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白翼の光  作者: 月凪
第一巻 白翼は希望の光となって

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第16話 空の掌


雲一つない夜空に、

青白い月がぽつりと浮かんでいた。


凍てつくようなその光は、

少女へと覆いかぶさろうとする男の影を、

どれほど所有しても満たされることのない

彼の圧倒的な虚無ごと、

ただ無関心に、静かに照らし続けていた。


「もう……もうやめて――ッ!!」


光の心が恐怖にすくみ上がった、

まさにその時――


張り裂けんばかりの、

けれど決して折れない

親友の叫びが響き渡った。


久我は獲物を汚す寸前だった動きを

ピタリと止め、ゆっくりと、

不気味な動作で首を傾げながら

彩花を振り返った。


「これ以上……


これ以上、ひかりに何かしたら……。


私は絶対に、

あなたのことを

許さないから……っ!!」


彩花が光のために放った命懸けの拒絶。


しかし久我は、

その容赦のない冷徹な平手打ちで、

彩花の白い頬を強烈に弾いた。


――パァンッ!!


彩花の華奢な身体が激しく揺れ、

口元から一筋の紅い血が零れ落ちる。


「あやか――ッ!!」


光は必死に名前を叫んだ。


久我は項垂れる彩花の髪を掴み、

その顎を無理やりこちら側へと向かせた。


「お前さぁ……


黙って見てろって言ったよね……? 」


久我は再び、

宙に吊るされた光の方へと

ゆっくりと向き直った。


彼女が必死に守ってきた尊厳を

剥き出しの悪意で汚そうとする、

狂気の手。


「いやッ……! やめて……っ!」


迫りくる久我の手を見つめた。

まさにその刹那。


一瞬、光の世界が停まった。


自分の尊厳を汚そうと、

ねばつくような意思を持って伸ばされる、

あの冷たくて空っぽな化け物の手。


光はその拒絶したくなるような

手のひらを見つめた。


(やっぱり……あの時と同じ手……


驚くほど冷たくて、驚くほど空っぽな……)


何故か脳裏を過ったのは

あの時繋いだ、『小さな手』の感触。


商店街で助けた、

あの小さな迷子の男の子。


ギュッと握りしめたとき、

驚くほど温かくて、愛らしくて、

生きている実感が詰まっていた、

るい君の手。


(あぁ……


あの子のあの温かい手が、

いつかこんな風に、

空っぽになってしまったら嫌だな……)


光の意識は、極限の恐怖のなかで、

不思議なほど凪いでいた。


目の前で自分を

喰らおうとする凄惨な怪物。


その醜悪な手のひらを見つめながら、

光の胸の奥に、

すとんと切ない答えが落ちてくる。


(この人の手も、

本当は……生まれたときは、

あの子と同じように

小さくて、

温かい手だったんだろうな……)


誰にも愛されず、誰にも守られず。


世界から

暴力を与えられるたびに、

その温もりをひとつ、

またひとつと傷つけて、

削ぎ落として……。


その果てに

こんなに冷たくて、

誰も愛せない

空っぽな化け物に

なってしまったのだろうか。


閉じるはずだった光の瞼が、

ゆっくりと開かれる。


久我を見つめるその大きな瞳の奥には、

羞恥も、屈辱も、恐怖すらもなかった。


そこにあったのは――


夜の静寂よりも深い、

ただ静かな『哀れみ』の表情だった。


久我は光の顔のすぐ近くで、

その縦に裂けた眼球を、

期待にギラギラと輝かせていた。


ここから始まる極上の食事。


この可憐な少女が絶望に泣き叫び、

恐怖に顔を歪ませる、

その最高に甘美な負の感情を

味わおうとして、

久我の背中の妖肢が、

グチャリと捕食のための

巨大な『口』を開く。


――ん……?


久我の動きが、

奇妙な違和感とともに

ピタリと止まった。


口を開いた妖肢が、

光の周囲の空気を

吸い込んでも、吸い込んでも、

そこに期待していた「味」が一切ない。


恐怖という名の、

極上の甘みを持った最高のご馳走が、

どこを探しても見当たらなかった。


驚きと苛立ちのまま、

久我が光の顔を間近で覗き込む。


光の大きな瞳からは、

大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、

その白い頬を伝っていた。


けれどそれは、

恐怖に怯えた涙ではなかった。


ただ、目の前の男の、

底の抜けたような圧倒的な孤独を、

たまらなく哀れんで流した、慈愛の涙。


久我の表情が、

一瞬にして、この世の終わりのような

激しい怒りに歪んだ。


「――なんで、

お前がそんな顔してんだよッ!!」


静まり返った荒川の公園に、

耳を切り裂くような男の絶叫が轟いた。


久我は光の両手首を吊るし上げたまま、

激しい怒りと、世界のすべてに

拒絶されたような焦燥で、

顔中の血管を浮き上がらせて怒り狂う。


「ふざけるな、ふざけるなッ!


なんで俺をそんな目で見る!


お前だって、俺と同じだ!


希の血を引いた、

妖魔の血が流れた

化け物だろうがよ!!」


化け物の血。


その言葉で、記憶の底にある

小学生になったばかりの頃の

光の思い出が鮮烈に甦った。


『ねえ、

光ちゃんのお母さんってさ……

妖魔なんでしょ?』


『じゃあ……

光ちゃんも、化け物なの?』


周囲の子供たちから浴びせられた、

無垢で残酷な拒絶の言葉。


光の瞳が、忘れていたはずの

幼き日の痛みに激しく揺れる。


あの日と、まったく同じ言葉。


ずっと胸の最深部に

深く沈めて鍵をかけていた、

古い傷口をナイフの先で

無理やり抉られたような、

鋭い痛みが光の心を襲う。


でも――。


その絶望の暗闇のなか、

脳裏に、もう一つの『声』が

優しく響き渡った。


『……お前のお母さん……


綺麗で、格好いいよな』


お母さんに救われた少年の声。


光は一瞬だけ、

その大きな瞳を大きく見開いた。


(あぁ……


そういうこと、だったんだね……


……私も、知ってる)


たった一言で、

自分が世界の外側にいるみたいに

思えてしまうことを……


『……お前のお母さん……


綺麗で、格好いいよな』


あの日。


もし、あの名前も知らない少年が

そう言ってくれなかったら。


もし、お母さんがいなかったら。


もし、誰一人として

自分の手を握ってくれなかったら――。


光は、目の前の男を見つめた。


(……この人には

いなかったんだ……


たった一人も……)


その瞬間。


光は初めて、

久我累という怪物の奥にいる、

誰にも手を握られなかった

一人の人間を見た。


その絶対的な孤独と、

生まれて初めて焦がれた

『希』という光を、

捕食することでしか

自分のものにできなかった、

この男の悲しい境界線。


光は、久我のすべてを

理解したわけではなかった。


けれど、その空っぽな掌が、

ずっと誰かの温もりを

求め続けていたことだけは、

分かってしまった。


そして――

彼女は、静かに、優しく目を閉じた。


(……寂しかったんだ

この人は、ずっと……


誰かに、愛してほしかったんだ……


……もう……


いいよ。


あなたを、怖いと思わない。


それでも私は、

あなたを嫌いにはなれない。


もし……


私の中にあるものを奪えば、

あなたのその寂しさが

少しだけ消えて――


もう、あやかを傷つけないでくれるなら……


……抵抗しないよ)


怒りと憎悪に囚われた

久我のすべてを受け入れる、

絶対的な覚悟。


光の心から完全に恐怖が消え失せ、

代わりに、世界を優しく包み込むような、

底無しの無条件の愛が満ちていく。


「喰ってやる……!


その澄ましたツラごと、

根元から擦り潰して

喰らい尽くしてやるッ!!」


久我は完全に理性を失い、

光の恐怖の感情を

無理やりこじ開けようと、

開ききった妖肢の口を

狂暴に迫らせた。


鋭い牙が、

光の白い肌へと

届きそうになった、


その刹那――。


『――フワリ。』


世界が、息を呑むほどに純粋な、

真っ白な輝きに包まれた。


どこからともなく溢れ出した

無数の純白の光の粒子が、

吹雪のように激しく渦を巻き、


光へと襲いかかろうとしていた

久我の身体を、

後ろから包み込むようにして、

優しく、強く、抱きしめた。


「な、んだ……これ……っ!?」


久我の身体が、

その輝きの抱擁によって

一瞬にして完全に硬直する。


その純白の粒子の渦のなかから、

今でも鮮明に思い出せる、

鈴の音を転がしたような、

あの歌うようなお母さんの優しい声が、

優しく、けれど

絶対に譲らない強さを持って

夜の風に響いた気がした。



『――累くん。


あなたのその苦しみも、

寂しさも、私には分かる……。


……けれど、この子だけはダメ。


絶対に渡さない。』



「希……?


希なのか……!?」


久我が狂ったように叫ぶ。


白い粒子は、ゆっくりと久我から離れ、

空っぽな手は、まるで追い求めるように

粒子を掴もうともがく。


しかし、粒子はまるで砂のように、

サラサラと、その手をすり抜けていく。


無数の白い粒子は、光の背中で

猛烈な濁流となって渦巻いた。


『――ドクゥゥゥン!!』


肉体を内側から造り変えるような、

強烈な生命の脈動。


夜の闇を優しく照らす、柔らかな輝き。


粒子の一つ一つが

淡い光の花びらのように舞い上がり、


公園の木々を幻想的な銀白色に染めていく。


その中心から、

淡く青い天使の片翼がゆっくりと、

しかし確実に展開した。


翼は透き通るような淡い青。


まるで春の夜空を薄く溶かしたような、

儚く優しい色合い。


羽の一枚一枚に細やかな銀色の光脈が走り、

夜風に触れるたび、鈴のような

澄んだ微かな音を立てて震える。


翼の端から零れ落ちる光の粒は、

夜空に溶けゆく星屑のように輝き、

一瞬だけこの暗い公園を

夢の中の聖域へと変えた。


その淡い青の輝きは、

絶望に染まった彩花の頰を優しく照らし、

久我の濁った瞳に初めて

明らかな動揺を浮かべさせた。


「光ちゃん……


何なんだよ?……その妖気……


……まるで……希じゃないか……」


妖肢が熱を帯びた光に触れ、

ビクリと痙攣しながらわずかに緩む。


「なんでだよ……あいつは……


死んだはずだろ……」


光の身体を包む淡く神聖な輝きが、

二人の少女にだけ、

静かな希望の色を灯していた。


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