第29話 その叱咤は雨に濡れて
窓の外では、
シトシトと絶え間なく
雨が降り続けていた。
静まり返った
討魔局深川支部の執務室。
外の闇が深くなるにつれ、
窓ガラスに映る室内の明かりが
鮮明になっていく。
等間隔に配置された街灯が、
アスファルトのあちこちにできた水溜まりを
鈍く、冷たく照らし出していた。
「んー……っ」
今日の分の
業務報告書を書き終えた光は、
椅子の背もたれに体を預け、
小さく声を漏らしながら
両腕を上に伸ばした。
凝り固まった体をほぐしてから、
デスクに置かれたPC端末を
シャットダウンしようとマウスを握る。
画面右下の電源マークへと、
矢印のカーソルを滑らせていく。
しかし。
光の指先は、
そこでピタリと止まった。
まぶたを閉じると、
さっきまで動画データで見ていた
母・希の姿が鮮明に蘇る。
あの優しく、そして誰よりも
頼もしかった母の笑顔。
(……あんなに強いお母さんが……。
どうして、負けたんだろう)
胸の奥に澱のように
沈殿したその疑問だけが、
どうしても消えてくれなかった。
どんなに考えても、
答えに辿り着けない。
光は再びマウスを動かした。
電源マークからカーソルを離し、
討魔局が管理する
妖魔データベースの
検索窓へと移動させる。
そして、キーボードを叩き、
ゆっくりと文字を打ち込んだ。
『薄刃 恒一』
カタ、と静かな打鍵音が響く。
検索ボタンをクリックした光は、
思考を落ち着かせるように
デスクの引き出しを開け、
常備しているチョコレートの箱から
一粒を取り出して口に含んだ。
カカオの甘みが広がるのと、
画面が切り替わるのは同時だった。
次の瞬間、光の瞳が驚きに見開かれる。
ディスプレイ一面に表示されたのは、
網膜を刺すような
禍々しい赤色の警告画面だった。
【殲滅班 優先案件】
閲覧権限不足。
一部情報を制限しています。
急に赤く染まった画面の圧迫感に、
光は思わず息を呑んだ。
心臓の鼓動が少しだけ速くなる。
外の雨は、光の心音と重なるように、
世界の境界を融かしながら、
急速にその強さを増していた。
光は、背徳感に似た緊張を覚えながら、
恐る恐る画面下部に表示された
『NEXT』のボタンをクリックした。
視線の先に、制限された中での
最低限のプロファイルが映し出される。
◇◇◇
氏名: 薄刃 恒一
ランク: Sランク妖魔
分類: 冷酷な知性体
担当部署: 【殲滅班 優先担当案件】
外見的特徴:
眼鏡の奥に一切の感情を排した、
冷たい知性を宿した瞳。
細身の体躯と人間的な外見。
能力:
ーー閲覧不可ーー
特記事項:
ーー閲覧不可ーー
注意:
未だ討伐例なし。
『龍』と何らかの繋がりがある可能性。
遭遇時は即時撤退・支援要請を優先。
単独交戦は極めて危険。
【殲滅班より警告:接近・接触厳禁】
◇◇◇
「うーん……やっぱり見れない……」
甘さだけが口の中に広がる。
けれど、胸の奥のもやもやは、
少しも溶けてくれなかった。
光は机に頬杖をつき、
肺の底からゆっくりと溜息を吐き出した。
肝心な部分はすべて
黒塗りのように伏せられている。
思考を巡らせる光の指が、
マウスの上でぴたりと固まった。
ふと、隣のデスクで
黙々とキーボードを叩いている
先輩の姿が目に入る。
「美咲先輩……。
殲滅班って、そんなに特別なんですか?」
声をかけられた美咲は、
自分の作業の手を止めることなく、
ディスプレイを見つめたまま
静かに口を開いた。
「ええ、殲滅班は……。
討伐課の中でも、
より優れた実力を持つ者しか抜擢されない、
文字通りのエリート集団よ」
美咲のタイピング音がリズミカルに響く。
「班、っていう名前だけど……。
実際には一つの場所に
集まっているわけじゃなくて、
各支部に散らばって割り振られているわ。
分かりやすく例えるなら、
野球のオールスターチームの
討魔局バージョン、
みたいなイメージかしら。
それが『殲滅班』」
「なるほど……。
すごくよく分かりました」
光の頭の中で、
その組織の特殊性が
ようやく一本の線に繋がった。
そんな光の納得したような表情を見て、
美咲はキーボードから手を離し、
柔らかい微笑みを向けた。
「ちなみに新宿本部は、
危険区域を担当しているから、
ほとんどが殲滅班なの。
各支部には数人ずついて、
この支部なら悠真と、
夜勤でもう一人だけよ」
その、選び抜かれた『殲滅班』が
総力を挙げてマークしている相手。
画面の向こうの
『薄刃恒一』という名の妖魔の危険度が、
恐ろしいほどの現実味を帯びて
光の胸に迫ってきた。
しかし、光の瞳には依然として、
納得のいかない色が色濃く残っていた。
「……悠真さんって、
この……薄刃っていう妖魔とも、
戦ったことあるんですかね?
『殲滅班案件』って書いてあって……。
でも、ほとんどが閲覧不可だから、
何がなんだか分からなくて……」
美咲は今度こそ完全に作業の手を止め、
椅子を回して光へと正面から向き直った。
「うーん……。
私にも分からないわ」
美咲は少し困ったように眉を下げ、
声を潜める。
「殲滅班としての行動は、
すべてがトップシークレットなの。
たとえ恋人同士であろうと、
その業務内容に触れることは
絶対に許されないわ……。
力になれなくてごめんね」
「いえ……そんな!
ちょっと気になっただけですから、
謝らないでください!」
光は慌てて両手を振り、
首を横に振った。
そして、少しだけ視線を落とす。
「ただ……。
あの映像資料を見て、
あんなにお母さんが強かったのに、
それ以上に強い妖魔なのかなって……。
どうしても気になっちゃって」
光は気分を変えるように、
デスクの上のチョコレートの箱に
手を伸ばした。
「どうぞ」と、
一粒を美咲の前に差し出す。
「ありがとう、いただくわ」
美咲はそれを笑顔で受け取り、
小さな塊を口に含んだ。
光と同じように頬杖をつき、
甘みが広がるのを待ちながら、
窓の外の雨へと視線を向けた。
「そうねぇ……。
その資料、外見特徴のところに
『冷たい知性を宿した瞳』って
書いてあるでしょう?
だとしたら、
その薄刃って妖魔は、正面からの力勝負で
戦ったわけじゃないのかもしれないわね」
「力勝負、じゃない……?」
「ええ。
例えば……周到に罠を仕掛けたり、
卑劣な不意打ちだったり。
前に戦った久我もそうだったけれど、
Sクラス以上の高位の妖魔って、
人間社会に完璧に溶け込んでいるのが
一番厄介で、一番怖いのよ」
美咲の言葉に、
光は背筋がゾッとするような悪寒を覚えた。
脳裏をよぎるのは、
あの久我との死闘だ。
まるで普通の人間のような顔をして
電車の中に紛れ込み、
親友の彩花を人質にとって、
自分をおびき寄せた悪夢のような光景。
その時だった。
「おーい! 光!
ちょっといいか?」
部屋の奥、
自席のデスクに座っていた神崎が、
不意に鋭い声で光を呼び止めた。
「はい!」
ハッとした光は、
慌ててディスプレイから視線を外し、
椅子を蹴るようにして立ち上がった。
足早に神崎の元へと向かう。
美咲は、その光の少し緊張した背中を、
静かな目で見つめていた。
「この業務報告のな、
お前が提出した『翼』の記述なんだが……」
モニターを指差す神崎が、
光の書いた報告書について
いくつか指摘を始めている。
光は神妙な面持ちで、
その言葉に耳を傾けていた。
残された美咲は、
ふと、光のデスクで
妖しく赤く光り続けている
PC画面へと目をやった。
そこには、制限された
薄刃恒一の資料が映し出されている。
(お母さんを、殺した妖魔を調べてたのね……)
美咲の胸の奥に、
仄暗い過去の記憶が去来する。
(確かに……。
私も昔、
同じようなことをした覚えがあるなぁ。
結局、私のお父さんを殺した妖魔が
誰なのかは、分からずじまいだったけれど……)
美咲は小さく息を吐くと、
切なさを振り払うように
キーボードを強く叩き、
自分の作業へと戻っていった。
カタカタ……
リズミカルに
キーボードを叩く音が響く。
しかし、それから数分も経たないうちに。
普段の神崎からは想像もつかないような
激しい怒声が、
静かな執務室に響き渡った。
「だめだ!!
お前には教えねぇ!」
びくり、と光の肩が跳ね上がる。
神崎はデスクを叩かんばかりの勢いで、
光を厳しく睨みつけていた。
「その妖魔は『龍』と繋がってる。
だから『殲滅班』の案件なんだ!
そんな妖魔のことを考える暇があるなら、
お前には今のうちに
やるべきことが山ほどあるだろう!」
激しい叱責に、
室内が凍りついたように静まり返る。
神崎は荒い息を整えながら、
冷徹な声で言い放った。
「とにかく、今日はもう時間だ。
帰れ。いいな?」
神崎は立ち上がると、
雨に滲む窓の外を一瞬だけ見つめた。
その険しい横顔には、
怒りではなく、
どこか怯えにも似た色が浮かんでいた。
そして何も言わず、
執務室を後にした。
「……っ、
すみません……でした……」
光は消え入りそうな声で
神崎の背中に謝罪すると、
完全に意気消沈し、
しょんぼりと肩を落として
自席へと戻ってきた。
美咲はタイピングを止め、
驚きを隠せない様子で、
光と神崎の姿を交互に見つめた。
神崎がここまで声を荒げるなど、
滅多にないことだったからだ。
「どうしたの……?
光?」
美咲がそっと声をかけると、
光は少し潤んだ瞳を隠すように
苦笑いを浮かべ、弱々しく答えた。
「薄刃のことを、
班長に少しでも聞こうとしたら……
すごく怒られちゃいました……」
美咲はそれ以上
彼女を問い詰めることはせず、
わざと明るい微笑みを作ると、
傷ついた雛鳥をあやすように
優しく、光の頭を撫でた。
「班長もね……。
ああ見えて、
本部で一番危険な現場を
何度も経験してきた人なの。
だから……
私たち以上に、
あの妖魔の怖さを
知っているんだと思う」
「……はい」
光は力なく頷きながら、
自分のパソコンの電源を落とした。
(……お母さん)
そこにはもう、
さっきまで笑っていた
母の姿は映っていない。
画面の赤い光が消え、
暗転していく。
「……ハァ……。
お母さん……。
あんなに強かったのに、
どうして……?」
ぽつりと漏れたその呟きは、
深川支部の誰に向けたものでもない、
届かぬ母への悲痛な問いかけだった。
美咲は業務報告の提出処理を終えると、
今度は自身の端末で
『薄刃恒一』と検索した。
ディスプレイ一面に表示されたのは、
光が検索したときと同じ
禍々しい赤色の警告画面だった。
この少女に、
世界の裏側を委ねる迷いが、
美咲の思考を鈍く灼く。
彼女が窓の外へ視線を逃がすと、
激しさを増した雨が、
境界を拒むように
ガラスを叩きつけていた。
そして、静かに光の横顔を見つめた。
その瞳には、先ほどまでの
優しい先輩としてのものとは違う、
どこか覚悟を決めたような
鋭い光が宿っていた。
「光。……その話ならね」
美咲は声を極限まで落とし、
光の耳元に囁くように言った。
「一つだけ、
あなたに見せてあげたい資料があるの」
窓の外の雨は、
いつの間にか激しさを増していた。
窓ガラスを激しく叩く不穏な雨音が、
夜の執務室を白く塗り潰していくようだった。




