第15話 終わりなき夜の彷徨
――それは、
愛という概念を持たぬ欠陥品が、
温もりを求めて世界を汚す、
終わりなき夜の彷徨。
荒川の土手を駆け上がり、
静まり返った公園の中へと
足を踏み入れた光の視界を、
真っ先に射抜いたのは、
そんな救いなき亡霊の姿だった。
青白い月明かりに照らされた、
湿った夜の空気のなか。
薄暗い街灯の下に浮かび上がる
久我累の影は、どこまでも冷たく、
どこまでも空っぽだった。
人気のない、無人の公園。
歪に、どす黒く脈動する
赤黒い妖肢を従え、
大木の幹へと無残に磔にした
親友、彩花の隣でベンチに腰掛ける男。
その久我の輪郭は、
世界のどんな漆黒よりも深く、
夜の闇そのものへと完全に同化している。
それはまるで、古いおとぎ話の怪物が、
生々しく受肉してしまったかのような
絶望的な光景だった。
あまりの異質な存在に、
光は自分の呼吸が
完全に止まるのを自覚しながら、
乾いた喉の奥から、
その男の名前をぽつりと呟いた。
「久我……累……」
久我の背中からは、
古樹の幹を思わせるほどに太く、
赤黒い妖肢が、
まるで極上の獲物を
目の前にした飢えた獣のように、
ウネウネと悍ましく蠢いていた。
久我はベンチからゆっくりと立ち上がり、
両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
その青白い口元を
歪な形に歪めて微笑みながら、
少しずつ近づいてくる
光の華奢な姿を見つめていた。
「おかえり……。
久しぶりだね……光ちゃん……」
ねっとりとした、粘り気のある声。
対する光の、
恐怖と怒りに引き攣る
荒い息づかいだけが、
夜の静けさを切り裂くようにして
公園に響き渡る。
街灯の光すら届かない木陰の奥――。
赤黒く脈動する
不快な妖肢に全身を絡め取られ、
木の幹に磔にされた彩花の姿が、
青白く輝く月光に照らされ、
残酷なほど鮮明に浮かび上がった。
「あやか……!」
生きていてくれたという
一瞬の安堵が胸を過ったのも、
本当に刹那の間だった。
次の瞬間、そこにいた彩花の、
恐怖に怯えきった表情と、
涙でぐしゃぐしゃに濡れた目を見た瞬間、
光の心臓は握り潰されたかのように
激しく締め付けられた。
「今……今すぐ助けるからね……!
待ってて、あやか……!」
光が『妖小刃』を握りしめた瞬間、
磔にされた彩花は
必死に首を横に振って、
枯れ果てた声を張り上げた。
「ダメ――ッ!!
ひかり……来ないで……!
お願いだから、早く逃げて……!」
親友の魂の叫び。
しかし、
その言葉が終わるよりも早く、
久我がゆっくりと、
錆びた機械のような動作で
彩花の方を振り返った。
久我の濁りきった底無しの目の奥に、
世界を呪うような
『怒り』の感情が明確に宿る。
彩花の表情が、本能的な恐怖で
一瞬にして完全に凍りついた。
次の瞬間――。
――ドグシャッ!!
肉と骨が物理的に陥没するような、
あまりにも容赦のない、狂暴な拳。
久我の放った剥き出しの暴力が、
彩花の薄いブラウスの上から、
その柔らかな下腹部へと
無慈悲にめり込んだ。
「――っ!?
ぁ……、……う、っ」
彩花は大きな丸い目を
限界まで剥いたまま、
悲鳴を出すことすらできず、
肺の空気をすべて強制的に吐き出されて、
呼吸を完全に奪われた。
「あやか――ッ!!」
目の前で繰り広げられた
あまりにも悍ましい光景に、
光は大きな瞳を見開いたまま、
瞬きをすることすら完全に忘れていた。
「私ならここにいる! あやかを離して!」
世界が真っ赤に
染まっていくような錯覚のなか、
光の視線は、苦しみに悶える彩花と、
ニタついたままの久我の間を、
激しく彷徨い続ける。
久我は不自然に口元だけを吊り上げ、
その濁りきった瞳で
光をじっと見つめ続けた。
その裂けた眼球の奥にある視線は、
ねばつく欲望を隠しきれていなかった。
「俺の名前……。
ちゃんと思い出してくれたんだね?
ここはさ……
昔、まだ小さかった君と
お母さんと、一緒に遊んだ公園なんだよ。
懐かしいよね……
光ちゃん……」
光は全身を襲う猛烈な恐怖を
必死に堪えながら、
手にした『妖小刃』を、
パチリと音を立てて鞘から抜き放った。
月光を反射して、
小さな白銀の刃が微かに煌めく。
「どうして……。
あやかまで巻き込むの……?
あやかは、何の関係もないでしょ!? 」
久我は、ニチャッと不快に口元を歪めた。
「関係あるよ……。
彩花ちゃんにはさ……。
これから……
光ちゃんが壊れていくところを、
一部始終、
見て貰わないといけないから……」
狂いきったその言葉に、
光の背筋は、
いまだかつてないほどの恐怖と、
おぞましい悪寒に
完全に支配された。
光は必死に呼吸を繋ぎ、
震える声を振り絞って問いかけた。
「久我……あなた……。
お母さんに殺されたことを
恨んでいるの……?
だから、お母さんの代わりに、
私に復讐しようとしているの……っ!?」
久我はククッ、と
ゆっくり喉を鳴らして笑い、
次第にその不気味な笑い声は、
静寂の公園に響き渡るほどに大きく、
狂暴になっていった。
「アハハハッ!
アハハハハハハッ!!
違うよ……!
恨んでなんかいないさ!
むしろ、俺を妖魔にしてくれたことを
感謝してるぐらいなんだよ……!」
久我は笑いをピタリと止め、
その縦に裂けた眼球を
大きく見開いて答えた。
「もし……もしも俺が、
恨んでいる存在がいるとしたらさ。
それは君だよ……光ちゃん……」
「――――っ」
「俺にとっては……
あの地獄のような世界で、
希だけが全てだった……。
でも、君はさぁ……
希の全てなんだ。
希の愛も、
希の視線も、
希の血も、
全部君のなかにある。
だから……食べる。
――それだけだよ、光ちゃん」
光はその底無しの狂気に
息を呑んだまま一歩も動けず、
手にした妖小刃の小さな刃だけが、
夜の冷気のなかで
悲鳴のように震え続けていた。
◇
久我の背中から、
視認できるほどに濃密な、
赤黒い強烈な妖気が
陽炎のように浮かび上がった。
光は覚悟を決めるようにして、
妖小刃の鞘を放り投げ、
両手で剥き出しの白銀の刃を構え直した。
どくどくと暴れる心臓。
(同じ……。
さっきの任務と、まったく一緒……。
私だって、やれる! 大丈夫……!)
――刹那。
強烈な風切り音とともに、
大蛇のごとき質量を持った太い妖肢が、
光の頭上へと狂暴に振り下ろされた。
「――ッ!」
光は反射的に
真横へと地を蹴って跳躍し、
髪の毛一筋の差の、
限界の反射速度で
その必殺の肉撃を躱した。
ドガァンと地面の土が派手に爆ぜる。
久我の青白い表情が、
一瞬だけ驚きに固定され、
その裂けた瞳を見開いた。
「へぇ……。
躱せるなんて、思わなかったよ……」
(目は完全に追いついてる。
反射速度も悪くない……!)
光は着地と同時に
鋭いステップを踏み、
今度は自ら仕掛けるように、
久我に向かって夜の芝生を
猛然と走り出した。
一気にその間合いを詰める。
「意外と速いな……!」
久我がポケットから手を抜いた瞬間、
さらに2本の妖肢が、
左右から光を挟み込むように襲いかかった。
光は突進の速度を緩めず、
鋭く身体を低く屈めて
最初の妖肢を潜り抜ける。
そして、眼前に迫るもう一本の妖肢を、
左手の妖小刃の腹でカァンと
激しく弾き飛ばした。
火花が散り、妖肢の軌道が強引に逸れる。
がら空きになった
男の懐へと飛び込む――
はずだった。
しかし、久我の執念は、
光の予測を凌駕していた。
弾かれ、軌道を変えたはずの妖肢の先端が、
まるで自律した大蛇のように鋭く反転。
妖小刃を握りしめていた光の左手首へと、
グルグルと瞬時に巻き付いたのだ。
「あッ――!?」
鉄の万力で締め付けられたような激痛。
抵抗する間もなく、
光の華奢な肉体は左手首ごと、
軽々と夜の空中へと持ち上げられた。
――キィン……!
カラカラ、カラカラ……。
光の手から零れ落ちた妖小刃が、
無機質なコンクリートの上に落ちて
転がっていく、あまりにも虚しく、
頼りない金属音だけが響き渡った。
唯一の武器の喪失。
「う、く……離し――」
光は必死に、残された右手で
手首の妖肢を引き剥がそうともがく。
だが、その抵抗を嘲笑うようにして、
もう一本の赤黒い妖肢が、
その右手首をも容易に絡め取った。
両手首の完全な拘束。
光は、両手を高く吊り上げられ、
足の着かない空間で
完全に無防備な、
宙ぶらりんの
捕食対象にされてしまった。
不気味な久我の高笑いが、
静かな荒川の公園に響き渡る。
「アハハハハハ……ッ!!
とうとう捕まっちゃったね、光ちゃん……」
光は宙を蹴るようにして
足をジタバタと必死に動かし、
涙目で全身をもがかせた。
「いやッ!……離してっ!!」
久我の濁った視線が、
拘束された光の全身を、
舐め回すようにゆっくりと這っていく。
「光ちゃん……。
この瞬間を……
ずっ……と、待ち続けていたよ……」
羞恥と、恐怖と、
自分の無力さへの圧倒的な悔しさ。
それらすべてが混ざり合い、
光の大きな目から、
大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
甘ったるく、
腐った果実のような
久我の匂いが、
逃げ場のない鼻の奥に
完全に張り付いて離れない。
(……動けない……。
あやか……ごめん……。
私が、私が弱いせいで……!)
頭上を見上げれば、
世界のすべてを覆い尽くすような
久我の巨大な黒い影が、
ゆっくりと、無慈悲に、
自分の全身へと覆いかぶさってくる。
光は、その絶望から逃れるように、
きつく顔を背けた。
激しく震える可憐な瞼が、
ゆっくりと、諦めたようにして閉じていく。
(……もう……だめだ……。
お母さん……)




