第32話 月に叢雲、花に風
雲の隙間から、
まるで異界の深淵から覗くように、
月が冷たく微笑んでいた。
夜も深まった頃。
Sランク妖魔・薄刃恒一の
潜伏先である、古い廃ビルの最上階。
その薄暗い部屋の中央で、
薄刃は一枚のタブレット端末を
無機質に操作していた。
冷たい知性を宿した彼の瞳が、
ディスプレイの青白い光を反射している。
画面に映し出されているのは、
美雲光の直近の戦闘映像。
それが何度も、執拗なまでに、
等間隔のルーティンで繰り返されていた。
その冷徹な双眸は、
画面の向こうで翻る
『白い翼』の構造のみを、
冷酷なまでに観察し、
分解し、再構築していた。
静かにドアが開き、
久我累が部屋の中へと
足を踏み入れてくる。
久我は自らの右手を凝視し、
その内側の握力を確かめるように、
グッ、グッと不気味な生体音を立てて
拳を握りしめた。
肉体はすでに再生を完了している。
けれど、以前のような
『しっくりと来る馴染み』が
まだ腕の生体回路に無かった。
不純物が混ざったかのような違和感。
あの時、右腕を切断された刹那。
光の涙が弾けて飛び、
自らの頬を濡らした――。
あの、世界の境界線が
歪んだかのような不思議な感覚が、
今も脳裏を過り、彼を苛んでいる。
ふと薄刃に目をやると、
画面にはやはり、任務中の光の映像が
リフレインされていた。
「薄刃……
また光ちゃんの研究か?
……俺にも見せてくれよ」
薄刃はわずかにため息をつき、
画面を少しだけ久我の方へと傾けた。
「邪魔をするな。
『龍』への報告を
まとめている最中だ」
久我は薄刃の背後に回り込み、
貪るように画面を覗き込む。
(……光ちゃん。
また会えれば……
あの時、俺の神経系を狂わせた、
あの奇妙な感覚の正体が分かるのか……?)
「美雲光の翼は、
基本構造として左翼のみの不完全な片翼。
そして――
強い妖気が存在しなければ、
安定した展開が行われない。
ここを見ろ」
薄刃の指先が、画面を叩く。
「我々のような
高濃度の妖肢を持つ相手には
翼を顕現させるが、
妖力が微量な下級怪異に対しては、
展開すら出来ていない」
「……ん……?
単に、そんな雑魚相手に
わざわざ切り札を使う
必要が無いだけじゃないのか?」
「いや。
使おうとする仕草は見せている。
……恐らく美雲光は、
我々が戦闘時に放出する余分な妖力を
無意識に吸収し――
それを発動の契機としている」
薄刃の瞳の奥が、
計算通りの答えを導き出したように
昏く光った。
「美雲希の遺伝子情報だけでは
説明がつかない。
……娘自身の、
環境依存の固有適性が加わっている」
久我は腕組みをして、
剥き出しのコンクリートの天井を見上げた。
「ん……。
つまり、どういうこと?」
「簡単に言えば、
光は周囲に強い妖力が存在しなければ、
あの左翼を展開できない。
現状の彼女は、
我々の妖力を喰らって
翼を顕現させることしかできない――
それ以外に特筆すべき能力は無い、
ということだ」
久我の唇が、にちゃりと歪に歪んだ。
けれど、その瞳だけは、
狂人のように本気で輝いている。
「……じゃあ、
俺たちが妖肢を使わなきゃ、
光ちゃんは無力ってことか……?」
薄刃は眼鏡のブリッジを押し上げ、
眉間に深い皺を寄せた。
「理屈の上ではな。
だが、お前の軽率な行動のせいで、
神崎達が光への警戒と護衛を強めてしまった。
まずはあの防壁を排除しなければ、
光の『回収』は不可能だ」
久我は内心で、
チッと激しい舌打ちをする。
「問題は、あの黒崎悠真か……」
久我は画面の中で無防備に笑う光の顔を、
自身の再生した指先でそっとなぞった。
(なぁ……
あれは……何だったんだ?
光ちゃん……
お前は一体、何を持っている?)
薄刃は機械的にタブレットを閉じ、
一切の情緒を排した冷たい笑みを浮かべた。
「『龍』が光のデータを欲しがっている。
とりあえず報告に行くぞ」
「……えー……」
◇◇◇
深夜、港区六本木。
かつて狂騒と栄華を極め、
今は歴史の表舞台から封鎖された
巨大ショークラブの地下深層。
そこは、妖魔の巣窟と化した、
光の届かない暗く広大な空間だった。
その最奥。
『龍』と呼ばれ、
すべてに恐れられる絶対的な存在――
蒼龍黎は、
玉座のごとき巨大な椅子に
腰を下ろしていた。
ただそこに静座しているだけで、
周囲の空間が物理的に重く歪む。
メキメキと不吉な音を立て、
壁や床に走る黒い亀裂。
息を吸うことすら
大気から拒絶されるような、
圧倒的な、密度の高い妖気が
部屋を満たしていた。
薄刃が差し出した光の戦闘映像。
それを、まるで
無価値な塵を見るかのように
興味なさげに一瞥し、龍は低く、
地響きのような声で吐き捨てた。
「……希の娘か。
まだただの小娘じゃねえか。
あの女とはまるで違う。
こんな非力な奴が、希以上だと?
くだらねえ」
薄刃は龍の圧倒的な
プレッシャーに対しても
眉一つ動かさず、
しかし人形のように懃懃に応えた。
「恐らくはまだ、
発展途上の……
機能が未成熟な段階。
しかし、
その内に秘められた潜在能力、
環境適性の底知れなさは、
希以上であると確信しています」
龍は鼻で笑い、
玉座の肘掛けを五本の指先で
不規則に叩いた。
タタ、タタ、と鳴る音が
空間の亀裂を広げていく。
じわり、とさらに漏れ出す妖気が、
部屋の空気を、肉体にへばりつく粘つく
泥のように変えていく。
「ハッ!
おい影目、お前はどう思う?
希に興味があったお前の目から見て、
これがアレ以上か?」
部屋の暗がりの隅、
光の届かない境界から、
銀灰色の長髪を揺らした男
――影目零次が、
静かに声を紡いだ。
「現段階の出力では、
『殲滅班』ほどの脅威は認められません。
……しかし、その『速力』――
因果を置き去りにするような
その速度だけは、
確かに希の領域を超えている。
警戒すべきかと」
龍はふと、さらに部屋の奥、
妖気の濃い闇へと視線を巡らせる。
暗がりに腕を組んで佇む九条が、
無言で、画面を鋭く凝視していた。
「九条。
お前はどう見る」
九条牙狼は、
わずかな沈黙の後、
吐き捨てるように冷たく言い放った。
「……また希絡みか。
薄刃、お前、まだやってんだな」
「結果を出す。
それだけだ」
無表情な薄刃に対し、
九条はフンと鼻を鳴らす。
そして画面の中の美雲光を見つめ、
一瞬だけ、獣のように鋭く目を細めた。
「希の娘、か。
――放置しない方がいい、
とだけ言っておく」
龍は幹部たちの言葉に、
苛立ちを隠しようともせず、
しかし底冷えするような
残虐な笑い声を室内に響かせた。
「……つまらねえな。
希の娘って言うから
少しは期待したんだが、
蓋を開ければただのガキだ。
薄刃、さっさと捕まえて『器』にしろ。
俺が直々に相手する価値もねえよ。
……まあ、あの女の血を引いてるなら、
玩具としては少しは楽しめるかもしれんがな」
薄刃は感情の波を一切見せず、
淡々と冷徹な分析を添える。
「間違いありません。
母親同様、
常軌を逸した妖気への『耐性』を
兼ね備えている。
我らの計画において、
極上の器になるでしょう」
龍の濁った、
底の知れない蒼い視線が、
今度は薄刃の後ろで気配を消していた
久我へと移る。
「おい。そこの根暗」
久我は体内の、
押し潰されそうな不快な衝動と
恐怖を抑え込み、短く応じた。
「……はい」
「お前、またヘマしたらしいじゃねえか……
次はねえぞ」
「……すみません」
久我が悔しげに目を伏せる様を見て、
龍は愉悦を覚えたように嘲るように笑う。
「相変わらず陰気な奴だ。
――おい影目、
この小娘のデータはお前にやる。
こいつらが次もし損じたら、お前が動け。
……あと、『月魄』にも
この動画に目を通させておけ」
影目はその場から微動だにせず、
ただ冷徹な声で一礼を返した。
「了解しました」
その返答と共に、
六本木の地下深層は、
さらなる昏い沈黙へと沈んでいった。
◇◇◇
龍のアジトを後にし、
夜の街へと出た薄刃と久我。
久我は張り詰めていた糸が
切れたように肩を落とし、
歩きながら、小さく溢した。
「……龍は怖い、相変わらず……。
あの漏れ出す妖力だけで、
身体の芯が震える……」
薄刃は前を見据えたまま、冷淡に返す。
「当然だ。
純粋な妖気総量だけなら、
現存個体の頂点だろう。
怯えるのも無理はない」
夜の底を這うような冷たい風が、
二人の男の外套を不規則に揺らしていた。
濡れたアスファルトが、
雲の隙間から漏れ出す
頼りない光を乱反射させている。
久我はチラリと、
隣を歩く薄刃の冷徹な横顔を見て、
胸の奥に燻る不可解な疑問を口にした。
「……薄刃……。
これ、俺たちは何処に向かってんだ?」
薄刃はその問いに答えない。
ただ、眼鏡の奥にある感情を排した瞳で、
前方の闇を見据えているだけだった。
やがて、彼は『龍』の本拠地にほど近い、
都市の骸のようにそびえ立つ
巨大な廃ビルの前で、
その規則正しい歩調を止めた。
「このビルだ」
久我は眉をひそめ、
不条理極まりないといった顔をする。
「なんだ? ここは?」
薄刃はそれ以上の説明を拒むように、
錆びついた扉を押し開けた。
二人はビルの中に足を踏み入れ、
光を喪った真っ暗な階段を、
ただ一歩ずつ登っていく。
乾いた足音が、
ガランとしたコンクリートの空間に
虚しく反響した。
「なぁ……薄刃!
ここに何があんだよ?
もったいつけずに言え」
苛立ちを隠せない久我を背に、
薄刃は最上階、屋上へと繋がる
重い扉に無機質な手をかけた。
「ここだ」
ガチャリ、と静かな金属音が闇に溶ける。
開け放たれた視界の先、
コンクリートの広場の端に、
その『影』は佇んでいた。
フェンスに気怠げに寄りかかり、
雨上がりの雲の間から、
うっすらと覗く不完全な月を
じっと見つめている男――
影目。
彼は、薄刃たちの接近に気づきながらも
振り返ろうとはせず、ただ月を見上げたまま、
吐息のような声音でポツリと呟いた。
「ふぅ……『月に叢雲』とは、
まさにこのことですね……」
影目はゆっくりと立ち上がり、
ここでようやく二人のほうへと向き直った。
そして、貴族的な優雅さで、
薄刃に深々とした一礼を捧げる。
「薄刃殿。
今宵はどうされましたか?
貴方がわざわざ私の元を訪れるなど……
珍しいこともあるものですね」
薄刃は影目の言葉を無視し、
その隣へと歩み寄ると、
同じようにフェンスへ身体を預けた。
「影目……
お前も、月なんていう
無価値な天体を見るのだな。
もっと合理的な思考のみで
生きていると思っていたが」
影目はその指摘に、
フッと皮肉めいた笑みを返した。
「ええ……。
恐らく、貴方と私では、
同じ月を見ていても、
その『見方』は
異なるでしょうけれども……」
「そうかもな。
観測者の主観など、
世界の数式においてはノイズに過ぎん」
薄刃は冷たい視線を、
真っ直ぐに影目の瞳へと向けた。
「――本題だ、影目。
お前は、希の娘をどう思う?
あの個体の価値を、どう見積もっている」
影目は一瞬、
薄刃の瞳の奥にある
冷徹な光を覗き込み、
それからまた、
隠れようとする月へと視線を戻した。
「先程、申し上げた通りですよ。
それ以上でも、
それ以下でもありません」
薄刃は言葉を返さず、
蛇が獲物を値踏みするかのような、
微動だにしない視線で
じっと影目を凝視し続けた。
沈黙という名の圧力。
それに根負けしたように、
影目はやれやれと言わんばかりに
肩をすくめ、困ったような表情を浮かべた。
「ふぅ……。
やはり、ミス・希と似ていますね。」
薄刃は「ハーッ」と、
胸の底から深いため息を吐き出した。
「そんなことは、わざわざお前に
確認するまでもなく分かっている。
私が聞きたいのは、
外見ではない。
……あの『翼』の話をしているんだ」
影目は月を見上げたまま、
淡々と、しかし決定的な言葉を紡ぐ。
「何も外見だけの話ではないですよ。
それに、内面という精神論の話でもない。
もっと深い部分……」
薄刃は冷たい視線を影目に向けた。
「深い部分?」
影目は月を見上げたまま
言葉を紡いだ。
「……そうですね、
人間たちの言葉を借りるなら
――『愛情』、とでも呼ぶのでしょうね」
その言葉だけが、
雨上がりの夜気の中へ
静かに溶けていった。
「……『愛』……だと?」
薄刃はピクリと眉を跳ね上げた。
彼の計算式にない単語だった。
影目はやっと、
薄刃の瞳を見て答えた。
「ええ……
だから私は……
あの方を最後まで
理解しきれませんでした」
影目はそう言うと、
雲に隠れようとする月を
再び、静かに見上げた。
二人の会話を、
少し離れた場所で聞いていた久我が、
不意に目を見開いた。
ドクン、と心臓が歪に脈打つ。
久我は、かつて光との戦闘で傷つき、
そしてあの『白翼』の輝きを間近で浴びた、
自身の右手を見つめた。
(そうだ……。
きっと、そういうことだ。
俺が、……美雲光に感じた、
あの胸の引き裂かれるような
焦燥の正体は――)
影目は久我の動揺を
すべて見透かしたように、
ニコリと残酷なまでに
美しい笑みを浮かべた。
「ええ……。
先程、申し上げました通り、
私と貴方では、
月の見方は異なりますから。
……それでは、私はこれで失礼致します」
影目は薄刃と久我に対し、
慇懃無礼な一礼を残すと、
闇に溶けるように
廃ビルの屋上を去っていった。
薄刃は、その影目が去っていく背中に
「フン」と鼻息を鳴らし、不快感を露わにする。
ふと隣の久我へと視線を巡らせると、
男は呆然とした様子で、自らの右手を
天空の月に重ねるようにして見上げていた。
「おい! 久我……帰るぞ。
これ以上の滞在は無意味だ」
薄刃の冷たい声など、
今の久我の耳には
まるで届いていなかった。
久我は、カタカタと
小さく震える自分の右手を、
ただ凝視している。
狂おしいほどの執着も。
どれほど指を伸ばそうと、
彼の空っぽの掌は、
ただ夜の虚空を掻くだけだった。
それでも彼は。
叢雲の向こうへと
完全に隠れてしまった月を、
まだ諦めきれないように
見上げ続けていた。




