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白翼の光  作者: 月凪
第一巻 白翼は希望の光となって

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第18話 枷となった掌


彩花は、まるで現実感を喪失した

歪な夢を見ているかのような気分だった。


青白い月明かりの下、

光と久我が繰り広げる

人外の死闘を

ただ呆然と見つめていた。


(あの翼を広げた天使が……

本当に、ひかりなの?)


(まるで、映画の世界みたい……)


現実と非日常の境界線が

完全に曖昧になっていくなか、


――フワリ。


不意に、彩花の細い肩に、

温かい厚手のブランケットが

優しくかけられた。


長い黒髪を

夜の風に美しく靡かせながら、

慈愛に満ちた柔らかな笑顔で

微笑みかける、一人の女性。


「彩花ちゃん……よね?


討魔局・討伐課の一ノ瀬美咲です。

もう大丈夫よ。


本当に怖かったね……

でも、もう安心して」


彩花はまだ恐怖に震える瞳で、

目の前の美しい救世主を見つめた。


「……討魔局……?


あなたが……美咲、さん……?


ひかりが……

いつも、大好きな先輩だって、

嬉しそうに話してくれます……」


美咲は一瞬だけ

驚いたように少し目を見開いたが、

すぐに愛おしそうに笑った。


「ふふ……そうなんだ。

あの子、私のことをそんな風に……」


彩花は再び、

夜空を白銀の蝶のように舞う

光の方を見つめ、

祈るようにして呟いた。


「ひかり……ひかりが……

まるで、本当の天使みたいになって……」


美咲もその言葉に、

いつもの研ぎ澄まされた

真面目な表情へと戻り、

まばゆい純白の翼を見つめた。


「ええ……。


あの『翼』、

私も……初めて見るのよ……」


◇


「ハァ、ハァ……ッ!」


光は乱れる荒い息を

吐き出しながらも、

頭上から、狂暴に振り下ろされる

赤黒い妖肢を

軽やかなステップで次々と躱し、

久我から、一度大きく距離を取った。


――カチリ。


夜の闇のどこかで、

小さな金属音が鳴った。


けれど光の耳には、

もう届いていなかった。


ズキン……ズキン!と、


衣服の下で、

左背中が熱を帯びて疼いている。


(……悠真さんが言ってた……


『自分が守るべき者だけを、

頭の中に思い浮かべろ』って……!)


光は渇いた唾をゴクリと呑み込み、

右手に握りしめた妖小刃の柄を、

ギュッと強い力で握りしめた。


(私が……久我を倒さなきゃ……。


あやかを……守らなきゃ!)


光は意を決して、

夜の地面を爆発的な速度で

力強く蹴り上げた。


「――ッ!?」


久我は、白銀の閃光となって

肉薄してくる光の速度に驚愕し、

背中のすべての妖肢を

一斉に網の目のように叩きつける。


だが、光はそのすべての攻撃を

すり抜けるように回避し、

一瞬にして

久我のがら空きになった心臓部――

赤く明滅する『核』を目掛けて加速した。


(……いける……っ!)


必殺の間合い。


久我は恐怖に顔を歪め、

慌てて後退しながらその両手で

自分の胸元を覆おうとした。


――その瞬間。


男の、あの冷たくて、

傷つけることでしか

温もりに触れられなかった、

悲しい『空っぽな手のひら』が、

光の視界に飛び込んできた。


(本当は……るい君と同じ……)


フッと、商店街で繋いだ

小さな手の温もりが脳裏を過ぎる。


かつては、久我累という

小さな人間の子供だった妖魔。


その底無しの孤独。


光のなかの、優しすぎる慈愛が

決定的な瞬間に弱点と化してしまう。


光は渾身の力を込めて

手にした妖小刃で突きを繰り出す。


――ピタッ!!


「っ……!?」


刃の切っ先が、

久我の核のわずか数センチ手前の空間で、

嘘のようにピタリと停止した。


哀れみの感情が、冷徹な刃を

一瞬だけ鈍らせてしまったのだ。


仕留めきれない――


光は空中でのけぞりながら、

唇を強く噛み締めた。


そして――


妖魔としての久我が、

その致命的すぎる隙を

見逃してくれるはずはなかった。


「アハッ、捕まえた……!!」


光が仕切り直すために

久我の背後へと

そのまま加速して

離脱しようとした、

まさにその刹那。


男の赤黒い妖肢の一本が

光の右足首へと万力のような力で

瞬時に巻き付いていた。


「あっ……!? しま――」


光は一瞬にして

身体のバランスを完全に崩し、

前のめりに地面へと転びそうになる。


けれど、久我の妖肢は

光の足を掴んだまま、その華奢な肉体を

おもちゃのように、一気に夜の空中へと

高く持ち上げた。


「キャア――ッ!?」


光は右足を

妖肢にガッチリと掴まれたまま、

視界が完全に反転する

無防備な逆さまの状態で、

再び夜の空中へと

宙吊りにされてしまった。


◇


重力に従って

捲れ上がりそうになるスカートを、

光は両手で必死に押さえつけ、

羞恥に頬を赤く染めながらも、

その大きな瞳で

まっすぐに久我を見据える。


久我は、光のその無力な姿を見つめ、

その口元をニチャッと醜く歪ませた。


「アハハハハハ!!!


やっと捕まえたよ……。


不様な格好だねぇ、光ちゃん……」


光は再びこの拘束を引き裂こうと、

背中の片翼を淡い青色へと変えていく。


しかし、怪異の放つ暴力の速度は、

少女の未熟な思考を容易く上回る。


「キャアアアアッ!」


足を掴まれたまま、

光の華奢な肉体は夜の空中へと

もう一段高く振り上げられ、

次の瞬間――


そのまま、

コンクリート混じりの湿った地面へと、

容赦なく思い切り叩きつけられた。


――ドンッッ!!!


激しい衝撃音が響き渡り、

土煙が派手に舞う。


背中から地面に叩きつけられた光は、

衝撃で肺の酸素を完全に絞り出された。


「ひゅっ……、


ぁ……、う、く……っ」


声にならない悲鳴が漏れる。


光はあまりの激痛に、

冷たい地面をもがくことしかできない。


背中の美しい白い翼から、

無数の羽根のような純白の粒子が、

ブワッと夜の空間へ舞い散った。


それは暗い荒川の公園に、

まるで儚い雪のように、

静かに、サラサラと舞い散っていく。


「……ふふ……。


甘い、甘い光ちゃん……。


今度は……簡単には切らせない。」


地面に苦しそうに横たわる光を

満足気に見下ろしながら、

久我は自分の汚れた片足を使って、

彼女の細い身体を、ゴロンと

強引に正面向きへと転がした。


久我は仰向けになった光の姿に、

恍惚の笑みを浮かべ、

そのまま光の細いお腹の上へと

重く馬乗りになった。


人間とは思えないほどの高熱が、

逃れようのない肉体の重みとともに、

光の全身を押し潰していく。


胸を圧迫され、

もう翼を動かすことすら叶わなかった。


「アハハハハァ……


光ちゃん……

もう逃げられないね……」


ハァ……、ハァ……、ハァ……。


久我のねばつく視線が

全身を走るのを感じ、

光は反射的にブラウスの胸元を

その両手でギュッと押さえた。


しかし、その必死に

胸元を押さえる光の手首を、

久我の背中の妖肢が、

冷たい万力のような力で

強引に掴み取り、

地面へと大の字に縫い止めた。


「キャ……


いや……ッ、


離して……っ!」


逃げ場のない、数センチの距離。


鼻腔の奥に張り付いて離れない、

吐き気がするほど甘ったるく、

腐った果実の香水の匂い。


久我の開ききった妖肢の『口』が、

鋭い牙を覗かせながら、

光の白い首筋へとゆっくりと迫ってくる。


「希……。


今度こそ……

共に生きていこう。


こいつを……


こいつさえ壊してしまえば、

もう、俺達を邪魔する者はいない……」


その言葉に、光の心臓が大きく鳴った。


(そっか……


この人は、お母さんと共に

人生を歩んで行きたかったんだ。


だけど……


お母さんが握ったのは

この人の手じゃなく……


私の手だった……。)


光の目から一筋の涙が流れた。


自分の暴れる心臓の音を聞きながら、

諦めたように、まっすぐに

久我の空っぽな瞳を見つめ返した。


(……あやかは……。


ちゃんと逃げられたかな……?)


守るべき人は、もう安全な場所にいる。


(だったら……


後は……私がこの人のすべてを、


その孤独も、苦しみも、

私が全て受け入れれば……


全部、綺麗に救われるのかな……?)


それは、どこまでも

優しすぎる少女が選んだ、

悲しい自己犠牲の答え。


光はもう抵抗することをやめ、

震える可憐な瞼を、

ゆっくりと、静かに閉じた。


久我の、獣のような荒い息の音だけが、

夜の公園に粘つくようにして響き渡っていた。


――まさに、光の優しさと尊厳が

踏み躙られようとした、その極限の一瞬。


「──退け」


久我のすぐ後ろから、

氷を滑り落ちるような

冷徹な一言が、

夜の公園のすべての空気を

一瞬にして凍らせ、

静寂をもたらした。


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