第20話 またね
夜の荒川沿いの公園は、
天上の淡い月明かりに照らされ、
静かな幻想の世界と化していた。
木々の葉が夜風に小さくざわめき、
遠くの暗がりから
荒川の低く重い水音が響く中、
たった今ここで繰り広げられた、
世界の理を揺るがすような
激しい死闘の余韻だけが、
まだ冷たい空気に
澱みのように溶け残っていた。
光の翼から零れ落ちた
無数の白い光粒子と、
切り落とされた腕から噴き出た黒い粒子。
その二つの色彩が
ゆっくりと夜空に向かって舞い上がり、
月光にきらめきながら、
境界線の向こう側へと
溶けるようにして消えていく。
久我は、切断された右腕の断面を
左手で激しく押さえ、
人外の肉体をもってしても
耐えがたい苦痛に表情を歪めながら、
眼前に座り込む光をじっと見つめていた。
「ぐぅ……テメェ……っ」
呪詛を吐きかけようとした久我の言葉が、
その喉の奥でピタリと凍りついた。
男は、その縦に裂けた瞳を、
驚愕のなかにハッと大きく見開く。
他者を蹂躙し、
恐怖を喰らうために存在した
自分の、あの汚れた右腕。
それを自分の小さな胸に、
まるで壊れ物を扱うように
ギュッと抱きしめて、
少女がボロボロと、
止めどない涙を流している。
光の涙を見た瞬間、
胸の奥が、知らない熱で締め付けられた。
(なんで……。
なんで、お前が泣いてるんだ……?)
愛という名の概念を
持たずに生まれた欠陥品には、
その少女の涙の意味が、
どうしても理解できなかった。
ただ――。
その、自分のために
流された涙の光景こそが。
生まれてから
今日までの凄惨な泥水のなかで、
自分が何よりも、
世界の誰よりも求めていた
『一番大切なもの』
その答えそのものであるように思えた。
久我は自分が囲まれていることなど、
戦いの現実すらも、
まるで頭の中から
綺麗に忘れてしまったかのように。
よろよろと、
ゆっくりと夜の地面から立ち上がり、
未だに細かく震える左手の指先を、
何かを乞うようにして、
光の小さな身体へと向けて
真っ直ぐに伸ばした。
久我は、喉をかすれさせた震える声で、
ぽつりと呟くように言った。
「お前……。
なんで……?」
その刹那――
「動くな――ッッ!!」
神崎が、重厚な大剣を構え直し、
久我の剥き出しの喉元へと、
数ミリの隙間もなく冷徹に突きつけた。
その声は地を這うように低く、
けれど動く者はすべて両断するという、
歴戦の戦士としての
確かな威圧感を帯びていた。
「そこまでにしろ。
……諦めろ、久我 累」
月明かりを冷たく反射する、
大剣の白銀の刃。
その殺気の輝きが、
久我の眼球のすぐ目の前で
鋭く、鋭利に光る。
それでも――
久我は自分の喉元を
狙う刃など一瞥もせず、
ただ呆然としたまま、
自分の腕を抱いて
涙を流す美雲光のその姿に、
魂を奪われたかのように
狂おしく魅入っていた。
さらにその背後から、
悠真が無言のまま妖魔刀の鋒を
久我の首筋へとピタリと固定し、
男が微動だにした瞬間に
その頸椎を切り裂く、
完璧な戦闘の構えを取っていた。
久我は、神崎班の
二人の刃に完全に包囲されながらも、
光からその視線を
一瞬たりとも外さないまま、
ぽつりと、壊れた玩具のように呟いた。
「何だよ……
それ。
……何なんだよ?……」
やがて――
久我累は、その青白い口元だけを、
ねっとりとした特有の粘り気を持って
三日月のように吊り上げた。
そして、二人の刃に対して
降参を示すかのように、
残された左手を軽く、
無防備に空中へと上げた。
「……ふふ……。
光ちゃん。やっぱり俺は……
光ちゃんを、食べなくちゃいけないよ……」
男の濁りきった瞳の奥に、
かつて希だけに向けていた
執着にも似た灯火が、
今は光へと宿っていた。
「今日は、それを確信したよ。
……また……
また遊ぼうね、光ちゃん……」
久我累という怪異が、
初めて触れた温もり。
だからこそ――
彼はもう、食べることでしか
彼女を愛せなかった。
光は、そう言って
自分に向けて伸ばされていた、
久我のその左手を見つめていた。
(なんでだろう……?)
あれほど自分を怯えさせ、
日常を壊したはずの男のその掌が、
今は不思議と、少しも怖くはなかった。
光は、自分の腕のなかで
徐々にどす黒い粒子と化して
消えかけていく久我の右腕を、
もう一度ギュッと抱きしめ直しながら、
男のその視線に向かって、
コクンと、静かに深く頷いてみせた。
「――っ」
久我は、世界のすべてを
拒絶するはずだった少女が、
自分の歪んだ約束に「頷いた」という事実に、
一瞬だけ驚いたようにその目を見開いた。
そして――
かつて人間であった頃にも、
妖魔になってからも
一度も見せたことのないような、
驚くほど優しく、
穏やかな形にその口元を緩ませた。
次の刹那。
久我の両脚が、
骨を砕くような不快な音を立てながら、
赤黒い妖肢へと変異していく。
さらにその妖肢が
ギリギリと一本に絡み合い、
暗闇のなかで、まるで地獄を疾走する
『黒い馬の足』のような異質な形へと、
急激に変化させていく。
地面のコンクリートを、
蹄のような妖肢が強く、
狂暴に踏みしめる。
その異常な変異の予感に、
悠真の冷徹な一言が
鋭く公園に響き渡った。
「動くな、久我――!」
しかし、悠真の長刀が
空間を切り裂くよりも、
その一瞬のほうが早かった。
――ドンッッ!!!
久我の肉体は、物理的な法則を
完全に無視した爆発的な超速度で、
夜の闇の向こう側へと向けて、
弾かれたように一気に後退した。
それは、彼がこれまで
多くの同胞の妖魔を喰らい、
その魂ごと自分の肉体へと
後付けで組み込んできた、
共喰いの異能。
男の輪郭は、夜の闇のなかに
黒い歪な影だけを鮮烈に残して、
一瞬にして世界の向こう側へと
消え去っていった。
「くっ……!」
長刀を構え直し、
即座にその夜の深淵へと
追撃をかけようとした悠真の肩を、
神崎が素早く、制するようにして
ガシッと掴み止めた。
「待て、悠真。
追うな。
……あれは、共喰いを重ねた妖魔だ」
神崎は大剣をゆっくりと鞘へと戻し、
久我が消え去った暗闇を見つめながら、
苦渋を滲ませるようにして言った。
「別の個体を喰らって、
無理やり手にした後付けの離脱能力だ。
あの速度の逃走を、
この暗闇のなかで追っても無駄だ。
今はそれよりも──光だ」
神崎の視線の先。
少し離れた所で、
光は手にした美咲の刀を地面へと置き、
耐えがたい激痛に耐えるようにして、
冷たい地面へと苦しそうに蹲っていた。
その胸を両手できつく押さえながら、
ゼーゼーと、肺の奥から
悲鳴を上げるような
荒い息を吐き出している。
彼女の左背中に広がっていた、
あのまばゆい純白の片翼。
それは光の意識の混濁とともに、
ゆっくりと、淡い光の粒子へと
その色彩を融かしていき、
光の細い左の肩甲骨の奥へと、
静かに吸い込まれるようにして、
その神聖な姿を完全に消していった。
「はぁ、っ、……く、……う……っ」
異能の完全覚醒、
その強烈すぎる負荷の代償。
光の左背中には、
肉体を内側から焼き尽くされるような、
激しい倦怠感と凄まじい痛みの余韻だけが、
深く残されていた。
「光――っ!!」
「ひかり――ッ!!」
脅威が去ったその瞬間、
背後のベンチから、美咲と彩花の二人が
一瞬の淀みもなく、光の元へと
全力で駆け寄ってきた。
美咲は光の今にも崩れてしまいそうな
華奢な肩を、愛おしそうに
その両腕で強く抱きしめ、
彩花は地面に座り込み、
まだ小刻みに震え続けている
光の細い右手を、
二度と離さないと誓うようにして、
両手で強く、強く握りしめた。
「光、本当によく頑張ったわね……。
大丈夫よ、私たちがいるわ。
もう頑張らなくていい」
「ひかり……っ、
もう帰ろう、ひかりぃ……っ!!」
遠く、江東区の幹線道路の向こう側から、
事態を察知した救助班が鳴らす、
独特な波長の短いサイレンの残響が、
夜の闇を切り裂くようにして
しんしんと響き渡り始めていた。
光は、大好きな、
世界で一番大切な二人の
温もりに包まれながら、
涙に濡れた瞼を、
薄く、ゆっくりと開いて
夜空を見上げた。
(……あやか……無事だった……)
(私……今度は、ちゃんと……
守れたんだ……)
安堵に、胸の奥が
じんわりと温かくなる。
けれど――
光はふと、
先ほどまで久我の右腕を抱いていた
自分の両手へと、静かに視線を落とした。
もう、そこに冷たい腕は無かった。
それなのに。
(……なんで……)
光は掌に僅かに残った
久我の黒い粒子を、
胸元でそっと握りしめた。
(……こんなに……
寂しいんだろう……)
久我累。
自分を傷つけ、
彩花を傷つけ、
日常のすべてを壊した怪物。
その男が消えた暗闇を思い出すと、
胸の奥が、理由も分からず少しだけ痛んだ。
光は、その感情の名前を知らなかった。
ただ――。
久我が最後に見せた、
あの驚くほど穏やかな笑顔だけが、
いつまでも、心の奥から離れなかった。
雲ひとつない、
どこまでも透明で、冷たい夜空。
青白い月明かり。
空間に置き去りにされた、
最後の純白に輝く粒子。
それはまるで、
二人の少女を覆っていた
長い夜の終わりを祝う、
無垢な手向けのようだった。
そして――
凄惨を極めた公園の決戦。
その幕が静かに下りる。
あとに残ったのは、
確かな夜の静寂だけだった。




