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白翼の光  作者: 月凪
第二巻 希望は時に厄災となって

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第31話 斬術と、継がれる想い


窓の外の雨は、

一向にその勢いを

衰えさせる気配がない。


――ザァァ……ザァァ……。


世界の境界を塗り潰すような単調な雨音が、

執務室の内にまで重く響いていた。


美咲は手早く帰り支度を済ませると、

バッグを手に立ち上がった。


ふぅ、と小さなため息をこぼし、

ガラス窓の向こうの暗い夜を睨む。


「凄い雨ね……。


傘をさしても、

これじゃあ足元まで

ずぶ濡れになっちゃいそう」


その言葉に、

デスクからふと席を立った悠真が、

独り言のようにつぶやいた。


「車で送ろう」


美咲は驚いて、慌てて手を振る。


「いいわよ、気にしないで。


悠真、まだ仕事が残ってるんでしょ?」


しかし、悠真はいつもの淡々とした、

冷静な口調で返した。


「いや。


……光が自宅で

久我の強襲を受けたあの日も、

今日のような雨が降っていた」


悠真の瞳が、雨の帳の向こうを見据える。


「雨は、奴らにとって都合の良い

遮蔽物になるのかもしれない。


大丈夫だとは思うが、

一応、警戒はしておくべきだ」


美咲は腕を組み、

その言葉に当時の記憶を呼び起こした。


「確かに……。


あの日も、視界が白くなるほどの

強い雨の日だったわね」


その時、執務室の扉が静かに開いた。


更衣室で帰り支度を終えた光が、

そこからぴょこんと顔を覗かせる。


「すみません……!


お待たせしました、帰りましょう!」


美咲は先ほどの真剣な表情を消し、

唇を柔らかく綻ばせた。


「光、ちょうど良かった。


今日は悠真が車で送ってくれるって」


「え……!?


いいんですか?」


光が目を丸くして嬉しそうな声を上げる。


その横で、悠真は車の鍵とともに、

『妖魔刀』を躊躇いなく手に取った。


「あぁ。……行こう」


「ありがとうございます!」


光はお礼を言いながらも、

その手元を見て、不思議そうに首を傾げた。


(妖魔刀……?


なんでわざわざ、帰るだけなのに……?)


三人が執務室を出て、

静まり返った廊下を歩き始めると、

前方から大柄な影が近づいてくるのが見えた。


美咲がその姿を認め、ポツリと呟く。


「あ……班長」


光はハッと顔を上げると、

弾かれたように

神崎の元へ駆け出していった。


「班長……!


さっきは、本当にすみませんでした……!」


勢いよく頭を下げる光。


「班長の気持ちも考えないで、


私……自分のレベルに

そぐわない質問をしてしまいました」


神崎は少しだけ驚いたように

目を見張ったが、すぐに困ったように

ポリポリと頭を掻いた。


「いや……。


あれは俺も悪かった。


少し感情的になっちまった。


すまねぇな、光」


いつもの気安い声音に戻った神崎は、

光の顔を覗き込む。


「……これから帰るのか?」


光はコクンと深く頷いた。


「はい!


悠真さんが車で

送ってくれることになりました」


神崎は光の顔をじっと見つめ、

それから、何かを払拭するように

ニカッと白い歯を見せて笑った。


「光。明日は休みだろ?


もし、この後にとくに予定が無いんなら……


どうだ? 俺と、少しばかり

『特別訓練』でもしてみるか?」


「え……っ!?」


光は目を丸くした。


「……私、ですか?」


神崎はニヤッと笑う。


「当たり前だ」


予想外の提案に、

光は驚いて後ろの二人を振り返った。


美咲はすべてを察したように優しく微笑み、

小さく頷いてみせる。


その温かさに背中を押され、

光は満面の笑みで神崎に向き直った。


「ありがとうございます!


班長……よろしくお願いします!」


「じゃあ――」


美咲がニコニコと笑いながら、

光のそばへと歩み寄る。


「私も一緒に、

特別訓練に付き合っちゃおうかな!」


その言葉が響いた瞬間――。


背後から、低く短い声が美咲を止めた。


「……美咲」


美咲が振り返ると、

悠真がじっとこちらを見つめていた。


彼は何も言わず、

ただ「二人にしてやれ」と

無言で促すように、

駐車場の方向へ向けて、

顎をクイッと動かした。


美咲は一瞬でその意図を理解し、小さく頷く。

それから、光の肩をポンポンと優しく叩いた。


「じゃあ……


私は先に帰って、

彩花ちゃんに伝えておくわね。


光は家のことは心配しないで、

班長としっかり訓練しておいで。


美味しいご飯を作って待ってるから」


美咲は「怪我しないようにね」と

悪戯っぽく微笑み、手を振りながら、

悠真と共に駐車場の通路へと歩いていった。


光は少し不思議そうな顔をしながらも、

遠ざかる二人の背中に手を振り返す。


そんな二人を見送るように、

神崎が廊下に響き渡る豪快な声を張り上げた。


「雨強いから、気をつけて帰れよー!」


二人の足音が聞こえなくなり、

廊下に、再び雨音だけの静寂が訪れる。


神崎はニカッと笑うと、

光の肩を親しみ深く叩いた。


「よし!


じゃあ、俺も準備して行くからよ。


光は先に訓練場に行って、

道着に着替えて待ってろ!」


◇


その夜、訓練場に

他の利用者の気配はなかった。


――ザァァ、ザァァ。


世界のすべてを塗り潰すような

激しい雨音が、訓練場に響き渡っている。


網膜を灼くほどに眩しい、白い蛍光灯の下。


外界から切り離されたその光の底で、

神崎と光の二人だけが対峙していた。


神崎は竹刀をひょいと肩に担ぎ、

いつもの豪快な笑みを浮かべる。


「よし、光。


翼に頼らず、

純粋な『斬術』で戦えるように、

今日は特別訓練だ」


神崎は竹刀の先をコンと床に突く。


「お前はまだ、

腕力で突っ込んで

力負けする場面が多いからな。


正面から受け止めるな。


相手の力を受け流すんだ」


光は、掌の汗を拭うように

竹刀を握り直した。


緊張で少し身体が硬くなる。


「……はい。


よろしくお願いします、班長」


訓練が始まった。


神崎の繰り出す一撃は、

ただの竹刀とは思えないほど重く、

そして的確だ。


無駄な動きが一切なく、

光の隙を綺麗に突いてくる。

 

光は何度もその風圧と衝撃に押され、

床に転がった。


「くっ……!」


神崎はすぐに追撃せず、

竹刀を下ろして、

這いつくばる光に声をかける。


「いいか、光。


もう一度言うぞ」


神崎は身振り手振りを交えながら、

自身の足元を指差した。


「刀を構えたまま、

相手を中心に回るんだ。


敵の攻撃を受け流したら、

そのまま自分が円を描く

コンパスになるイメージだな。


――ほら、次は上段から振り下ろすぞ。


真っ直ぐ受けるなよ?」


光は荒い息を整えながら、

どうにか立ち上がって再び構えた。


「はい!


お願いします!」


何度も繰り返される、打突の交差。


神崎の容赦のない、

けれど絶妙に手加減された一撃をいなすうち、

光の動きが少しずつ変わり始めていった。


「そうだ!


軌道を見極めて、

俺の刃のすぐ横をすり抜ける。


相手を翻弄するような、円ステップだ」


短い休憩の合間、

ふっと神崎が動きを止め、

遠い目をした。


光は肩で息を弾ませながら、

その大きな背中を見上げる。


「……これは……。


お母さんの、戦い方ですか?」


神崎は、予想外のところを突かれたように、

少し困ったように笑った。


「ん? ……あぁ」


神崎は前髪をがさりと掻きむしる。


「良く気付いたな……。


何でそう思った?」


「……教えてくれた動きが、

いつもの班長の戦い方とは、

少し違う気がして」


ふと、光の脳裏を一つの光景が過った。


それはさっき、端末の画面越しに見た、

過去の決起会を記録した動画。


無機質なレンズの向こうで、

肩を並べて親しげに

笑い合っている二人の姿。


まだ若く、けれど今と変わらない

豪快さで笑う神崎と――。


そして、泥酔した神崎に呆れながらも、

つられるように柔らかな笑みを浮かべる、

母・希の姿。


「班長は……


その……


お母さんと……

仲が良かったんですか?」


神崎の瞳に、かすかな憂いの色が過った。


彼はそっと手を伸ばし、

光の頭を優しく、酷く愛おしそうに撫でた。


「……ああ。


あいつは、そういう

戦い方をする奴だった」


神崎は、細めた目の奥で、

かつての戦場を見ていた。


「何度も無茶しやがってな。


正面からぶつかるより、

相手を振り回して

死角をとるような

戦い方をしていた。


……そして、お前も」


一瞬、神崎の言葉が途切れる。


「その血を、確かに引いている」


光の胸の奥で、熱い想いが広がっていく。

 

神崎は感傷を振り払うように

竹刀を構え直すと、

いつもの豪快な笑みに戻った。


「さあ、もう一回だ、光!


守りてぇ相手を思い浮かべろ。


その一歩だけは、絶対に迷うな」


光は、自身の指が

白くなるほどに竹刀を握りしめた。


背中にあるはずの『翼』は出さない。

いや、出せない。


けれど、ただの戦士として、

神崎へと肉薄した。


何度も床に転がり、

骨が軋む悲鳴を聞きながらも、

光は立ち上がり続けた。


神崎は光の足運びを見つめた。


真正面から受けていた少女が、

初めて半歩だけ、刃を”流した”。


その姿が、遠い日の誰かと重なる。


神崎の瞳がわずかに揺れた。


思わず息を呑む。


「似てきたな……」


「え……?」


「いや、何でもねぇ。


――今日はここまでだ」


光は、今なお武者震いに震える手で

竹刀を握ったまま、小さく頷いた。


翼は出なかった。

けれど、自分の足で前に出た。


その一歩だけは、

確かに光自身のものだった。


訓練を終えた光は、

訓練場の外階段に腰掛けていた。


いつの間にか雨は止んでいて、

雨上がりの澄んだ空気と、夜の冷気が、

火照った肌を優しく撫でていく。


雲の隙間から見守るような

僅かに覗く月を見上げながら、

タオルで額の汗を拭った、その時。


ひやり、と首筋に無機質な冷たさが走った。


「わっ!?」


驚いて振り返ると、

そこには神崎が立っていた。


自販機で買ったばかりの、

結露したスポーツドリンクの缶を、

いたずらっぽく押し当ててきている。


「ほら……喉、乾いただろ?」


「班長……ありがとうございます」


光は小さく一礼し、それを受け取った。


冷えたアルミ缶を開ける音が、

静かな夜の空気に響く。


二人は並んで星空を仰ぎながら、

人工的な甘さを喉へと流し込んだ。


ふと、光の口から、

ずっと胸の奥に澱のように

溜まっていた疑問が零れ落ちる。


「あの……


班長は、元々『殲滅班』

だったんですよね?


……どうして、今はここで、

私たちの班長をやってるんですか?」


神崎は少し困ったように

ポリポリと頭を掻き、

視線を夜空の深淵へと戻した。


「なんだ……


知ってたのか。


そうだな……」


彼の声が、いつになく低く、沈んでいく。


「昔、殲滅班だった頃……。


戦場に消えていった仲間を、

俺は何人も見てきた。


――そして、遺された家族もな」


その言葉に、光の胸がズキンと、

鋭い刃で抉られたように痛んだ。


神崎は小さく呟くように、

その言葉を繰り返す。


「死んでいった仲間……」


神崎ははるか遠い夜空を見上げたまま、

掌のアルミ缶を、ギリ……と

軋む音を立てて強く握り締めた。


「その中には、戦友とも親友とも呼べるような……


そんな大事な奴もいた」


神崎は、光の瞳の奥を射抜くように、

真っ直ぐに見つめた。


「俺がこの場所で

『班長』をやっているのはな……


新人を育て、

少しでもそんな喪失者を減らすためだ。


……だが」


無骨で傷だらけの神崎の手が

優しく、光の肩をポンと叩く。


慈しむようなその体温とは裏腹に、

彼の心は、光の手の届かない、

はるか遠くの『過去という名の深淵』に

囚われているように見えた。


「お前に対してだけは……


それだけじゃねぇ気持ちも、

あるのかもしれねぇな」


そう言い残すと、

神崎はくるりと背を向け、

訓練場の出口へと歩き始めた。


「さぁ、シャワー浴びたら帰るぞ。


今日は俺の車で送ってってやる」


―――


シャワールーム。


叩きつけるような熱水が、

光の体から汗と疲労を洗い流していく。


しかし、神崎の言葉だけは、

耳の奥から離れなかった。


(喪失者を、減らすため……)


やっぱり、班長は遠い。

 

(私は……いつになったら、

あの憧れに届くんだろう)


温かい水滴が頬を伝うたび、

神崎が見せてくれた、

あの圧倒的な『背中』が脳裏に浮かぶ。


遠くて、高くて、

けれど世界の誰よりも眩しい存在。


カチリ、とシャワーの栓を

力強くひねって止める。


一瞬で訪れた静寂。


だが、胸の奥には、

消えない確かな熱が宿っていた。


「……私も、いつか。


誰かを守れる人に……」


挿絵(By みてみん)


誰に告げるでもない決意。


湯気で白く曇った鏡の向こう、

不確かに揺れる自分自身に誓うように、

光はシャワールームのドアを開けた。


その一歩からは、先ほどまでの迷いが、

少しだけ消えていた。


パチン――。


誰もいなくなったシャワールームの、

最後の白い光が静かに消えた。


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