第23章 愛錠
夜も深まった頃。
人間の日常から完全に隔絶された、
二人の妖魔の隠れ家である
古い雑居ビルの最上階。
家具らしい家具もない
薄暗い部屋の中央で、
薄刃 恒一は
静かに足を組み、液晶モニターの
青白い光の中に座っていた。
細身の体躯と整った顔立ち、
そして眼鏡の奥に一切の感情を排した
冷たい知性を宿した瞳――。
何を考えているのか
決して表情からは読み取れない、
底知れぬ不気味さを纏った男だった。
背後でガチャリと無機質なドアが開き、
久我 累がずるずると
足音を引き摺りながら入ってきた。
先ほど切断された右腕の断面からは、
未だにどす黒い光粒子が
血のように吹き出しており、
その肉体は悍ましい再生の途上にあった。
薄刃は眼鏡のブリッジを
細い指先で押し上げ、
パソコンの画面を
食い入るように見つめたまま、
振り返りもせずに冷淡な声を向けた。
「希の娘はどうだった?」
久我は薄刃の問いに答えることなく、
部屋の隅にある古びたソファに
深く腰を下ろし、
ただぼんやりと薄暗い天井を見つめた。
「……。」
数秒の沈黙の後、薄刃はようやく
キーボードから手を離して振り返り、
久我の惨めな姿を見つめて、
深く、鬱陶しそうにため息を吐いた。
「おい……久我。
聞いているのか?」
久我は、未だに再生しきらない
右腕の痛みに眉をひそめることもなく、
ただ空虚な天井を見つめたまま、
ぽつりと答えた。
「……泣いてた」
薄刃は再び、やれやれというように
深くため息を吐き出した。
「それはデータで見ていた。
俺が聞いているのは、
あの瞬間に展開した
『翼』の妖力の性質についてだ」
久我はまだ、
意識の半分をあの公園の
月光に置き忘れてきたかのように、
ボーッと天井を見つめ続けていた。
「なぁ……薄刃。
あれは、本当に……
喰えば、俺の手に入るのか?」
薄刃は首を少しだけ傾げ、
眼鏡の奥の冷たい瞳を細めて言った。
「あの異常な質量の妖力を、
そのまま吸収する気か?
――今の君の格では無理だ。
もう少し共喰いを重ねて
器を広げなければ、
今のままでは拒絶反応で
肉体が霧散するかもしれないな」
薄刃はフッと冷酷に口元を緩めた。
「しかし、
君の時期尚早な単独行動も、
たまには役に立つんだな。
見切り発車も、度を越えれば、
稀に観測データとして
機能するということか……」
久我は一瞬だけ
薄刃の冷たい横顔を見ると、
ソファから重い身体を立ち上げ、
自室へ向かいながら、
背を向けたままぽつりと呟いた。
「……うーん……。
妖力じゃないんだよな……」
久我がそのまま自分の部屋へと
去っていく背中を見送りながら、
薄刃は理解不能だというように
小さく首を横に振った。
「全く……何の話をしているんだ、
あいつは……」
◇
薄刃は再び椅子に深く腰を沈め、
隠しカメラが捉えた、
光の翼が展開したあの決戦の戦闘映像を、
何度も、何度も繰り返し再生していた。
「……やはり、な」
彼は眼鏡のブリッジを指で静かに押し上げ、
低く、愉悦を孕んだ声で呟いた。
「まさか、こんなに早く
希の娘が覚醒するとは思わなかったが……。
そして、目覚めたばかりの
未熟な力でありながら、
この地球の重力を
あざ笑うかのような機動……」
薄刃は映像をスロー再生に切り替え、
光の背中で純白の粒子が展開する画面を、
じっくりと、
因果を紐解くようにして観察した。
(……やはり。
俺の仮説は、間違っていなかった)
薄刃の脳裏に、過去の記憶が鮮烈に蘇る。
あの時、希の両踝から
瞬間的に放出されていた、
異質な妖気の脈動。
こちらの間合いを無視し、
急に世界の位相を書き換えるようにして
背後を獲られていた、あの異常な制動速度。
「……そうか」
薄刃の口元が、
ほんの僅かに吊り上がった。
「やはり、消滅してはいなかった」
薄刃は画面を静止させた。
そこに映し出されていたのは、
光の左背中から大きく展開する、
美しい純白の翼。
「残り半分は――」
細い指先が、
液晶越しにその輪郭を
愛おしそうにそっとなぞる。
「……あの娘か」
「……ふふ」
薄刃は静かに、
怪しげな笑い声を漏らした。
「興味深いな……。
……本当に、興味深い……」
薄刃は静かに目を閉じ、
その薄い口元には、
すべてをあざ笑うかのような、
わずかな愉悦の笑みが浮かんでいた。
◇
――同時刻、久我累の私室。
窓から差し込む青白い月明かりだけが、
漆黒に満ちた部屋の中を、
冷徹に照らし出していた。
床にも壁にも
何一つとして生活の痕跡はなく、
コンクリート剥き出しの
冷たい部屋のなかに、
無機質なベッドだけが
ポツンと置かれている。
そのベッドの上で、
久我は横たわって、
ただぼんやりと
夜空の月を眺めていた。
久我は残された左手で
ポケットの奥を探り、
そこから、一本の小さな
毛糸の人形がぶら下がった、
古びたキーホルダーを取り出した。
それは、
お世辞にも上手とは言えない、
不器用な手付きで編まれた
小さな毛糸の人形だった。
白いシャツ。
濃紺のベストと、
プリーツスカート。
それは討魔局の女性制服を
不格好に模したような服で、
その小さな胸元には、
白い布の名札が不器用な糸で
縫いつけられている。
『のぞみ』
歪なフォントで、そう書かれていた。
赤い糸で縫われたその小さな口元は、
持ち主を励ますように、
いつも静かに笑っている。
久我はその薄汚れたキーホルダーを、
左手で、天井の青白い月明かりへと向けて
静かにかざした。
「…………」
ただ、言葉を失ったように、
じっと、じっと見つめていた。
世界が寝静まった、孤独な真夜中。
冷たい窓から差し込む青白い光だけが、
右腕を失った怪物の輪郭を、
静かに、優しくなぞっている。
なぜ、こんなゴミのようなものを、
あの家からわざわざ持ってきてしまったのか。
なぜ、美雲希を奪った世界への憎悪のなかで、
これを引き裂き、捨ててしまわなかったのか。
妖魔となり、
全てを汚す久我累自身にすら、
その明確な理由は分からなかった。
ただ――。
赤い糸で笑うその人形の小さな瞳から、
彼はどうしても、自分の瞳を
逸らすことができなかったのだ。
窓の外には、
すべてを知りながら何も語らない、
青白い月がただポツンと浮かんでいる。
それは男の手の中で
不器用に笑い続ける、
小さな『のぞみ』のぬくもりを、
ただ静かに、優しく照らし続けていた。




