第25話 空刃
晴れ渡る青空が、
そびえ立つ東京のビル群を、
眩いばかりに照らし出していた。
南砂の街並みが一望できる、
明るくて広々とした
高層マンションの一室。
まるで高級なモデルルームのように
整えられたそのリビングに、
大きな窓から爽やかな朝日が
気持ち良く差し込んでいる。
柔らかな部屋着姿の美咲は、
その大きな窓辺に寄り、
眼下に広がる景色を
ぼんやりと眺めていた。
両腕を上げて大きく伸びを一つ。
それから、手にしたペットボトルの水を
ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干した。
「んー……。本当に、気持ちのいい朝!」
ふと、静まり返ったリビングを見渡して、
美咲の唇から小さな、
寂しげなため息が一つ零れ落ちた。
(この部屋……。
やっぱり、1人で暮らすには広すぎるな……)
あまりにも空白の多い空間。
美咲はすぐに思考を切り替えると、
冷蔵庫から手際よくサラダを取り出して、
朝のニュースの機械的な音を聞きながら
手早く食べ終えた。
洗面台で軽い化粧を済ませ、
鏡の前で紺色の制服の襟を正す。
職場へ向かうための準備を、
素早く、完璧に終えた。
「――行ってきます」
リビングの棚に飾ってある、
父『一ノ瀬 咲也』の
写真に一言、静かにそう告げて、
美咲は玄関の重い扉を閉め、
パチリと鍵をかけた。
◇
――深川支部・討伐課 執務室。
美咲は自分のデスクに腰掛け、
書類を整理しながら、
ふと、隣の席へと視線を移した。
いつもなら、自分が席に着いた瞬間に
「おはようございます、美咲先輩!」と、
あの少し癖のあるブラウンの髪を揺らして、
可憐な笑顔を向けてくれる少女の姿が、
そこにはない。
(光は、あと数日は入院だったわね……)
美咲は、主のいない
綺麗に片付いたデスクに
小さなため息をつくと、
向き直って自分のPCの電源を入れた。
画面が立ち上がるのを見つめながら、
先日、「お母さんのこと、知りたい」と
瞳を曇らせていた姿が脳裏に過る。
(光のお母さん――
美雲希さんのこと。
……私にできる範囲で、
もう少し詳しく調べてみようかな)
美咲は端末を叩き、
局の暗号ローカル網から
過去の公式任務報告の
データベースへとアクセスし、
検索窓に『美雲希』と打ち込んだ。
――任務放棄。
――死亡。
――犯人・Sランク 薄刃恒一。
冷徹に羅列される無機質な電子の文字。
美咲はその画面を見つめ、
美しく整った眉を悲しげに寄せた。
「……これじゃ、
ただの冷たい記録……。
光が見たら、
傷つくだけじゃない……」
(公式の死亡記録を探すんじゃない。
……あの子の求めている、
生前の、『希さんの残響』を探してみよう)
美咲は検索のフィルターを切り替え、
過去の古い討伐記録や、
訓練のアーカイブ、
殲滅班の古い映像データへと
深く潜っていった。
しかし、画面をスクロールする
美咲の指先が、奇妙な違和感に
ピタリと止まる。
資料の整理番号が、
不自然なほどにバラバラに
書き換えられている。
七年前どころか、
それ以前の現役時代のデータが、
ほとんど白濁したように
ノイズがかかっていた。
(何これ……。
希さんに関する主要な情報は、
ほとんど上層部の手によって、
強力な『閲覧権限』がかけられている……?)
美咲はさらに画面をスクロールさせ、
美雲希、討伐課、任務報告、
古い動画ファイル――
ありとあらゆるワードで
検索の網を広げ、
執念深く画面を更新し続けた。
美咲は検索の最深部の
長く更新されていない
旧アーカイブ領域に
ぽつりと残されていた、
1つの古い動画データを見つけた。
《討魔局新宿本部・第3回合同決起会》
記録者:一ノ瀬 咲也
「あ……」
美咲の指が、
キーボードの上で不意に止まり、
その可憐な唇からフッと
柔らかい笑みが溢れた。
(お父さん……)
美咲は半分は興味本位で、
その動画の再生ボタンを
マウスでクリックした。
ザァ、と古い画質のノイズが走った後、
画面には新宿の巨大な宴会場にひしめき合う、
大勢の職員たちの姿が映し出された。
誰もが酒を酌み交わし、
楽しそうに決起会で盛り上がっている。
ふと、画面の隅のほうに、
やけに巨大な、
見覚えのある男の体躯が映った。
(あ……班長だ。
……若い。
すごく若い……!)
そこには、今よりも髪の黒い、
若き日の神崎班長が映っていた。
すでに泥酔しているのか、
顔を真っ赤にしてガハハと豪快に笑いながら、
隣に座る小柄で華奢な女性の肩を
「お前さぁ!」とばかりに
バシンと豪快に叩いた。
――その、次の瞬間だった。
隣の華奢な女性の小振りの拳が、
目にも留らぬ速さで、神崎の頬へと
強烈なカウンターとなって叩き込まれたのだ。
ドガシャァンッ!
吹き飛んだ神崎の巨体が
盛大に後ろのテーブルをなぎ倒し、
持っていたビールを派手にぶち撒ける様子が、
生々しく画面に記録されている。
(え……っ!?
ちょっと待って……)
美咲は驚いて大きな目を丸くし、
動画に映った、
その神崎を殴り飛ばした女性の顔を、
まじまじと見つめる。
画質は荒い。
けれど、画面越しにでも、
美咲にはその輪郭の正体を
完全に確信することができた。
「この顔……」
それは、美咲のよく知っている、
今病院のベッドで眠っている
あの少女の顔そのものだった。
「この人が……美雲希さん……!」
(信じられない……。
光が髪をショートボブにしたら、
そのまんまじゃない……!)
美咲は感動と驚きに目を丸くしたまま、
食い入るようにその古い動画を見続けた。
会場の喧騒と野次馬の声のせいで、
神崎と希が一体何を喋って
怒っているのかまでは聞き取れなかったが、
時折、カメラのすぐ近くから、
周囲の人間と笑いながら話す、
聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。
『希……それはやりすぎだ。
完全に神崎の顎に入ってるぞ。』
美咲の胸の奥が、
懐かしい記憶の熱で小さく震える。
(……お父さんの、声……。
久しぶりに、聞いたな……)
すると、不意に画面の中の希が、
カメラの存在に気づいたように
悪戯っぽく近寄ってきた。
『ねね! 咲ちゃん!
『空刃』のことばっかで疲れてるでしょ?
カメラ代わってあげるよ、私に貸して!』
『いや……俺はいい。
カメラも三脚で固定して
撮ってるから触るな』
『いいって!
いいってば! 』
希が力ずくで、
カメラを奪い取ろうとしたのだろう、
画面が激しく上下反転し、
次の瞬間、カメラの向こうで
困ったように苦笑いをする、
若き日の一ノ瀬咲也の姿が
画面いっぱいに現れた。
(お父さん……。
希さんから『咲ちゃん』って
呼ばれてたんだ……。
私の思っていた以上に、
お父さんは……希さんと、
仲が良かったのかもしれない……)
美咲は胸を
あたたかいもので満たしながらも、
先ほど希の口から飛び出した、
奇妙な単語に引っかかりを覚えていた。
(……空刃……?
どこかで、聞いた気がする……)
「……美咲」
「えっ!?」
美咲が動画を
食い入るように没頭していると、
ふいに、背後から音もなく
近寄ってきた悠真が、
低い声で話しかけてきた。
美咲は驚いてPCの画面を隠すようにし、
慌てて振り返った。
「……あ、あぁ……悠真。
ごめんなさい、気づかなくて。
どうかしたの?」
悠真は美咲の驚き方にも表情を一切変えず、
ただ美咲のデスクにそっと片手を置き、
その眼光をモニターの隅へと向けた。
「いや……。
お前が珍しく、
周囲の気配を完全に遮断して
モニターに集中していたからな。
何か分からないことでも
あったのかと思っただけだ。
――その動画データは?」
美咲は、自分のサボりを
見咎められたようで
少し苦笑いしながら、
正直に答えた。
「あぁ……これね。
光がね、
お母さんのことを調べていたから、
何か私にも手伝えることがないかな……
と思って、古いアーカイブを検索していたら、
たまたまこの動画を見つけて。
少し懐かしくて、見ていたの」
悠真は少しの間だけ
視線を落として考えてから、
静かに言葉を返した。
「光の母親――
美雲希の公式な戦闘記録や機密データは、
強力な『閲覧権限』がかけられているからな。
通常の討伐課の端末からでは、
情報が公開されていないものが大半だ」
美咲は悔しそうに
腕組みをして、息を吐いた。
「そうなのよね……。
資料の件数自体は
たくさんヒットするのに、
何故か、ほとんどのファイルが
ロックされていて
中身が見られないのよ……」
悠真は美咲のデスクに手をついたまま、
神崎のデスクを見た。
神崎は、本部の上層部と会議中で
席を外していた。
「……討伐課のデータがダメなら、
装備開発課のメインサーバーの方なら、
いくらか……光の母親の
当時の武器試験の映像が、
残されているかもしれないな」
美咲は、その予想外の部署の名前に
驚いて目を丸くした。
「装備開発……?
なんでそんなところに
希さんのデータが?」
悠真は静かに、深く頷いた。
「ああ。
討魔局が初めて作った固有武器は、
光の母親の物……らしいからな……」
そう言い残すと、
悠真はいつもの寡黙な背中に戻り、
ゆっくりと自分のデスクへと戻っていった。
(固有妖魔刀……。
適性によって個人に開発される刀。
悠真も以前は使っていたのよね……)
悠真の後ろ姿を見送る美咲の脳裏に、
ふいに、学生時代の記憶が蘇った。
深夜まで灯りの消えなかった、
父の小さな書斎。
床一面に散らばった図面と、
冷めきったコーヒー。
その中央で咲也は、
銀色の筒の設計図を睨みながら、
何度も同じ言葉を呟いていた。
『……空刃の出力が、安定しない』
(――そうだ)
(空刃……。
あれは、お父さんがずっと
作ろうとしていた武器の名前……!)
◇
美咲は悠真の言葉に
突き動かされるようにして、
討伐課のデータベースを閉じ、
装備開発課のサーバーへとアクセスした。
そして、今や自らの胸の中で
激しく警鐘を鳴らしているあの言葉
――『空刃』というワードを
検索窓に打ち込んだ。
しかし、数秒の読み込みの後に
PCの液晶に表示された内容は、
どこまでも冷徹で、無機質なものだった。
――該当件数、0件。
「え……? 該当なし……?」
美咲の指先がピタリと凍りつく。
(何で……?
希さんがあれほど親しげに
口にしていたのに。
……武器の正式名称そのものが、
後から別のものへと書き換えられたの?)
美咲は諦めず、
数年前の装備開発課のログを、
日付順に力任せにスクロールして
一枚一枚なぞるように探していった。
「あ……」
そして――
美咲はある1つの動画データを見つけて、
そのマウスを握る指先を完全に止めた。
希の名ではなく、
廃止済みの試作品番号だけで
登録されたデータだった。
だからこそ、
上層部の検索封鎖から
奇跡的に零れ落ちたのかもしれない。
《試作品実地戦闘記録》
対象:AAA級妖魔
討伐員:美雲 希
後衛:神崎 剛志
美咲は息を呑みながら、
その再生ボタンを強くクリックした。
データが古いせいなのだろう。
画面は激しいノイズにまみれ、
画質はひどく荒く、白濁していた。
映し出されたのは、
広くて人気のない、
演習場のような開けた公園。
その中央に、
先ほどの決起会で見せた
お転婆な笑顔を完全に消し去った、
華奢な討魔局の制服姿の女性
――『美雲 希』がただ静かに立っていた。
希の右手には、
刀身の存在しない柄のような
ただの金属製の「銀色の円筒」だけが
握られている。
彼女が、目の前で
地響きを立てて咆哮をあげる
AAA級の巨大な妖魔と対峙し、
その銀色の筒を正眼に構えた。
次の瞬間――。
その銀の筒の先端から、
まるで光の翼が爆発したかのような、
まばゆい純白の光粒子が
ブワッと凄まじい質量で噴出し、
瞬時に鋭利な「刃」の形へと変化を遂げた。
――ヴゥゥゥゥンッッ!!!!!
空気を力強く引き裂くような、
強烈な重低音の振動音。
まるで空間そのものが激しく共鳴し、
悲鳴を上げているかのような駆動音と共に、
純白に激しく輝く高密度の妖気の刃が、
形を成したのだ。
美咲は、その画面のなかで起きた
奇跡の光景に、大きく目を見開いた。
「……刀身そのものが……
鋼じゃなく、
剥き出しの『妖気』で
形成されているの……!?」
モニターの向こう側。
銀筒から展開した刃は、
出力の上昇とともに、
徐々にその色彩を純白から――
『淡い青色』へと、
美しく変転させていく。
希は手にしたその光の刃を
頭上へと高く振りかぶり、
妖魔との、およそ通常の刀剣では
絶対に届くはずのない、
遥か遠くの間合いの外から――
ただ一気に、一振りの刃を
地面へと振り下ろした。
――ズシャァァァァァアアアッッ!!!
空間を叩き割るような衝撃波。
希の放った光の刃は、
大気を切り裂く圧倒的な
「飛ぶ斬撃」の質量と化して走り、
AAA級妖魔の狂暴な妖肢もろとも、
その強固な肉体を、一瞬にして
真っ二つに綺麗に切り裂いてみせた。
「っ……!?」
デスクの前で、美咲の白い頬を
冷たい汗が静かに伝い落ちていく。
あまりにも規格外な破壊力に、
全身の細胞が恐怖で強張るのが分かった。
(何!?
今の凄まじい一撃は……!?
これは……
本当に、討魔局の妖魔刀なの……?)
美咲は息を荒くしながら、
動画のその斬撃の場面を、
何度も、何度も巻き戻して
繰り返しまじまじと見つめ続けた。
(――いいえ、違う。
妖魔刀は本来、
妖気を『吸い取る』ことで
機能する鋼の刃)
(これは……
そんな妖魔刀だとか、
そういうこれまでの概念で
作られたものじゃない)
美咲は食い入るように
モニターに映る銀色の円筒を見つめた。
(この刀は――
持ち主自身の生来の妖気を
限界まで圧縮し、
直接『刃として形成』してるんだ……!)
希が斬撃を放った直後、
淡い青の刀身が大きく明滅して
純白へと色彩を変えていく。
希はわずかに肩で息をし、
空刃を握る右腕を一度だけ下ろす。
動画の最後には――
巨大な妖魔が粒子化し、
舞い散る黒い雪となって
霧散していく凄惨な光景を背景に、
先ほどまでの冷徹さを
嘘のように消し去って、
満面の笑みを浮かべながら
カメラに向かって走って近づき、
楽しそうに「ピース」をしてみせる
希の姿が、映し出されていた。
画面のなかで、
光と全く同じ笑顔で希が微笑む、
その顔の右下の暗がりに、
冷徹な黒い文字が静かに浮かび上がる。
《試作妖気圧縮兵装》
開発担当:一ノ瀬 咲也
動画の再生が完全に終了し、
画面が真っ暗な虚無に戻った後も。
美咲は全身が金縛りに遭ったかのように
硬直したまま、PCのモニターを、
ただじっと見つめ続け、
その場から動くことができなかった。
「……お父さん……?」
美咲が放ったその呟きは、
誰に届くこともなく、
ただ、隣に光のいない
静まり返った執務室のなかに、
不穏な残響となって木霊していた。




