下町買出し紀行(4月の終わりに)。
手帳のおつかいメモのとおり買い物を済ますと、私たちは寮に向かう。春一番が吹く頃には、この地域も桜の花びらで辺り一面が染まるだろう。
並木道を過ぎた楽器店に入り、先輩は交換部品の品定めを始めた。私は二階にあるピアノコーナーで時間を潰した。
「あの黒人の男の子、上手だな。ここのスクールの生徒かな。」私はそうつぶやく。
椅子に座ってその子の演奏に耳を傾け、しばし緩やかな時間を愉しむことにした。
ここ暫く演奏会どころかコンサートホールにすら行っていない私には、その時間はソロライブの特等席にいる様に感じた。
「梅子さんは、この店ははじめて?」レジで支払いを終えた先輩が私に尋ねる。
「学生時代に友達と何度か来たことがありますよ。学園祭前の準備とかで。」
「そうなの。やっぱりお友達と演奏してたりしてたんだ。」
「一応誘われたりはしましたけど、ウチは断り続けてました。リズム感も無いし楽譜読めないから。」
お互いに演奏の邪魔にならない様に小声で会話する。『やっぱり』って、私そんな風に見えるのかな?
「先輩さっきの曲、有名なんですか?」
曲が終わり私は尋ねる。
「タイトルは忘れたけど、ショパンコンクールでよく演奏されてる曲みたいね。」
「そうなんだ。いいな。」
次の曲が始まると私たちはそっと席を立ち職場へと向かう。水路脇の菜の花が風に揺れ心地良かった。
柔らかな陽射しが辺りの街並みを優しく照らしている。玄関のドアを空け中に入ると窓を開けて換気をした。
部屋の掃除の準備をして、倉庫と冷蔵庫の補充を終えるとお昼過ぎ。
「食事、何が希望とかあります?先輩。嫌いなものがあったら遠慮なく言ってくださいね。」
「特にないけど、気にしなくてもいいわよ。私に気を使わなくても。」
私たちは簡単なブランチを済ませると、仕事に取り掛かった。
「こんな感じでいいかな。」
先輩のお墨付きを貰って、掃除の後片付けをはじめる。細かい所は目を瞑って適当に終わることができた。
「徹底的とかじゃないんですね。」
「清掃業者でもこんなものよ。きりがないし、毎日やってれば気になる程度の汚れなんてあっという間になくなるから。」
管理人室へ戻り、私たちはお茶にする。
「先輩は、どんな楽器を演奏するんです?」買い出しの際に気になったので訪ねてみた。
「ビオラとチェロ。ほら、あそこにバイオリン飾ってあるでしょ。あれのちょっとだけ大きいサイズの楽器。」
そう言って、彼女は弓で演奏する仕草をした。
「子供の頃に習ってたとか?」
「ううん、興味があったので見様見真似で初めてみたの。だから人に聞かせる様なレベルにはならなくてね。」
「勿体ないな。楽譜が読めて、弾けるならもっと聴いて欲しいとかなりませんでした?」
「そういうのはなかったな。楽器弾けるって相手に知られると、大抵はつまんない曲をリクエストされてうんざりするって、よく言われるし。」
「聴いてみたいな、先輩の演奏。」
「もっと時間が経てば、そんな時が来るかもね。私も暫く弾いてないから。」
時間は夕暮れ時。今日は、そろそろ定時になる。
「買い出しや、その他で今日わからないところとか無かった?」
「正直、今は何がわからないかすら、わからないですね。」
「そっか、そうよね。初日だもんね。」
今日一日で経験した内容をノートにまとめて先輩に見せると、先輩はそれに目を通してカラーペンでポイントを追記する。
思いのほか先輩との距離が近づいた気がする。私が楽器が弾けないにせよ、音楽という共通の話題ができたことで先輩も安心したのだろう。
「梅子さん、初日だから疲れたでしょう?」
部屋にいた猫たちは、先輩の座っている辺りに群がり遊んでほしそうな様子だ。
「もう、仕事上がっていいわよ。私は寮にいるみんなの様子を見てから帰るから。もし良ければなんだけど。あなたあのバイオリンで遊んでみない?」
「でも、先輩が大切にしてる楽器なんでしょ。高価そうだから。」
「あら、そうでもないわよ。バイオリンなんて今はギターよりも安いのいくらでもあるんだから。あれも数年前に不要になったって押し付けられた一つだし。」
先輩はそう言うと黒いハードケースにバイオリンの道具一式をしまい、練習用のディスクと一緒に買い物に使った紙袋に入れて私に薦めた。
私は挨拶とお礼を言って職場と後にする。今頃、家で兄妹たちが私の土産話を待っている事だろう。




