第19話 一閃の涙
さっきまで
嵐のようにざわついていた
夜の梢の葉擦れが、
その場に満ちた
圧倒的な刃の冷気に
威圧されるようにして、
一瞬で息を呑んだ。
完全なる静寂の直後。
皮膚を切り裂くような、
凄まじい殺気と共に、
一条の銀閃――
長い妖魔刀が、久我の背後から
その首筋を狙って音もなく肉薄する。
「く……っ!
――チィッ!」
久我は本能的な危機を察知して
咄嗟に光の上から立ち上がり、
肉体を不自然に捻るようにして、
真横へと飛び退きながら、
すんでのところで
その致命的な長刀の
斬撃を躱してみせた。
久我は間合いを取り、
縦に裂けた瞳を激しく明滅させながら、
乱入してきた男の顔を睨みつける。
その表情が、驚愕と嫌悪に歪んだ。
男の顔は、妖魔のなかで、
悪魔の代名詞として有名だった。
――現・討魔局殲滅班
その中で、最強と謳われる者。
「黒崎……悠真……っ!!!」
だが、久我が飛び退いた
その暗がりの先には、
圧倒的な質量が待っていた。
神崎が、その巨体に似合わない俊敏さで、
巨大な大剣を、すでに狙い撃つようにして
身構えていたのだ。
「ぐっ……おおおおおッ!」
退路を断たれた久我は、
背中から生えるすべての妖肢を
盾のように交差させ、
その大剣の猛撃を必死に防御した。
しかし、
神崎の放つ重厚極まりない一撃の質量は、
高位妖魔の肉体をもってしても
完全に相殺することはできない。
骨が軋む音と共に、
久我の体勢がわずかに、
けれど決定的に崩れる。
「テメェ……
俺の部下に手出して、
タダで帰れると思うなよ……。」
神崎の静かな怒号が響き、
大剣と妖肢が激しく火花を散らす、
狂暴な攻防が幕を開けた。
◇
「はぁ、ハァ……っ、……う、く……」
光は激しく乱れる
荒い息を吐き出しながら、
久我の馬乗りから解放された
冷たい地面の上で、
痛む身体を必死に支えて
上半身を起こした。
視界の先で、自分のために
命を懸けて武器を振るう、
仲間たちの背中。
それを見た瞬間、
光の凍りついていた胸の奥が、
熱く、激しく震えた。
(……みんな……来てくれた。
班長も……悠真さんも……)
(私は……
一人じゃなかったんだ……!)
「光……」
不意に、すぐ傍らから冷徹な、
けれど不思議なほどに落ち着いた
低い声が降ってきた。
光はハッとして顔を上げ、
自らの長刀を低く構え直した悠真の、
怜悧な横顔をじっと見つめた。
悠真は光の方を見ようとはせず、
ただ前方で大剣を振るう
神崎の背中を見据えたまま、
ハッキリと、呟くように言った。
「優しいことと、何も選ばないことは、違う」
「――っ」
その、すべてを見透かされたような一言に、
光の胸の最深部がズキンと鋭く傷んだ。
久我の孤独を哀れみ、
自分がすべてを受け入れればいいと
諦めて目を閉じたこと。
それは一見優しさのように見えて、
ただ戦うという選択から逃げ出しただけの
『放棄』に過ぎないのだと、
悠真の言葉は冷酷に定義していた。
悠真は静かに、
言葉を紡ぎ続ける。
「お前がどこで絶望し、
どこで命を諦めるかは、お前の自由だ。
……だが、お前が今ここで諦めたら、
お前を必死に守ろうとした班長や、
美咲の気持ちは、一体どこへ行き着く?」
「美咲……先輩……」
「もし生きていたのなら……。
お前の母親は、
一体どんな感情を抱く?」
「お母さん……」
子供のいじめの言葉。
久我の「化け物の子」という呪い。
そんな暗闇のなかで、
抱きしめてくれた、
希の圧倒的な愛。
光は、大きな瞳をさらに見開き、
その網膜の奥に、確かに火が灯った。
悠真は一瞬だけ、
光のその瞳の輝きを視線に収めると、
静かに続けた。
「そうだ。
その感情が……
お前が選ぶべき答えだ。」
悠真は、久我と神崎が
火花を散らす凄惨な戦場へと向けて、
ゆっくりと、確実に歩みを進めていく。
長刀の切っ先が、
公園の街灯に照らされて
冷たい銀の軌跡を描く。
「…… お前も……
1人で生きている訳じゃない。
お前を繋ぐ無数の心に
お前の命は生かされてる。
それを……忘れるな。」
そう言い残し、
悠真は妖魔刀を自らの顔の横へと引き、
その鋒をまっすぐに久我の急所へと向けた。
男を射殺すような
冷徹な眼光で見据えながら、
その身を電光石火の
踏み込みへと沈めていった。
◇
神崎がその大剣で
久我の赤黒い妖肢を力任せに弾いた、
まさにその一瞬の隙。
悠真は音もなく
素早く突進して間合いを詰め、
久我の胸元で赤く明滅する『核』に向け、
一直線に音を置き去りにする突きを放った。
「く……っ!?」
久我は咄嗟に人外の速度で身体を捻り、
かろうじて核への直撃だけは逸らす。
しかし、悠真の冷徹な刃は、
男の胸の上を一直線に深く掠め、
生々しい一文字の傷を刻みつけた。
「てめぇ……、黒崎ィ……ッ!」
久我は傷ついた胸元から
どす黒い粒子を
激しく撒き散らしながら、
防衛本能のままに
すべての妖肢を
前面へと展開して身を守る。
そして、ズルズルと
湿った足音を立てながら、
神崎たちの間合いの外へと
ゆっくり距離を取った。
光は冷たい地面の上で身体を起こし、
片膝をついたまま、
その圧倒的な最前線の死闘を
じっと見つめていた。
すると、彼女の左背中に眠っていた
純白の翼が、彼女の覚悟に呼応して
再び生き返ったように大きく羽ばたき、
優しい光の粒子を周囲の空間へと
穏やかに撒き散らし始める。
さっきまで、
圧倒的な絶望と
諦めに澱んでいた光の瞳。
そこには今、
まっすぐに久我の輪郭を射抜く、
強固な火が灯っていた。
(悠真さん……。
いつも、一番大事なことを、
ボソッと言ってくれる……)
(私も……まだ、戦える。
ううん……違う。
この戦いは、
誰かに用意された運命じゃない。
……私の、私自身の戦い!)
少し離れた場所で、
美咲はブランケットに包まれた彩花を
優しく介抱しながら、
静かに、けれど熱い信頼を込めて、
光をずっと見守り続けていた。
(……悠真の言葉。
そして……
あの、光の圧倒的な眼差し……)
「光――ッ!!」
不意に、夜の静寂を切り裂いて
美咲が自分を呼ぶ声が聞こえ、
光は驚きながら振り向いた。
美咲は迷いのない動きで、
自らの腰に帯びていた
特式妖魔刀を引き抜き、
光に向かって夜の空間へ
力いっぱい投げ渡した。
「受け取って、光――ッ!!」
「――っ」
夜空を舞う刀。
光は反射的に右手を伸ばし、
その重厚な柄を
空中でしっかりと受け止めた。
美咲が力強く頷いて見せる。
(これ……
美咲先輩の、大切な妖魔刀……。
綺麗……。
でも、それだけじゃない。
美咲先輩が……
これまで、必死で守ってきたもの……
その想いが、全部詰まった刀……)
光は美咲に頷き返して、
美咲の手の温もりが
微かに残る妖魔刀を握り締め、
ゆっくりと立ち上がった。
そして、妖魔刀を鞘へと納めたまま、
光はその身を低く沈め、静かに集中して、
その『刹那の時』を待った。
(久我……
幼い時、私と……この公園で、
一緒に遊んでくれてありがとう。
貴方の気持ち、痛いほど分かるよ……
あなたのその掌は……
ただ、世界の誰かからの温もりを求めて……。
寒くて暗い夜のような世界を、
たった1人で、
ずっと、ずっと彷徨っていたんだね……)
光の視界の先、
神崎と悠真が久我を完全に
圧倒し始めていた。
神崎の大剣が重い一撃を放ち、
悠真の長刀が素早い連撃を加える。
久我はすべての妖肢を
盾のように前面へ展開し、
なんとか二人の猛攻に耐え忍んでいた。
光の背中にある純白の翼が、
さらに強く輝き、周囲の空間を
光の吹雪で満たしていく。
(……でも……
ごめんなさい。
私……私は……
みんなと一緒に生きるよ……。
みんなの心……お母さんの心……
繋いでいきたいから……ッ!)
光の頬を一筋の涙が伝う。
三者の激しい交戦の中で、
ほんの一瞬だけ——
久我の背後にわずかな隙が生まれた。
その瞬間を、光は見逃さなかった。
『――ブワッッ!!』
光の白い翼が爆発的な輝きを放ち、
彼女の身体が一瞬で
超加速の領域へと達した。
風を切り裂くような圧倒的な速度。
久我が気づいたときには、
光の身体はすでに、
完全な真後ろへと滑り込んでいた。
久我は背後の異常な気配に驚愕し、
まるで去りゆく希の幻影を
必死に掴み取ろうとするかのように、
その右腕を虚空へと大きく伸ばした。
だが――
久我の伸ばした右手は、
もう何一つ届かなかった。
「――お前、は……ッ!?」
光は空中へとフワリと身体を翻し、
腰の妖魔刀を一気に鞘から引き抜いた。
舞い散る白い翼の美しい軌跡を
夜空に残しながら、一気に刀を振り抜く。
――シュッ。
鮮やかで、静謐な一閃。
白銀の光の残光が
夜の闇の中に美しい弧を描き、
光に向けて伸ばされていた
久我の右腕を、
根元から綺麗に切断した。
「ぐああああああああっっ――!!!!」
久我は激痛に叫びながら、
その場に崩れ落ちるようにして
ドサリと片膝をついた。
切断面から黒い粒子が
激しく噴き出していく。
切断された右腕も、
黒い粒子を撒き散らしながら
クルクルと夜の宙を舞った。
光は、空中で舞う久我の右腕を、
まるで壊れ物を扱うように
その両腕で強く抱きとめると、
少し離れた場所へと
フワリと静かに着地した。
その鮮烈な一閃に、
神崎は目を丸くして完全に凝固していた。
「今のは……」
数秒の沈黙の後。
悠真はいつも通りどこまでも冷静に、
しかし、その低い声をわずかに、
確かに震わせて答えた。
「……偶然じゃない。」
◇
光は妖魔刀を右手に持ったまま、
ぽつりと両膝をついていた。
そして、自分がその刃で
斬り落とした右腕を、
そっと胸へ引き寄せ、
ギュッと強く抱きしめていた。
光は喉の奥から込み上げる嗚咽を
必死に押し殺しながら、
その華奢な、小さな肩を激しく震わせ続け、
彼女の可憐な頬には、
止めどない一閃の涙が、
絶え間なく伝い落ちていた。
その誰よりも優しすぎる
少女の小さな背中から、
白翼は、ただ彼女の哀しみを労わるように、
優しく、穏やかな光で
その全身を包み込んでいた。
――ザァァァァァーーーーッ。
まさにその瞬間、
公園のすべてを拒絶するような、
激しい夜風が土手を吹き抜けていった。
まるで、少女が背負ってしまった
あまりにも切ない悲しみを、
世界のすべてから
そっと拭い去ってくれるかのように。
夜風に攪拌される空間のなか、
光の純白の翼から溢れ出る
無数の白い光粒子と、
黒い粒子と化していく久我の右腕。
その相容れないはずの二つの色彩が、
夜空のなかで歪に混ざり合い、
互いの境界線を失って
静かに融け合うようにして、
冷え切った公園の夜空を、
いつまでも、どこまでも、
美しく舞い続けていた。




