第30話 雨の記憶
鼓膜の奥に、
美咲の落とした声が残響している。
それに呼応するかのように、
窓硝子を穿つ雨音は、
さらにその凶暴性を剥き出しにしていく。
ザーザーと、執拗なまでに
部屋を白く塗り潰すほどの奔流は、
光を逃がさないための檻のようでもあった。
激しい雨音のなか、真実の扉が、
音もなく開かれようとしている。
美咲がキーボードを叩く指をふと止め、
別のフォルダを展開した。
その端正な横顔から、
いつもの柔和な先輩としての色が
綺麗に抜け落ちていく。
冷たい静寂。
その隙間を埋めるように、
小気味よく響くカタカタという打鍵音と、
マウスホイールを忙しなく回す
低いノイズだけが、光の聴覚を支配する。
画面の上を、膨大な文字列と
警告を示す赤色のインジケーターが
上へと流れていく。
スクロールする手を止め、
美咲は画面に映し出された男の横顔、
そしてその右腕に刻まれた
禍々しい黒い紋様の写真をじっと見つめた。
そこには、冷徹なシステムフォントで、
こう刻まれていた。
隣に立つ光は、
言葉もなく青ざめた顔のまま、
喉の奥で生唾を飲み込む。
自覚のないままに、
冷たい汗が頬を伝い、
机の上へと落ちていく。
「……これは」
液晶の放つ人工的な光が、
二人の網膜を赤く、昏く灼いた。
【極秘】SS級以上 危険妖魔個体識別データ
■ 基本情報
コードネーム:龍
本名:蒼龍 黎
脅威度ランク:SSS(国家壊滅規模)
現ステータス:妖魔組織化主導者
■ 外見特徴
体格:2メートルを超える巨躯。
強靭に発達した骨格と、
人間を超化させた筋組織を有する。
毛髪・虹彩:
漆黒の短髪。
瞳孔は深く澱んだ、深海のような蒼色。
◾️識別紋様(固有呪紋):
ーー閲覧不可ーー
■ 固有能力・戦闘パラメーター
ーー閲覧不可ーー
■ 行動思想・精神鑑定
ーー閲覧不可ーー
【特例措置命令 / 対「龍」戦術ガイドライン】
ーー閲覧不可ーー
本個体との視覚的接触、
または規格外の妖気が検知された場合、
現在進行中の
全作戦・任務を即座に凍結せよ。
交戦行為は一切を許可しない。
ただちに現場の全防衛ラインを破棄し、
最優先で戦術的撤退を開始すること。
最後の一行──
最優先で戦術的撤退を開始すること。
ただ撤退だけを命じる、
その無慈悲なシステムログを読み終え、
美咲の指が、
キーボードの上でピタリと止まる。
画面に反射する美咲の顔は、
冷や汗でひどく強張っていた。
光は胸の奥が不快に疼くのを感じながら、
思わず息を飲んだ。
「この……龍っていう妖魔、
すごく強いって聞いてるんですけど……
どんな、存在なんですか?」
美咲の声が、世界の境界線を引くように、
わずかに低くなった。
「現在は、港区を中心に活動している、
討魔局が最も危険視している妖魔の一人よ。
SSSランクのなかでも
最上位に位置する妖魔。
──単独で都市を
壊滅させられるクラスの怪物」
一人の人間が、
一振りの刃で対抗できるような存在ではない。
美咲の言葉は、そう冷徹に告げていた。
「今、東京の妖魔が、生存戦略として
少しずつ組織化し始めている……。
その中心、歪みの王座に座っているのが、
この蒼龍 黎だと言われているわ」
光の背筋に、戦慄が走った。
液晶画面に並んだ、
絶望的な交戦禁止命令を睨みつけたまま、
室内の空気は澱み、重く沈み込んでいく。
静まり返った執務室のなか、
唯一、窓の外で降り続く夜の雨音が、
ザーザーと低く、執拗にガラスを叩いていた。
それは世界の終わりを予感させるような、
あまりにも冷たい、拒絶の雨音だった。
「……こういうデータって、
何度見ても鳥肌が立っちゃうのよね」
美咲は自身の白い腕を軽くさすりながら、
光の様子を窺うように言葉を投げかけた。
「光……大丈夫?」
その問いかけに、光は無言のまま、
コクンと小さく顎を引いて頷いた。
「……はい」
大丈夫だ、と自分に言い聞かせるように。
しかし、その硬直した表情が
崩れることはなかった。
液晶の青白い光に照らされた彼女の肌は、
まるで石のように血の気を失い、
目に見えない冷気に曝され続けていた。
美咲は、思考の空白を埋めるように
少し間を置いて続けた。
「龍には、かつて
弟同然に大切にしていた妖魔がいたの。
『虎』という名の妖魔。
龍とほぼ同等の、
天災に等しい力を持つ、
非常に危険な個体だった……」
沈黙を破ったのは、
キーボードの乾いた打鍵音だった。
タ、と、人差し指が『戻る』キーを叩く。
アクティブになっていた
「龍」のウィンドウが閉じ、
データベースの検索一覧画面へと引き返した。
カチ、カチ、カチ──。
マウスホイールが小気味よく回り、
スクロールバーが、
いくつかの凄惨な
戦死ログを跳び越えていく。
目的のファイルを見つけ、
美咲の人差し指が左クリックを二度、
静かに押し込んだ。
カチカチッ。
「これが、その龍の
行動原理を決定づけた……。
すでに『処理済み』とされた、
弟分のデータなの」
新たに立ち上がったウィンドウの最上部に、
血の滲むような赤文字で、
世界から抹消された証が点滅する。
『DECEASED(個体消滅確認)』
その青白い電子の光が、
再び光の顔を、そして彼女の宿命を
冷たく照らし出した。
【アーカイブ・極秘】
SS級以上 危険妖魔個体識別データ
[DECEASED(個体消滅確認)]
■ 基本情報
コードネーム:虎
本名:蒼虎 牙
脅威度ランク:SSS(国家壊滅規模)
最終ステータス:
新宿本部殲滅班所属「美雲希」により討伐。
個体細胞の完全消滅を確認。
■ 外見特徴
日に焼けた小麦色の肌に、
極限まで鍛え上げられた硬質な筋組織。
全身に無数の戦闘傷が刻まれている。
逆立つ鮮やかな金髪と、
捕食者のような琥珀色の瞳。
■ 識別紋様(固有呪紋):
右腕に特殊な漆黒の呪紋が刻印されており、
「黒い炎を纏った虎」の輪郭を形成している。
これは「龍」の紋様と対をなす
生体魔術回路だと推測される。
■ 固有能力
異常な瞬発力と、
因果を無視したような
超高速の突進力を有する。
高濃度の妖力を「妖肢」として展開し、
両腕に巻き付けて打撃力を爆発的に高める。
先端を硬質化させれば、
空間を引き裂くような
超振動の刃としても運用可能。
腕部を肉体変形させて放つ
高密度の収束熱線は、
単一兵器の域を
完全に凌駕する破壊力を誇る。
■ 行動思想・精神鑑定
極めて荒々しく好戦的で、
強者との死闘を至上の喜びとする。
かつては単独で
六本木エリアの全妖魔をねじ伏せ、
頂点に君臨していた。
「龍」の唯一無二の弟分であり、
本個体の討伐が「龍」による
妖魔組織化運動の最大のトリガーとなった。
【処理ログ / タクティカル・レポート】
執行担当: 新宿本部殲滅班/美雲希
作戦結果: ──固有武器『空刃』の
一閃により、 対象の完全殲滅を確認。
当該個体のデータベースへのアクセスは、
今後、記録閲覧のみに制限される。
二人の少女を支配する沈黙は、
まるで光の届かない深海の底のように、
どこまでも重かった。
その静寂の隙間を埋めるように、
ガラスの向こう側から、
夜の雨音がじっとりと室内に忍び込んでくる。
ザーザーと絶え間なく
世界を濡らすその水音は、
まるで体内の熱を
根こそぎ奪い去っていくかのように、
どこまでも冷たく、執拗だった。
「これを、光のお母さん──
美雲希さんが、
たった一人で討滅したのよ」
美咲の声が、
執務室の闇に溶けていく。
「そのあまりにも規格外の功績ゆえに、
希さんは討魔局の歴史において、
『生ける英雄』として称えられたほどだわ」
光は大きく目を見開いた。
(……お母さんが……
一人で……こんな怪物を……?)
胸の奥が、急に熱くざわめきを上げ始める。
これまで記憶の底で、
ぼんやりと「強くて、どこか遠い人」として
片付けていた母親の背中。
突然、届かないほど遠く、高く、
神聖な光を放って、脳裏に立ち上がった。
美咲は、ふと張り詰めていた顔を上げると、
いつもの柔らかな表情で、光に微笑みかけた。
「少し……休憩して、
温かいココアでも飲もっか?
私が淹れてくるから、
そこでちょっと待ってて」
暗転したディスプレイの前で、
光は美咲の優しさに救われるように
微笑み返す。
「ありがとうございます、美咲先輩」
美咲はニコリと笑い、
その細い身体を立ち上がらせると、
廊下の奥にある給湯室へと向かった。
光は、パタパタと遠ざかっていく
彼女の静かな背中を視線で見送ってから、
ふと窓の外へ視線を向けた。
ガラスの向こう側、
そこには夕闇に溶けていく、
どす黒い雨空が広がっている。
(そういえば……
あの日も、こんな雨が降っていたっけ……)
脳裏に過る、
忘却の檻に閉じ込めたはずの記憶。
──ザァァ……、ザァァ……。
絶え間なく世界を侵食していく水音のなか、
美咲が湯気を立てるマグカップを二つ、
両手に携えて戻ってきた。
「お待たせ。
淹れたてだから、
まだ、ちょっと熱いかも」
「わぁ……!
ありがとうございます!」
光は、差し出されたマグカップを
両手で包むように受け取った。
手のひらから伝わる、
陶器越しの確かな熱。
フ、フーッ……と、
小さく息を吹きかけて水面を揺らし、
少しだけ冷ましてから──。
ズズ、と、微かな音を立てて、
一口だけ喉に流し込んだ。
「ハァ……美味しい。
なんだか、すごく落ち着きますね……」
甘ったるいカカオの香りが、
凍てついていた体内の神経を
優しく解きほぐしていく。
美咲もまた、事務椅子の
軋む音を立てて腰かけると、
光の安堵した笑顔に目を細め、
自身もココアを一口、静かに口に含んだ。
「光……大丈夫?」
美咲はココアの温もりを纏わせた声で、
静かに問いかけた。
「あなたのお母さんについて、
かなり衝撃的な事実だったと思う。
……今日はここまでにしておこうか?」
その気遣いは、
世界の裏側を知らぬ雛鳥への、
先輩としての正当な防衛ラインだった。
けれど、光は微かに唇を綻ばせると、
決然とした眼差しで首を横に振った。
「大丈夫です、美咲先輩」
その声には、先ほどまでの弱々しさは
微塵もなかった。
「まだ、続きがあるなら──
私は、それを聞きたいです。
お母さんのこと、
この世界の歪みのこと……。
私もちゃんと、
本当のことを知りたいから」
光の瞳の奥には、
強い意志が宿り始めていた。
美咲は光の強い意志に圧されるように、
一瞬だけ目を見張る。
やがて、諦念と愛おしさが
入り混じったような微笑を浮かべると、
光の頭をそっと撫で、コクンと小さく頷いた。
「……わかった」
美咲の指先が、
再び冷徹な電子の海へと滑り出す。
「じゃあ、続けるね」
そして、カップを持たない左手で、
再びマウスを無機質に操作し始める。
日常と非日常の境界を、
器用に往復しながら。
光は吸い寄せられるように、
再びディスプレイの資料に視線を落とした。
スクロールされた画面の最下部、
そこに表示された広域地図には、
東京都新宿区──
『歌舞伎町エリア』の全域が、
まるで世界から削り取られたかのように、
禍々しい赤色で塗りつぶされていた。
その歪な境界線の形を目にした瞬間、
光の脳内で、バラバラだった記憶のピースが
不意に一つの「線」として繋がった。
(……この、形……。
電車の窓から、いつも見えてた……。
あの、何もない、
コンクリートの壁のような場所……)
「今から二十年近く前、
その『龍』が単独で歌舞伎町を
物理的に壊滅させたの」
美咲が、電子の海に沈んだ
歴史を淡々と紐解いていく。
「当時、希さんはあなたを出産中──
いわば前線から離脱していた
空白の期間だった。
討魔局は保有する総力を結集して
防衛網を敷いたけれど、結果は惨敗。
龍の本体を退けることすら叶わなかった。
……あそこは今も、
結界で隔離された立入禁止区域。
実質的に、妖魔の王座が鎮座する
不可侵のエリアよ」
光はしばらくの間、
液晶が放つ赤い地図を見つめていた。
そこにあるはずの日常が、
二十年もの間、怪異によって
侵食され続けているという事実。
やがて、喉の奥から小さく、
掠れた呟きが漏れる。
「……だから、なんですね」
不意の言葉に、
美咲が不思議そうに首を傾げた。
「何が?」
「新宿駅の近くをとおる時……。
ずっと高い防壁で囲まれて、
立入禁止になってる広い場所がありますよね。
電車からいつも見えるんです。
小さい頃から、
あそこだけ別な世界みたいで、
なんでだろうって、
ずっと不思議に思ってました……」
美咲は、すべてを理解したように
静かに頷いた。
「ええ。
都市の皮膚に刻まれた、
それが『龍』の爪痕よ。
人間がどれだけ日常を装おうとしても、
隠しきれない世界の傷跡」
美咲は、視線を外の景色へと逃がした。
鉛色の空から降り注ぐ雨は、
止む気配すら見せず、
徐々に沈んでいく日の光は
まるで、街の息の根を止め、
深く、深く、濡らし、
沈めていくようにも見えた。
「この未曾有の惨事を機に、
討魔局は『殲滅班』という
対妖魔最高戦力を新設したの。
……美雲希さんや、
私たちの神崎班長が、
その第一期メンバーとして
選ばれた精鋭たちだった」
光は、液晶に浮かぶ深紅の地図から
目を離すことができなかった。
日常という薄皮一枚を剥いだ先にある、
底知れない世界の暗黒。
美咲は、さらに静かに
画面をスクロールした。
表示された東京の広域図──
その南側、
港区・六本木の一部もまた、
同じく世界から削り取られたような
赤で塗り潰されている。
光は思わず、喉の奥で息を呑んだ。
「……こっち、も……?」
「虎よ」
美咲の短い一言に、
光は、もう、まともな声を
出すことすらできなかった。
「希さんが『虎』という天災を屠った後、
『龍』は拠点を六本木へと移した。
だから今、妖魔組織の心臓が
あの辺りにあると推測されているわ」
美咲は、その細い指先を
光の肩へとそっと置き、
呪いを告げるように静かに言った。
「龍はその唯一無二の弟分を殺されたことを、
二十年経った今も深く、深く恨んでいる。
だから……
美雲希の血を引くあなたという存在が、
彼らから狙われる動機としては、
それだけで十分すぎるのよ」
光は、自身の四肢が
微かに震えるのを自覚しながら、
掠れた声で応じる。
「……お母さん。
そんなに、強かったんですね……。
私、何も、何も知らなかった……」
戦う母親の背中など、
一度も見たことがなかった。
いつも優しく笑って、
自分を抱きしめてくれた手のひらが、
世界を滅ぼす怪異を叩きつぶしていたなど、
実感が湧くはずもなかった。
美咲は、そんな雛鳥をあやすように
優しく微笑むと、
光の柔らかな髪をそっと撫でた。
「ええ……。
だからね、光。
希さんのあの日の死には、
何か決定的な『裏』がある。
それだけは、まず間違いないのよ。
薄刃という妖魔が
どれほど危険な個体なのかは
私にも分からないけれど……。
でも、あの『虎』よりも
上位の存在だとは、
討魔局のシステムから見ても、
到底考えられないわ……」
光は、美咲のどこか影を帯びた
横顔を見つめた。
「……確かに……
そう、ですね。
薄刃が、あの『虎』以上に強い妖魔だったら、
確実に『龍』と同等のSSSクラスとして、
データベースに登録されているはずですし……」
「そういうこと」
美咲は、いつもの見慣れた、
深川支部の頼れる先輩としての
優しい笑顔に戻り、
ニコッと光に微笑みかけた。
「私が個人的にアーカイブから
引き出せた情報は、このくらい。
……結論を言うなら、
真っ当な戦術では、
薄刃が希さんを殺害することなんて
絶対に不可能。
どうやってあの英雄の防壁を破ったのか、
そこまでは分からないけれど
──純粋な戦闘とは違う、
何か、別の手段を
使ったんじゃないかしら……」
光もまた、
美咲の笑顔に引きずられるように、
いつもの調子を取り戻した笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、美咲先輩。
……何だか、胸の奥に
ずっと引っかかっていたモヤが
少しだけ晴れた気がします」
しかし。
そう口にする光の胸中には、
晴れるどころか、さらに深く、
暗い「予感」の渦が
急速にその形を成し始めていた。
(あの日……。
お母さんが死んでしまった、
まさにあの時間。
私も、別の妖魔に襲われた……。
あれは、ただの偶然?
もしかしたら、
すべての歯車に、
何か決定的な繋がりが
あるんじゃないのかな……?)
そして、光の脳裏に、
あの絶望の淵で見た光景が鮮烈に蘇る。
(あの時、私を救ってくれた、あの人……。
もしかしたら、あの人なら──
私の知らない真実を、
何か知っているのかもしれない……)
難しい顔をして、
小さく思考の深淵に沈み込んでいく光。
美咲はその頭を、
慈しむように再び優しく撫でた。
「さぁ……。
難しいお勉強はここまで。
そろそろ帰る支度をしましょう?
これ以上遅くなったら、
家で待ってる彩花ちゃんに、
本気で心配されてしまうわ」
光は、弾かれたように顔を上げると、
ニコッと笑って応じた。
「はい!」
美咲は、自席の端末を
シャットダウンするべく、
マウスをクリックする。
その暗転していく画面の隅──
一瞬だけ、網膜に焼き付くように
『薄刃恒一』の文字列が明滅した。
美咲の瞳が、凍りついたように細められる。
(『薄刃恒一』……。
もしかして、私の父さんを殺したのも──
この、妖魔なのかもしれない……)
美咲のモニターは、
二人の情念を吸い込むように、
やがて完全な真っ黒へと反転した。
窓の外の雨は、
世界の境界線を拒むように、
止むことを知らずに降り続いている。
まるで、抗うことも許されずに
消えていった、誰かの涙のように。




