


光は、美咲たちのいる方を

嬉しそうに指差した。


光は悠真が慣れない雰囲気に囲まれて、

少しだけ緊張して遠慮していたことを

見抜いていたのかもしれない。


「……そうか」


悠真は一瞬目を見張ったあと、

ふっと、今日一番の

柔らかい笑みを浮かべた。


いつも一言しか喋らない彼の、

初めて見る優しい表情だった。


「ちょっと、ひかり!


何勝手に悠真さんと内緒話してんの?」


戻ってきた彩花が、

すぐに突っ込みを入れた。


「内緒話じゃないよー。


ペンギンがあったかそうって話してたの」


「もう、

本当にマイペースなんだから……。


悠真さん、

光が何か変なこと言いませんでした?」


呆れる彩花に、

悠真は「いや」と首を振った。


「……あったかいな、と思った」


その言葉の

本当の意味を知っているのは、

光の横で、内緒そうに微笑む

美咲だけだった。


水族館の心地よい余韻に包まれながら、

4人はタワーの4階にある

出発ロビーへと向かった。


分速600メートルという

驚異的な速さの

ハイテクエレベーターに乗り込む。


「うわ、耳がツンとする……。


ひかり、大丈夫?」


「大丈夫だけど……


なんだか、エレベーターの中が

シャカシャカ鳴ってる……」


「それ、ひかりの耳鳴りだから。


ほら、唾飲み込んで」


彩花に言われるがまま、

光が「ごっくん」とのどを鳴らした瞬間、

チーンと静かな電子音が響いた。


わずか50秒。


開いた扉の先には、

全面ガラス張りの圧倒的な大パノラマ――


地上350メートルの

『展望デッキ』が広がっていた。


「すごーい……っ!


東京がミニチュアみたい!


ミニカーと、

おもちゃのお家がいっぱい……!」


光はガラスに

顔をくっつけんばかりに近づき、

眼下に広がる東京の街並みを見下ろした。


「本当に綺麗……。


ねえ悠真、私のお家、あのあたりかな?」


「……いや、あっちだ」


美咲が指差した方向を、

悠真が優しく修正する。


いつもクールな悠真だが、

美咲と肩を寄せ合うようにして

外を眺める姿は、どこからどう見ても

お似合いのカップルだった。


光が眼下に広がる

壮大な東京の景色に

完全に心を奪われていると、

彩花がその隣に音もなく並び、

ふっと、焦点の定まらない目で

遠くの地平線を見つめた。


「……ねえ、ひかり。


私たちもいつか、

あんな風に素敵な人と……


大好きな人と一緒に、

ここに登れる日が来るのかな?」


それは年相応の、

ありふれた少女の憧憬だった。


けれど、彩花のそんな淡い問いかけすら、

今の光の鼓膜には

全く届いていないようだった。


世界から音が消えたかのような静寂のなか、

光は恍惚とした表情のまま、

ポツリと、独り言のような声音を漏らす。


「わぁ……


なんだか、本当に空を飛んでるみたい……。


ここからなら、

本当にどこまでも飛べそう……」


その瞬間、4人を包んでいた空気が、

一瞬だけピタリと凍りついた。


彼女の背に眠る不完全な片翼を

誰もが知っているからこそ、

その呟きは不穏な予感を含む。


コイツなら、

本当に飛びそうな気がする……と

3人が同時に、その思考に至った。


窓の外を見つめたまま、

ただ腕を組んで佇んでいた悠真が、

静かに光の隣へと歩み寄った。


そして、視線は景色に向けたまま、

低い声で鋭く忠告した。


「……飛ぶなよ」


「えっ……!?」


現実に引き戻された光が、

慌てて悠真のほうを振り向く。


その顔はみるみる赤くなっていった。


「と、飛びませんよ!? 」


「お前の場合、

ただの冗談じゃ済まないからな。


本当にやりそうだから、

言っている」


悠真が至極真面目な顔で言うものだから、

それまで息を呑んでいた美咲と彩花が、

堪えきれずに一気に笑い崩れた。


「ふふ、確かに光は、

『わーい』って言いながら

ふらっと行っちゃいそうだものね」


「ちょっと悠真さん、

ひかりを野生の鳥みたいに

言わないでよ!」


賑やかな笑い声が、

展望デッキの張り詰めた空気を

柔らかく溶かしていく。


それから4人は、

時間を忘れて最果ての景色を楽しんだ。


とりとめのない会話を交わし、

ただ流れる時間を共有する。


気づけば、街の景色は、

燃えるような夕焼けの

茜色に染まり始めていた。


光が再び、ガラス越しに

赤く染まっていく街を見つめる。


「……東京って、こんなに広いんだ……」


美咲はそっと光の隣に寄り添うと、

その華奢な肩をポンと優しく叩いた。


そして、

夕日を反射する硝子を見つめながら、

微笑みを返した。


「この、大きな街を……


私たち自身の手で

守っているんだなって思うと、

なんだか不思議な気持ちになるわよね」


悠真はその二人のやり取りを、

肯定も否定もせず、

ただ黙って赤く染まる

コンクリートの砂漠を

見つめることで聞いていた。


朱に染まる世界に融解するように、

光がポツリと言った。


「……お母さんも、

この景色を見たことあるのかな」


一瞬だけ、

全員の口から言葉が消え、

静かな沈黙が降りた。


美雲希という名の、

かつてこの街を駆けた英雄。


今は亡きその名の重みが、

夕暮れの影を長く伸ばす。


だがすぐに、

彩花がその沈黙を引き裂くように、

弾んだ明るい声で返した。


「きっとあるよ!


だってひかりのお母さんだもん、

もしここに登ったら

『わー! 高いー! すごーい!』って、

誰よりも一番にはしゃいでそうじゃない?」


彩花の言葉に、

光の脳裏に、生前の母が

子供のように目を輝かせてはしゃぐ姿が

鮮明に浮かび上がってしまった。


それはあまりにも

容易に想像できる光景だった。


「あはは……っ!」


光の口から、

自然と温かい笑い声が溢れ出す。


胸の奥にあった寂しさが、

親友の優しい嘘によって救われた瞬間。


美咲は、そんな二人の

救い合うようなやり取りを、

目を細めて、優しく見守っていた。


「さぁ、そろそろお腹も空いてきたし、

下に一度戻ってカフェで休憩でもしない?


美味しいケーキセットがあるみたいよ」


美咲の魅力的な提案に全員が笑顔で頷き、

名残惜しそうに展望デッキを後にした。


帰りのエレベーターへと向かう途中。


光は、ふと何かに引かれるように立ち止まり、

振り返って、ガラス越しに広がる

広大な空を見上げた。


夕闇が、ゆっくりと茜色を侵食していく。


(お母さん……。


お母さんと一緒に、

この広い空を、見たかったな……)


チーン、と静かな電子音と共に、

帰りの下りエレベーターの扉が開く。


美咲たちに続いて

乗り込もうとした彩花が、

後ろでまだ光が外の景色に見入ったまま

立ち尽くしていることに気づいた。


「ひかりー!


早くしないと、

扉閉まっちゃうよ!


置いてくからねー!」


「あ……っ!」


親友の呼ぶ声に

ハッと我に返った光は、

慌てて空から視線を外し、

エレベーターに向かってトトト、と

小走りで駆け寄った。


「ちょっと待ってー!


置いてかないでよ、彩花ー!」


滑り込むようにして

エレベーターに飛び乗る光。


閉まる扉の向こう側、

街の灯が輝き始めた東京の空が、

ゆっくりと視界から遮られていった。


硝子越しに夕闇が迫るカフェのテラス席。


運ばれてきた

温かい飲み物の湯気の向こうで、

美咲が双眸を和らげ、

温かい目で光を見つめた。


「光……。


昨日の、班長との

特別訓練はどうだった?」


不意の問いかけに、

光は手元のカップから視線を外し、

窓の外の暮れゆく空を見上げた。

昨日の訓練の記憶を反芻し、

少し考えてから言葉を紡ぐ。


「……やっぱり、

班長って凄いな……って、

ただ純粋に思いました。


私も、いつか

誰かを絶望から救って……


さらにその先で、

誰かの道標として立てるような、

そんな存在になりたい。


今は……


まだ、全然なんですけど……」


気高い誓いだった。


美咲が慈愛を込めて優しく微笑む。


「焦らなくていいわ。


……さあ、今日は

ゆっくり楽しみましょう?」


「はい!」


光が小さく頷くと、

隣で楽しげにメニュー表を

指でなぞっていた彩花が、

弾んだ声で提案した。


「じゃあ、私たちはカフェオレにしよう!


ひかり、こういう甘いやつ大好きだよね?」


光は少し照れくさそうに、

けれど子供のように嬉しそうに頷いた。


「……うん、カフェオレいいね。


甘いやつにする」


そんな素直な幼馴染の反応が

愛おしくてたまらないといった風に、

彩花は光の肩をぐっと

自分のほうへ抱き寄せた。


「ひかり、今日本当に楽しかったね!


また、絶対にこの4人で来ようね!」


「うん……!」


幸せな時間というのは、

瞬く間に帰路へと収束していく。


夕方、帰りの車に向かう途中

冷たいアイスクリームを片手に、

燃え尽きようとする夕陽を

橋の上から眺めていた。


光が真面目な顔で、

自分の持っている

青いアイスクリームを見つめ、

ぽつりと溢した。


「……あやか……これ……。


ペンギン味だ!」


「……ラムネ味だ」


悠真の居合斬りのような突っ込み。


光の動きが止まった。


「――っ」


光はみるみるうちに耳の付け根まで

顔を真っ赤に染め上げると、

動揺を誤魔化すように

アイスクリームを大きく一口、

がぶりと食べた。


そして、そのまま限界まで

顔を背けて視線を逸らす。


次の瞬間、彩花と美咲が、

同時に堪えきれずに吹き出した。


「ひ……ひかりっ、今の可愛すぎる!


最高!


ペンギン味って何!?」


「ふふ……


光、さっき水族館で

ペンギンを見すぎたんじゃない?」


「~~~っ!」


光は頭から湯気が出そうなほど

真っ赤になりながら、ただ無言で、

必死にアイスクリームを口に運び続けた。


4人の温かい笑い声が、

夕陽に赤く染まるアスファルトの道に、

優しく響き渡っていた。


——その時だった。


唐突に吹き抜けた風に乗って。


腐った果実のような

甘く不快な香水の匂いが、

一瞬だけ、4人の空間を掠めて漂った。


「――っ!?」


ハッとして青ざめた光は、

楽しかった日常の残照を振り払うように、

鋭い動きで後ろを振り返った。


しかし、そこにはただ、

家路を急ぐ平凡な人間たちの影が

伸びているだけだった。


光の突飛な行動に、

彩花が不思議そうに

首を傾げて覗き込んでくる。


「どうしたの、ひかり?


急に怖い顔して」


光は一瞬だけ唇を噛み、

次の瞬間には、親友を安心させるための、

いつもの笑顔を作り出してみせた。


「……ううん、なんでもない。


ちょっと、風が冷たかっただけ。


気のせいだよ」


大切な日常を守るための、精一杯の嘘だった。


けれど、

ベージュのパーカーに

隠された左の背中は、

不穏な予感に呼応するように、

静かに熱を帯び始めていた。


さっきまで、

「どこまでも飛べそう」と思えた空は、

いつの間にか夕闇に溶け、

誰にも気づかれないまま、

ゆっくりと色を変え始めていた。


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