第26話 黎明の空へ
窓の向こうから、
息をひそめるように、
柔らかな初夏の夕暮れの光が──
白い病室の床へとしずかに舞い降りていく。
オレンジ色の茜光が満ちて、
そこだけ世界の時間が、
あたたかく、優しく、
止まっているかのようだった。
その静謐をそっと解きほぐすように、
病室の重いドアが静かに開いた。
彩花だった。
仕事を全て終えて、
そのまま大急ぎで駆けつけたのだろう。
パンツスーツの姿のまま、
少しだけ息を切らしながら
室内へと入ってくる。
その、日常の熱を含んだ親友の息遣いが、
止まっていた病室の空気を、
ゆっくりと、心地よく動かし始めていた。
「ひかり……ごめんね、
遅くなっちゃった……。
仕事が思ったより長引いちゃって……っ」
光はドアの前に立つ彩花の姿を見て、
心からホッとした、
いつもの柔らかい表情を浮かべた。
「あやか……。
忙しいのに、来てくれて本当にありがとう」
◇
神崎は、親友が到着したその瞬間を、
新しい提案を切り出す
良いタイミングだと判断したようだった。
神崎は彩花の方へと向き直ると、
真面目な顔で静かに切り出した。
「こんにちは、彩花さん。
……佐藤彩花さん、だね?」
不意に、自分より、
ひと回りも、ふた回りも大きな、
神崎から話しかけられ、
少しだけ驚きながらも、
彩花は小さく頭を下げて
丁寧な返事をした。
「はい……。
昨日は、私たちを助けていただいて、
本当にありがとうございました。
神崎さん……」
神崎は顔を少しだけ綻ばせ、
ニカッと豪快に笑って答えた。
「いや。
礼には及びませんよ。
……彩花さん。
実はね、今後の君の生活の安全について、
少し真面目に話しておかなければ
ならないことがあるんだ」
神崎のトーンの低さに、
彩花の表情がほんのわずかに強張った。
「私の……これからの、生活……ですか?」
神崎はいつもの豪快さを完全に排し、
深刻な表情になって言葉を続けた。
「うん……。
昨日、君をあの部屋から拉致した、
久我累という妖魔。
……深傷を負わせたものの、
現段階では、
まだ完全な討伐には至っていない。
その妖魔が、彩花さん、
君の顔も、住所も
完全に把握してしまっている。
……このまま君を、
家に1人で帰すのは危険だ」
彩花は、あの夜を思い出したのか、
不安そうに顔を青ざめさせながらも、
コクリと深く頷いた。
神崎は言葉を重ねる。
「局の保護案のなかで、
俺が一番安全で
確実だと思っているのが――
そこにいる、美咲のマンションで
一緒に暮らすことだ。
既に美咲本人の了承は得ている。
美咲と光、そして彩花さんの3人で、
暫くの間、共に生活するのはどうだろうか?」
彩花は少し驚いたように
丸い目を瞬かせたが、
すぐに真剣な表情へと切り替わり、
ベッドの上で自分を見つめる光の横顔を、
ちらりと視線で捉えた。
「……私……
ひかりと一緒にいたいです。
美咲さんの家で、
お世話になってもいいですか?」
神崎は、その少女の絆の答えに、
満足そうに小さく頷いた。
「そうか。
了解した。
……なら、彩花さんは
今夜はもう一度この病院の
簡易ベッドに泊まってくれ。
明日、光が無事に退院したら、
一緒に必要な最低限の荷物だけを
元の部屋に取りに行って、
そのまま美咲の家に移ってくれ。
――美咲、彩花さんのことを頼んだぞ」
隣に控えていた美咲は、
力強く微笑んで答えた。
「はい!……班長、任せてください」
神崎は次に、
ベッドの上の光の方へと向き直った。
その父親のような無骨な表情が、
少しだけ厳しく引き締まる。
「そして、光。
……帰る場所を失う辛さは、
俺にも痛いほど分かる。
……だが、南砂のあのマンションは
もう危険すぎるんだ。
……正直、
もうお前をあの部屋に
帰すわけにはいかない」
光は世界の裏側へと踏み込んでしまった
自分の宿命を受け入れるように、
小さく、けれど強く俯いた。
「……はい……。
分かってます、班長……」
神崎は、光の小さな肩を見つめ、
その声を少しだけ柔らかく
トーンダウンさせた。
「退院したら当面の間は、
美咲の家で彩花さんと一緒に保護する。
光、賃貸の解約手続きについては
局でサポートする。
焦らなくていい。
今はとにかく、安全第一だ」
光は胸の奥に込み上げる
大人の優しさへの熱いものを
堪えるようにして、
小さく深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます。
班長……っ」
神崎はニカッと豪快に笑いながら、
太い腕を組んで深く頷いた。
――サワァ……。
その時、優しい風が、
開いた窓の隙間から病室の空気を
心地よく撫で抜けていった。
白いカーテンが茜光を浴びて
ふわりと空へ舞い上がり、
オレンジ色の陽射しの中に、
きらきらと淡い光の粒子が、
ほんの一瞬だけ、
奇跡のようにきらめいた。
それはまるで、
遥か遠い天上の境界線から、
新しく踏み出そうとする娘たちの未来を、
静かに、優しく微笑んで
見守ってくれているかのようだった。
◇
――翌日の夕方。
光は医師からの許可を得て、
無事に深川中央病院を退院した。
病院の正面玄関の前。
美咲が、手配した
一台の黒いタクシーの横で、
お姉さんのような佇まいで
待っていてくれた。
彩花が光の荷物を
代わりに持って隣に立ち、
歩きにくそうな光の身体を
優しく支えてくれる。
「ひかり、ちゃんと歩ける?
無理しないでね?」
「うん……大丈夫。
ありがとう、あやか」
3人は並んで
タクシーの座席へと乗り込み、
車は最初の目的地である、
南砂にある光のマンションへと向かった。
誰もいない冷え切った部屋。
光が鍵を開けてドアを開けると、
静かに、その荒らされた
リビングの景色を見回した。
「……ここ……
久しぶりに来たな。
でも、やっぱり、もうここには……
帰れなくなっちゃったんだね……」
ぽつりと呟いた光の背中に、
彩花がそっと自らの身体を寄り添わせた。
「ひかり……。
必要なものだけ持って、
早くここを出よう」
光は荷物をまとめる最中、
念のため、もう一度だけ
クローゼットの奥を調べ直した。
(2人が作ってくれた、
お母さんの人形のキーホルダー……。
本当に無くなっちゃったのかな……?)
しかし、どれだけ探しても、
光が世界で一番の宝物にしていた
あの毛糸の人形は見つからなかった。
(あやか……ごめんね……)
光はフゥ……と
小さくため息を吐きながら、
最低限の服と日用品だけを
キャリーケースの奥へと詰め、
パチリと鍵を閉めた。
部屋を出ると、
3人は再び車に乗り込み、
美咲の住むマンションへと向かった。
エントランスを通り、
エレベーターで一気に最上階へ。
部屋の前まで来ると、
キャリーケースを引いていた光の足が
ピタリと止まり、
少しだけ不安そうに俯いてしまった。
彩花が、心配そうに
その光の可憐な顔を覗き込む。
「……ひかり……?
どうしたの?」
光はゆっくりと顔を上げ、
大きな瞳を揺らしながら呟いた。
「……私……
本当に、ここに住んで
いいんでしょうか……?」
美咲は振り返り、
日常を愛する大人の顔で
優しく微笑みながら、
部屋の鍵を開けた。
「何言ってるの?
だから、連れてきたのよ。
今日からここが、
『私達』の家。」
光は何も言えなかった。
胸の奥がいっぱいになって、
ただ唇を噛み、
小さく頷くことしかできなかった。
ガチャリ……、
と日常の新たな扉が開く音が響いた。
◇
扉を開けて一歩中へと踏み込むと、
すぐにリビングの大きな窓から、
夕陽に染まる東京の壮大な景色が
一面に広がって見えた。
15階にあるその2LDKは、
南砂の街並みが一望できる、
明るくてどこまでも広々とした
美しい部屋だった。
「わあ……すごいっ!
めちゃくちゃ綺麗なお部屋……!」
彩花が玄関でその光景に驚き、
大きな目を丸くした。
光も、少しだけ緊張しながら、
新しい部屋の中を見回した。
美咲はくすくすと笑いながら、
2人分のスリッパを優しく床へと差し出した。
「何もない部屋だけど、
2人とも気兼ねなく使ってね。
この部屋ね。
二人で住むつもりで借りたんだけど……
結局、お互い忙しくて。
ほとんど、私一人で使っていたの……。
二人が来てくれて、
賑やかになりそうで
私はすごく嬉しいわ」
光は重いキャリーケースを下ろしながら、
申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「美咲先輩……
本当にごめんなさい。
急に押しかける形になっちゃって……」
美咲は光の頭を優しく撫でた。
「謝らないの。
光が無事で、彩花ちゃんも、
一緒にいられるなら、それでいいのよ」
夕陽が静かに沈みかけた窓の向こうには、
どこまでも広い街並みが広がっていた。
子供のようにはしゃいでいる彩花と、
それを温かく見つめる美咲。
二人のその日常の体温に触れた瞬間、
光の胸の奥に、じんわりとした
絶対的な安堵の想いが広がっていった。
(――帰る『家』はなくなってしまった。
でも……
私を待ってくれる、
みんながいる……。
私が『帰る場所』は、
なくなっていなかったんだ。)
窓の外の景色を見つめる二人の背中を見て、
美咲は柔らかく微笑んだ。
「ベランダ……
ちょっと出てみる?
気持ちいいわよ」
光と彩花は、子供のように
その大きな瞳をキラキラと輝かせながら、
ベランダへと飛び出した。
二人は手すりにそっと手をかけ、
眼下に広がる夜景を見渡した。
「わぁ……。
景色が、本当にすごいや……」
彩花の隣で、光も小さく深く、
噛み締めるようにして頷いた。
「……うん。
本当に、綺麗だね……。
……でも、あやか。
あやかの家も、
結局帰れなくなっちゃったね……」
光が申し訳なさそうに視線を落とすと、
隣に立つ彩花が、光の細い手を
優しく握り返してくれた。
「大丈夫だよ、ひかり。
ひかりがこうして無事でいてくれるなら、
私の家なんかよりもずっと、ずっと大事。
ここで一緒にいられるだけで……
私は、それだけで十分に嬉しいよ」
光は繋がれた彩花の手の温もりに
包まれながら、静かに、胸の内で
新たな誓いを強く思った。
(――守られるだけの存在から、
いつか、ちゃんと守る側になれるように。
私も、大切な誰かの居場所を、
この手でずっと守っていけるように。
――ここから、また新しく頑張ろう)
窓の外では、
東京の灯りが静かに灯り始めていた。
それはまるで、新しい居場所を
祝福しているかのようだった。
◇
――その夜、
美咲はベッドに横になりながら、
眠れずにカーテンの隙間から
夜空を ぼんやりと眺めていた。
頭の中では、動画で見た美雲希の姿が、
何度も繰り返し蘇っていた。
(たった一撃で、
あのハイクラスの妖魔を
完全に葬り去った……)
目を閉じれば、網膜の裏に
ノイズまみれの映像が鮮やかに浮かぶ。
刃のない銀色の円筒から
純白の光剣を展開し、
空間ごと叩き割るような
飛ぶ斬撃を放つ希の姿。
妖肢ごと真っ二つに引き裂かれ、
黒い雪のように霧散する妖魔。
そして、その直後、
満面の笑顔でピースサインをする、
光に瓜二つの顔。
美咲は胸の奥が
冷たく締め付けられるのを感じ、
小さく息を呑んだ。
(お父さんは……
あんな兵器を、
希さんと一緒に開発していたの……?)
光の顔と希の顔が重なり、
純白の翼と空刃が、
歪に繋がっていくような気がした。
(どうして……
こんな胸騒ぎがするんだろう……)
美咲は湧き上がる
言い知れぬ不安から逃れるように、
布団を頭から深く被り、
小さく丸くなった。
◇
一方――。
同じ屋根の下、彩花もまた、
静まり返った新しい部屋のなかで、
どうしても眠れない夜を過ごしていた。
部屋には柔らかな
間接照明だけが静かに灯り、
大きな窓の向こうからは、
南砂の美しい夜景がキラキラと、
宝石を散りばめたように輝いている。
時折、遠くの大通りを通り過ぎていく
車のヘッドライトの光が、
夜の静寂を規則正しく切り裂いていた。
すぐ横の布団では、光がスヤスヤと
穏やかな寝息を立てて眠っている。
彩花はそっとベッドから手を伸ばし、
光の柔らかな髪を、
慈愛を込めて優しく撫でた。
(光……。
無事に退院できて、
本当に、本当に良かった……)
(でも、光はこれからも……
あの化け物たちと、
命を懸けて戦い続けるんだよね……)
親友の背負ってしまった過酷な運命。
彩花は静かにベッドから起き上がり、
足音を殺して窓辺へと歩き、
カーテンを少しだけ開けた。
深夜の南砂の夜景が、
光の海のようになって煌めいている。
都心に向かって流れていく
車の赤いテールランプと
ヘッドライトの列が、
遠い夜空の星々と混ざり合って、
息を呑むほど幻想的に見えた。
(綺麗……。
まるで、あの公園の夜に見た、
ひかりの翼みたい……)
彩花は窓をほんの少しだけ開け、
流れ込んでくる心地よい冷たい夜風を、
その身に浴びた。
風に解かれた黒い髪が、
ふわりと優しく夜に揺れる。
(あの日……。
光のお母さんの火葬場で、
光は棺にしがみついて、
泣きじゃくって絶対に離れなかったよね……)
(あの光の姿を見た日から、
私は、光を独りぼっちにさせないって
心に誓ったの。
今も……私のその気持ちは、
何一つとして変わらないよ)
少しずつ、世界の夜が明けていく。
夜空の境界線から、黎明の淡い光が、
静かに、部屋の中へと差し込んできた。
ベッドの中の光の可憐な寝顔が、
柔らかな朝の光に優しく包まれていく。
その表情は、傷つきながらも
大切な人を守り抜いた安堵に満ちていて、
とても穏やかで、まるで何かに
優しく守られているかのようだった。
彩花はそっと光の隣のベッドへと戻り、
再び温かい布団の中へと潜り込んだ。
「ふふ……本当に、お伽話の天使みたい」
彩花は悪戯っぽく微笑み、
指先で光の白い頬を、軽く、優しくつついた。
「んっ……」
光は小さな愛らしい寝言を
喉の奥から漏らし、
心地よさそうに
布団へさらにくるまって、
子猫のように丸くなった。
彩花は今度は、
新しく迎えた部屋の白い天井をじっと見つめ、
心の中でそっと、強く誓った。
(本当はね……ひかり。
ひかりに、あんな危ない目になんて、
二度と遭ってほしくない。
ただの、普通の女の子として、
私の隣でずっと笑っていてほしい……)
でも、光はもう、
世界の裏側へと進むその道を
自分の意志で選んだのだ。
彩花は布団の中で、
光の小さな手の温もりに
そっと自分の指先を重ね、静かに微笑んだ。
「だから、お願い……。
なるべく、もう傷つかないで……。
必ず、笑顔で私の元に帰ってきてね」
窓の外では、
新しい朝焼けがゆっくりと広がり始め、
南砂の美しい街並みを、
優しいピンク色へと
染め上げていくところだった。
彩花は光の穏やかな寝顔をもう一度見つめ、
心の中で何度も、祈るように繰り返した。
(私はね、ひかり。
ずっと、ずっとここにいるよ。
光が戦いを終えて、
帰ってくるための『本当の場所』として――)
サイドテーブルに並べられた
写真立てのなかで、母・希は、
いつもと変わらない
優しい笑顔を静かに浮かべていた。
(希さん……。
約束します。
私も……光を守ります)
新しい日常の箱に、
二人の少女の穏やかな寝息だけが、
静かに、温かく響き渡っていた。
まるで、「大丈夫だよ」と
娘たちの背中を優しく押すように。
希の写真は、
夜明けの柔らかな光の中で、
静かに、
どこまでも優しく佇んでいた。




